・リュート:ギターのような形状の弦楽器。日本の琵琶に似る事から、『洋琵琶』と呼称する事もある。
私の想い 気づいてくれますか
この翼は 貴方と出会うためにある
もし貴方が求めるなら 直ちに飛び立ちましょう
私の想い 気づいてくれますか
この翼は 貴方と旅立つためにある
もし貴方が求めるなら 何処にでも飛び立ちましょう
教えて下さい
貴方は今 どちらにいますか
──ティトルーズ暦二十六年、十のトルマリン。
此処は、城下町の噴水広場。広がる秋空の下、アリスはリュートの旋律に想いを載せていた。身を隠すためのマントは何処へやら、長いスカートの裾を揺らして優雅に佇んでいるではないか。
彼女の背後で腰掛ける細身の青年に視線を移す。尖った耳に黄金の長髪・端正な顔立ち──と、彼は吟遊詩人のエルフである事が窺えた。翡翠の目でアリスをひたすら見つめ、細い指先で弦を愛撫する。女の多くがそんな彼に見惚れるが、俺の胸中には危機感が沸々と湧き上がっていた。
アリスのヤツ、まさかこの四日間『ずっと吟遊詩人と一緒にいた』とかじゃねえよな……。この詩も本当はそいつに捧げたもの──とかそんなオチは勘弁してくれよ?
とうとう嫉妬心に支配された俺は、肝心の旋律が頭の中に入ってこなくなる。歌声は確かに綺麗だ。……でも、その詩が誰に向けたものか判らない限り、心に安らぎが訪れる事は無い。
そんな風に考えていると、歌が終わったようだ。誰もが拍手や口笛を鳴らすが、複雑な心境のせいで何もできずにいた。
踵を返す者もいれば、硬貨や紙幣を麻袋に入れる者もいる。そうして次々と観客が去った時、アリスはようやく俺と目を合わせてくれた。
「アレックス、さん……!?」
「お知り合いですか?」
彼女が蒼い目を見開かせる一方、吟遊詩人が俺と彼女を交互に見る。いかにも女を虜にしそうなその声も、俺にとっては雑音でしかない。
アリスは指を揃えて俺を指すと、視線を吟遊詩人に向けてこう話した。
「紹介しますわ。彼がアレクサンドラさん。悪魔ですけど、とてもお優しいお方ですのよ」
「なるほど……。これは面妖な」
彼の面白がるような目つきに、思わず舌打ちしそうになった。だが、此処で噛み付けばアリスを不快にさせる──俺には俺なりの目的がある以上、反射的に踏みとどまった。その代わり、苛立ちを紛らすように奥歯を噛み締める。
吟遊詩人は俺の視線に気付いたのか、「ああ」とアリスに身体を向けて一輪の赤い薔薇を差し出す。
「お邪魔のようですので、僕は此処でお暇しましょう。アリス様、最高の四日間でした」
「えっ!? あ、はい……! あの、ありがとうございました!」
「こちらこそ。それではまた」
おい、『最高の四日間』って何したんだ? まさか、あの男と関係を持ったとか、そんなんじゃねえよな……?
