「じゃあ、皆で競争しよ! 先にあそこまで辿り着いた人が勝ちだから!」
当時七歳だった私は、マリアやルーシェと一緒に城内のプールで泳ぐ事となる。二人が浮き輪を使って水上で浮いているのに対し、水泳が得意な私は浮き輪を使う必要が無かった。
スペードの形をしたプールの中で遠方を指差すと、マリア達が「えー」と不満を漏らす。
「明らかに貴女が勝っちゃうじゃない!」
「シェリー、ずるい……」
「良いから行くよー!」
私は彼女らの声を無視し、クロールで泳ぎ始めた。
全身が冷たい水に包まれるも、四肢を駆使して前へ進む。
ライバルたちを押さえる優越感が私を動かし、独走で突き進ませる。後ろではルーシェが「待ってよー!」と叫ぶけど、私の本能は留まるところを知らなかった。
ゴールまであと少し。
端に届きそうな刹那──
誰かが足首を掴んできた。
ううん、正確に言えば『誰か』ではない。『何か』だ。
冷たい感触が私を捕らえるせいで、水中へ一気に引きずり込まれる──!
いったい何が起きたのかわからぬまま、肺が圧迫されていく。
ルーシェ、マリア、アイリーンさん、ルドルフ兄さん……。
誰でも良いから、私を助け
「っ!!」
右の脇腹に走る激痛。
そして霞む視界の中で襲ってきたのは──
一体のドラゴンだ。
まさか、清の邪神……!?
この時期になれば、巫女部隊の人たちが毎年清めてくれるはず。それなのに、なぜ此処に現れたのだろう。
わからない。
わからない。
ずっと楽園だと思っていた場所が地獄に一転。既に身体の奥まで冷え切っていた。
ああ、このまま果ててしまうの?
やがて視界が白くなり、見知らぬ世界が形成されていく──。
目の前で笑みを浮かべる人魚。
けれど、彼女は私の首を両手で掴み、この身体を水底へと導こうとする。
こんなの経験した事ないのに、五感がはっきりと憶えている。
少女たちの姿がどんどん遠のき、陽が容赦なく水中を照らす。この青く美しい世界の中で、私という感覚がどんどん失われていく
──はずだった。
彼女らの声が聞こえる。
私を呼ぶ声が聞こえる。
『『──!』』
『──ちゃん!』
『──さん!』
『──……』
私は……誰……?
君たちは、誰なの……?
ピンクの髪を二つに結ぶ少女が、手を差し伸べている。瞳を潤ませ、何度も私の名前を呼ぶ。
『──ちゃん! 此処で死んではダメ! あなたがいなくなったら、誰がこの世界を救うの!?』
クレア。
その愛らしい顔立ちと共に、彼女の名が脳に記憶されている。
彼女はいつも私の傍にいてくれた。
親友を置いて、水底で最期を遂げるの……?
……違う!
此処で死にたくない!!
諦めないで、私!
力を……振り絞って!!
《この世界に──奇跡が起こらんことを!》
光が私の身体を包み込み、人魚の身体が黒き花弁へと姿を変える。
全身に血が巡り、
水流が私の身体を押し上げ──
「……はっ!」
それまで、自分の身に何が起きていたのか判らずにいた。
いつの間にか水上で浮かんでいて、呼吸だって問題なく行える。
意識が戻って辺りを見回す中。
近くで何かが浮かんでいる事に気づく。
「ルーシェ……!?」
目を開けたまま、仰向けで打ち上げられた少女。
さっきまでの減らず口は静寂に飲まれ、賑やかな空気はとうに凍りついていた。
「お嬢様!」
衣服を着たままやってくる二つの影。それは、アイリーンさんと執事さんだ。執事さんは人形のように動かぬルーシェを抱きかかえ、端まで泳いでいく。
その一方で、アイリーンさんは私に手を差し伸べてくれたはずなのに……握り返せなかった。
嘘だ。どうして起きないの? ただ意識を失っただけだよね?
お願い、ルーシェ。目を覚まして。私を驚かすための冗談だって言ってよ……!
