この日は、シェリーと一緒に東の国へ行く約束だ。
陽射しの強い昼下がり。俺たちはリヴィ行きの国際列車に乗るべく、駅前で待ち合わせしていた。和装姿の女性が駅に向かう光景を、この短時間で数回は見ている。以前ヒイラギから聞いたが、あの木綿の和服を“浴衣”と呼ぶそうだ。
行き交う人だかりをぼんやり眺めていると、蒼い影がこちらに近づいてきた。
「ごめんなさい! 待ってました?」
目の前に現れたのはまさに浴衣姿の恋人で、小さなバッグを提げている。藍の生地には花々が散りばめられ、幅広な帯には空色のコサージュが付いている。足元もサンダルとは違う木製の履物で、足の甲の上で一輪の白い花が咲き誇った。
いつもの下ろし髪だって、今日は綺麗に結われている。所々で編んだように見えるが、どれくらい時間を掛けたんだ?
とにかく今の彼女には趣があって、思わず溜息が出る程に綺麗だ……。
「あっ! 私が遅くなったせいですよね……本当にすみません……」
「いや、そうじゃない!」
溜息をつくタイミングが悪かったせいで、苛立っているように映ったのだろう。罪悪感で顔を歪めるシェリーに対し、そっと肩を置いてフォローする。
「見惚れちゃっただけだ」
「……もう、またそんな事言うんですね」
二人きりでは俺に懐く彼女だが、人が多い場所だとすぐに照れる。まあ、そこもまた可愛いんだけどさ。
「さて、そろそろ乗ろう」
「はい!」
いつもと違う姿だからか、今から心が躍っている。シェリーの右手にさりげなく左手を絡めると、彼女も無言で合わせてくれた。
出国審査を済ませた後はいよいよホームへ。蒸気機関車が煙を蒸しつつ、ゆっくりと止まる。俺たちは車内に入ると、空いてる座席に座って暫し見つめ合った。
シェリーも俺に目線を送るが、早くも顔を逸らしてしまう。その際、髪を飾る紺の花が揺れて細い首筋を見せた。此処は公衆の面前だと云うのに、赤く染まる頬と相まって口づけの衝動に駆られそうになる。
「そ、そんなに見ないでください……」
「いいだろ、別に」
汽笛と共に列車が動き始める中、滅多に拝めない彼女の浴衣姿を見て楽しむことにした。
シェリーの口数も増えた頃、機関車は既視感ある景色を素早く横切る。今見える景色はリヴィだ。新緑の木々を見つめていると、ヒイラギとの戦いを想起させる。
「……ベレさんが銀月軍団の一人と知ったときは、とても驚きましたわ」
「あいつなりの考えが、強さに表れていたな。ヴィンセントもルーシェも消えた事だし、あっちの戦力が少し鈍ったんじゃねえか」
「そうだと、良いのですが……」
ヒイラギが魔族の血を引く以上、俺らを凌駕する程の力を持っているのは事実だ。もし今も配下であれば、被害は今より大きかったに違いない。
『戦力が少し鈍った』とは言ったが、奥の手がある事も考えられる。なんせ、この広大なティトルーズ王国を支配するには四人の手下じゃ足りないからだ。
その時、機関車の走行速度が緩やかに落ち、殺風景なホームが見えてくる。シェリーはホームに視線を向けたまま、俺に話し掛けてきた。
「そういえば、一旦この国で降りるんでしたっけ?」
「ああ。次は入国審査だからな」
リヴィにはあまり良い思い出が無いが、此処は仕方あるまい。
機関車が停まって乗客が出入り口へ流れる中、俺らも紛れてホームへ降り立った──。
入国審査が無事に終わり、いよいよ東の国行きの国際列車へ。まだ青空が広がるものの、この頃には陽が西に傾きつつあった。
「わぁ……! 私達の国には無い建物がいっぱい並んでいますよ!」
「不思議な光景だよな」
幾重にも重なった塔や、歴史あり気な屋根瓦が多く立ち並ぶ。もうこの国に足を運んだのは何時ぶりだろうか、初めて訪れたような感覚である。窓に映り込むシェリーは瞳を輝かせ、一つ一つの建物を目で追い続けた。
「もうすぐ着く頃かもな」
「はい! とても楽しみですわ!」
空の色が蒼穹から黄金に変わる頃、ようやく東に辿り着いた。二度目の入国審査が過ぎた時、俺の心の中が安堵で満たされる。
しかし、これからが本番だ。左右には異国の文字で書かれた屋台が立ち並ぶ。俺たちは事前に蓄えてきた僅かな知識を頼りに、回ってみることにした。
「えっと。“焼きそば”に、“お好み焼き”……色々ありますね」
隣を歩くシェリーは、食べ物と認識できる単語を声に出していく。
直後、おぞましい魔物を描いた赤い看板を目の当たりにする。俺は思わず恐怖の声を漏らし、足が凍りついてしまった。
「どうしました?」
「あれ……」
俺が指差す露店には『たこ焼き』と書かれ、隣には小さなクラーケンが描かれていた。
クラーケン──それは巨大な頭を持ち、無数の触手を生やす海の魔物。黒い酸で鎧を溶かし、相手の不意を突いて触手で窒息させるのがヤツのやり方だ。一隻の大船をも沈めるヤツが、何故この国で食い物になってんだ?