アリスは薔薇を両手に持ち、吟遊詩人に向けてお辞儀をする。彼が去った後、真実を確かめたい余り彼女に詰め寄ってしまう。
「アレックスさん! 来てくださ──」
「あいつと何してたんだ?」
俺はきっと、凄まじい剣幕でアリスを問いただしたのだろう。
アリスに酷いことを言ってから四日間、俺は彼女を国内でずっと探し回ったのだ。時には国外やミュール島にも足を伸ばすことも考えた。でも、ティトルーズ王国が旦那の故郷である以上、此処を出る事は考えられなかった。
四日前に愛想を尽かされた可能性なんて有り得るのに、認めたくなかった。あれだけ俺と接してくれたのに、違う男と一緒にいた事を認めたくなかった。
アリスはそんな俺に狼狽の表情を見せるが、大きく息を吸うことで一変。ひと呼吸ほど瞼を閉じた後、ゆっくりと開いてみせた。瞳の奥には躊躇が見られず、何らかの信念がある事が見て取れる。
「あなたはそこで見ていて下さい」
静かで、しかし力強い声音で俺を宥めるアリス。言葉通り立ち尽くしていると、彼女は街並みに設置された花壇へ足を運んだ。粛々とした足取りで秋桜の群れに近寄り、膝を折る。
直後、アリスは思いもよらぬ行動に出た。
先ほど吟遊詩人から受け取った一輪の薔薇を、花壇の土にそっと突き刺したのである。
色彩豊かな花々が微風に揺られる中、その紅い存在は堂々たる佇まいを見せた。
ひと仕事終えたかのように、アリスは「ふう」と溜息をついて立ち上がる。それから俺の元へ戻ると、悲哀な表情を浮かべながら指先を絡めてきた。
「すみません、アレックスさん。これらは全て、あなたに捧げるためでしたの」
「え……っ?」
小さな唇から出た言葉は、俺の予想を見事打ち砕いた。
白銀の髪がふわりと揺れ、花のような香りが鼻腔をくぐる。下がった眉は俺の胸を打ち、罪悪感を更にもたらした。
「あの時……あなたにお会いできて嬉しい余り、ギルドの前で近づいてしまいました。ですが、それがあなたにとってご迷惑だった──どうお詫びすれば良いか判らなくて、あの詩に想いを添えたのです」
……この時、俺にはもう『彼女を責める』という考えが消えていた。全部自分のせいだと云うのに、なぜ詫びさせているんだ。今こそ、俺がこいつをリードすべきなんじゃないか?
何とか振り絞った声は、きっと可笑しなものだったに違いない。それでも構わなかった。こいつにさえ届いてくれれば──!
「謝らなくていい。俺が突き放さなければ、お前を悲しませずに済んだんだよ。だから……ごめんな」
「アレックスさん……」
俺は、生まれて初めて他人に謝った気がする。
華奢な肩に添えるこの手を、振り払われないだろうか──そんな不安を抱えながら口にしたこの言葉は、自分の凍った心をも溶かす気がした。
更に俺は、本来の目的を果たすべく彼女に尋ねる。
「お前に渡したい物がある」
「わ、私に……!?」
「ああ。お前さえ良ければ、ついてきてくれないか?」
「…………わかりましたわ」
それから俺たちは、人気の少ない通りを選んで歩いた。街の閑散ぶりが増すにつれ、右手が勝手にアリスの左手を絡め取る。彼女もそれに応えるように、優しく握り返してくれた。
このまま何処かへ連れ去りたい。
そうは思うものの、強引に連れ去る自分に吐き気がして実行できずにいる。普段は偉そうな事を言うくせに、こういう事になるとすぐ弱気になる──どうしようもなくダメな男だった。
街外れのちょっとした広場に辿り着いた俺たちは、近くのベンチに腰掛ける。人々の往来は多少あるものの、噴水広場やギルド付近と比べたら疎らだ。
いよいよ例の物を渡す時だ。
俺が懐から蒼いプレゼントを取り出せば、アリスは息を呑んでまじまじと見つめる。
「!? それはいったい……!?」
「開けてみてくれ。きっと気に入るはずだ」
大事そうに受け取るアリス。彼女が水色のリボンを丁寧に解き布地を捲っていくと、ラピスラズリのペンダントが現れた。薄い木の板に引っ掛けたそれは、陽の光に反射して艶めきを見せる。彼女は「えっ」と声を漏らした後、片手で開いた口を覆った。