「ルーシェ!! ルーシェエェェエエエ!!!!」
「ルドルフ様、ご令妹様はもう……」
「……こんなの、デタラメだ……全部ぜんぶ、あいつが……」
その『あいつ』という単語は、邪神を指していると思っていた。
……私が、兄さん達に近寄るまでは。
「ルドルフ兄さん、救護を呼べばきっと……」
「触るな、化け物め!! お前のせいで、私の妹が死んだんだっ!!!」
この手を肩に添えようとしたけど、彼はそれを払い除けた。
いま目の前にいるのは、心優しいルドルフ兄さんではない。大切な家族を喪い、私に憎悪をぶつける一人の少年だ。
彼の剣幕と叫喚は私の小さな心を引き裂き、感情を失わせる。
映るもの全てがモノトーンに変わり、最初から私が居なかったかのように時だけが進んでいく。
「落ち着いてください、ルドルフ様!! これは彼女のせいでは──」
「うるさい! シェリーは力を使って、ルーシェを生贄にした! 君たちも見ただろ!?」
「……ルドルフ、様……」
執事が止めに入っても、アイリーンさんが名前を呼んでも、彼の怒りが鎮まることは決して無い。
「シェリー……」
例えマリアが私のことを呼んでも、身体が全く動かなかった。私の肩に温もりが載っても、生きた心地が全くしなかった。
何のために生き延びたんだろう。
こんなことなら、あのまま私が死ねば──。
「マリア、今は……」
「……わかった」
幼馴染は私の伝えたいことを察して、ルドルフらと一緒にプールを後にした。こうして私は一人、輝く水面を呆然と見つめる。
私には、人間には無い力がある。
魔術と違い、神に匹敵する禁断の術技。使役者次第で奇跡にも災禍にも成り得るもの。傷を癒やす術から、天地を揺るがす術まで。遥か昔、アリス・ミュールが流行病を撲滅した時の力に近しいもの。後天的に得られぬ力。
お母さんは源を“霊力”と、術技を“霊術”と教えてくれた。
『本当に危ない時だけ、あなたの力を使いなさい。それがお母さんとの約束よ』
ずっとずっとそう教えてくれたのに、どうして好きな人に『化け物』と言われなきゃいけないの?
女神と違って魔女として生きなきゃいけないの?
お母さんは、こんな事をずっと経験してきたの?
だから本当の姓を隠さなきゃいけないの?
もう立つ力など残っていない。
三年前のようにまた視界が滲み、ボロボロと涙を零すしか無かった。
「ルドルフ兄さん……みんな……ごめんね……」
これが初めての恋だった。
けれど、もう人間に恋してはいけない。
だって私は──同い年を殺した化け物だから。
これまでの幸せが嘘のように、学校生活は一変した。秋になれば両親と一緒に温泉の里へ向かっていたけれど、もうそれもままならない。水中に対するトラウマを話せたけど、他人との接触には消極的だった。
マリアと出会った頃みたいに、知らない人に話し掛けることはできない。マリアたちとお話することもできない。少しでもそんな事をすれば、また誰かを巻き込んでしまうから。
時には彼女から手紙が届くこともあった。『また一緒に遊ぼう』って。でもルドルフ兄さんにとって私は邪魔だと思うし、返事を書く気になれなかった。
そもそも、王室の皆とも距離を置きたかった。『庇ってくれなかったから』なんて理由じゃない。『今度は自分の霊力でマリアを殺してしまうかもしれないから』って、気が気でならなかったの。あの子には散々酷いことをしてるのに、どうして私を気に掛けるのか全く判らない。
ひたすら無視すれば、あの子も判ってくれると思っていた。
でも……月に一度の手紙は変わらず届いた。
時はラピスラズリの月。しんしんと雪降る夜の事だ。
懲りた私は、絶交の旨を示すべく筆を取っていたが──お父さんが部屋のドアを叩いてきた。どうやら、誰かが私に用があるらしい。
渋々と階段を降り、玄関のドアを開けた時。
コートに身を包むアイリーンが深刻な表情で佇んでいた。
「ご無沙汰しております、お嬢様。夜分遅くのご訪問で恐れ入りますが、今すぐ馬車にお乗り頂けますでしょうか」
それは、二十四のラピスラズリ。
私が八歳になる直前の出来事だった。
(第三節へ)
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