「あっ、アレックスさんは気になるのですね! 私も同じ事を思っていましたのー!」
「いや、俺は焼きそばが……良い……」
こいつはクラーケンと戦った事が無いのか? 興味深そうに屋台を見つめるシェリーも恐ろしいもので、さっきから余り声が出ない。
「私、買ってきますからちょっと待っててください!」
「えっ」
シェリーが否応なしに駆け抜けるなんて、実に珍しい事だ……。とりあえず何かあっては危険なので、彼女と一緒に二、三人程の列に並ぶ事にした。
事前に両替してきた数枚の硬貨で、例のモノを買う。
すると、八個の茶色い球体を乗せた紙の小舟が現れた。その球体には色の濃いソースやマヨネーズ、パセリのような緑の粉が張り付く他、二本のピックが刺さっている。小舟を掌に載せると、火傷しそうな熱が皮膚を伝った。
「まいどありー。熱いから気をつけろよ!」
「はい、ありがとうございましたー!」
店番に挨拶するシェリー。一方で、俺の胸中にはある疑問がずっと潜んでいた。
想像していたのと全然違う。てっきりクラーケンの丸焼きだと思ってたから、なぜ『たこ焼き』なのかさっぱり判らないでいる。
本当は何処かで腰掛けて食べたいところだが、適切な場所が見当たらない。周囲の人たちも食べ歩きしてるようだし、俺達も倣おう。
シェリーが嬉々として一つの球体をピックで持ち上げ、一気に口の中へ放り込む。
「おい、熱いから気を付け……」
「はふぅ!!」
あー、さっそく悶えてやがる。それでも彼女は何とか噛み砕き、飲み込んだようだ。今にも泣きそうな目だし、きっと熱すぎて味が判らないはずだが──。
「これ……美味しいですよ!」
「ホントか?」
「食べてみてください! きっとお好きな味ですわ!」
「お、おう……」
言われるがままに、もう一本のピックを使って異形を持ち上げた。それは大きく口を開けないと食べられないようなサイズで、天にも昇る白煙が熱さを訴える。
ええい、ままよ! 口をすぼめて何度か湯気を追い払ったあと、思い切って放り込んでみせた。
……熱い。確かに熱い。だが不思議な事に、食感や味覚をはっきりと認識できた。その練り物は噛めば噛むほど甘く、甘辛なソースと見事調和する。
そしてついに、弾力性のある何かを噛み砕く事となる。もしかして、これが“タコ”と云うヤツだろうか。それがクラーケンと同じものかはさておき、確かに美味い。シェリーが二個めに手を伸ばすのも納得だ。
「ん〜! 美味しーっ!」
彼女が嬉しそうに頬張る傍ら、俺も二個目、三個目と手を伸ばす。八個並ぶたこ焼きはたちまち胃袋へ消え、程よく腹が満たされるのだった。
それにしても、此処は異国情緒が溢れる国だ。まず服装から違うし、人々の物腰が柔らかく感じる。遠くに見える木造の鐘楼は、時刻を報せるためのものだろうか。また彼女と一緒に遊びに来るのも悪くない。
「ねえ、アレックスさん! 次は“かき氷”が食べたいです!」
シェリーが見つめる先は、シャーベットを描いた露店。俺たちはそこへ立ち寄り、器に降り積もる氷の山を一つ受け取った。頂に注がれたシロップから、苺の香りがほんのりと漂う。『早く食べたい』と逸る気持ちに駆られた彼女は、一足先に近くの椅子に腰掛けた。
左手でガラスの器を持ち、スプーンで氷塊を掬うシェリー。
彼女が食べるかと思いきや、俺の口元に差し出してきた。
「はい、あーん」
その白い塊が口の中に入ったとき、シャリシャリという歯応えと冷気が入り込んだ。苺味とは云うもののジューシーさはあまり無く、砂糖で作られたような味だ。それでも、この暑くて湿った空気を忘れるには十分である。
何よりも、シェリーが自ら食べさせてくれたのが嬉しい。一人で食べても美味いはずだが、彼女のおかげで尚更そう感じるのだ。
「ずっと、こういう事ができたら良いよな」
「え?」
「いや、こっちの話だ」
空が暗くなるに連れ、四世紀前に味わった切なさが自身の心に圧し掛かる。願わくば、この無邪気な横顔をずっとずっと見ていたいさ。
そんな淡い希望を懐きつつ彼女の頭に手を添えると、彼女はもう一度「あーん」と差し出してきた。再び染み渡る冷たさが哀愁を打ち消し、俺の頬を緩ませる。
「えへへ、此処の国の食べ物はとても美味しいですね!」
「そうだな」
不安を打ち消す程の朗らかな声音。
それは、今日がまだ始まったばかりであることを伝えるのだった──。
(第四節へ)
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