「どうして、こんな素敵な物を……!」
「俺の気まぐれだ。後は好きにしろ」
瞳を潤ませるアリスは、とても綺麗だった。けれどあまりに眩しすぎて、俺は思わず顔を逸らしてしまう。
それにしても……プレゼントを渡すと、肩の荷が下りたように気が楽になるものだ。彼女がそれをどうしようが、もはやどうでも良くなってくる。確かに良い値段ではあったが、いずれ棄てられても──
「あの、アレックスさん」
「あ?」
「えっと……私の首に、掛けて頂けませんか?」
「……しゃあねえな。ほら、あっち向け」
このバカ女、上目遣いで頼まれたら断れねえだろ……。胸が高鳴り、ペンダントを持つ手が震えだす。そこで一旦ひと呼吸した後、彼女の首にチェーンを掛けてやる。それから両端の金具を留めた後、「良いぞ」と声を掛けた。
「あの、似合ってますか……?」
彼女が向き直った時、心臓が跳ねるような心地を覚えた。
胸元に提がる蒼い宝石は、純白な布地の上で星のように輝く。瞳に溜まる涙は真珠のようで、この太い指で拭ってやりたくなった。
「良いんじゃねえの」
その言葉が俺の精一杯だった。
張り詰めた糸が千切れるように、多くの真珠がアリスの頬を伝う。雫が指に触れるたび、何だか優しい気持ちになれた。
「ありが……とう……」
アリス、今のお前はすげえ綺麗だよ。
どんなヤツも、どんな景色もこいつには敵わない。何ならこの世の花や月ですら引け目を感じるだろう。
この際だ。
誰も見ていないうちに、こいつの唇を──
「御神子様を見つけ出せ! 周辺にいるはずだ!」
静寂を破る怒号と、駆け回る複数の足音。
遠くから放たれた声の正体は、アリスを探す衛兵たちと判断した。
「逃げるぞ」
しかし──俺が腕を掴もうとした刹那、彼女は咄嗟に手を振り払ってきた。
「ごめんなさい……!!」
ベンチから立ち上がるや、慌てて衛兵のいない方へ走り去るアリス。その言葉を最後に、この日の逢瀬は幕を閉じてしまうのだった──。
「……その嘘くせえ指輪、ぶんどってやる」
ベンチに一人取り残された俺は、右往左往する衛兵どもをただ睨むしかなかった。
その日以降、フィオーレ……いや、国内でアリスを見掛ける事は無かった。秋風に晒された皮膚が火照るまで、毎日毎日彼女を探した。
無論、キッカ平原やブリガなど彼女と会った場所にも足を運んだ。結果は察してくれ。
プレゼントを渡す時とは比べ物にならない程、絶望的な心境に陥っていた。酒に溺れる日も、誰かに当たる日もあった。……おまけに、魔物に打ちのめされる日もな。
だから、受付嬢に何度も心配された。『一緒に飲みに行かないか』と誘われたが、俺はきっぱり断った。
俺にはアリスしかいない。いや、あいつしか見えないんだよ。
どんなに好みの女が現れようが、まるで人形みてぇに手応えがねえ。
頼むよ、いい加減姿を表してくれ。どうせ此処のどっかをほっつき歩いてるんだろ?
なあ、何とか言えよ……!!
15th.Tor, A.T.26
毎日泣いてばっか。こんなんじゃ、修行できやしない。師匠に心配される程泣くなんて、何してるんだろう……。
修行も儀式も、未来に産まれてくる子のため……。皆はきっと、私が何をを考えてるか判らないわよね。でも、それが良いのかも。
だけど、最後くらいはあの人と会ってきちんとお別れしたい。
ラウクさんや皆にバレないように、どうか……
(第九節へ)
大聖女アリス・ミュールは、人族の配偶者ラウクがいながら悪魔アレックスを追いかけた。
ある過去を抱える彼女にとって、魔族は邪悪なる存在。しかし、アレックスの人情に惹かれ、ついに禁断の恋に溺れてしまう。
魔族と神族の儚き恋。
それは、いよいよ終焉の時を迎える事となる──。
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