ベッドの上で手足を広げ、無地の天井を呆然と眺める。 その天井を見つめたって、何も起こるわけがなかった。
つい先まで手にしていた小瓶も、今では床上で散り散りだ。硝子の破裂音が耳に残り、今もなお頭の中で延々と響き渡る。今ここで俺を慰めてくれるのは、窓から入り込む夜風だけだ。
季節はトルマリンの初頭。強い日差しが次第に和らぎ、城下町も栄えを取り戻した頃。柄にも無く、ある事で頭に血が上っていた。
ふと視線を向ければ何の変哲もない壁、しかし証拠は俺の右手にあった。
投げても、怒鳴っても、殴っても変わらない。
口の中に苦味が残り、手が痺れるように痛むだけだ。
思い出すのは恋人ではなく、忌々しき男の勝ち誇った顔。
彼が放った言葉の意味が、疑問とようやく結びついたのだ。
「……あの野郎、『これで効きはしまい』ってそういう事かよ」
遡ること二ヶ月。シェリーと共にミュール島へ向かい、彼女の霊力を極限解放した後の事だった。
ジャックの画策によってシェリーと引き離された末、彼女は不死の薬を投与されてしまう。城下町にあるセレスティーン大聖堂で救出するも、彼女はティトルーズ城での療養生活を余儀なくされた。
その間、俺は何度もシェリーのお見舞いに向かった。接吻する日もあれば、添い寝をする日もあった。
だが、彼女は以前のようにネグリジェを脱ぐ事は無い。彼女に対し興奮しなかったわけではないが、何かを隠している気がしたのだ。それも、俺たちにとって大きな出来事をな──。
『あなたとキスをする度、不思議な気分になりますわ。まるで、何らかの力が消えるようで……でも、何が消えたのかわかりませんの』
『その時だけか?』
『いいえ、数週間も。ですが、いつの間にか戻っていまして……』
これはサファイアの月末での会話だ。いつものように唇を重ねた後、シェリーはベッドの上でそんな話をしてきた。
彼女は『話さねばならない事がある』と言ったが、どうも重い話のようで一向に口を開かない。だからこそ、少し知れただけでも嬉しかった。
結局『接吻で何が失われるのか、それがいつ戻るのか』までは判らぬまま。それでも手掛かりを聞けた俺は、後日ある場所を訪問した。
それは、大魔女デルフィーヌ・アルディが経営する魔法専門店。小切手と引き換えに得たのは、今紫の液で満たす小瓶だった。
俺がその薬を手に入れた際、彼女はこう口にする。
『不死の存在を望むなら、断末魔を越えよ。もし訪れなければ、お前にその資格はない』
断末魔とは、副作用である全身の激痛を指すのだろう。不死の存在になった全ての者が乗り越え、永遠に生きる。そこに例外は無く、副作用が無ければただ売り手に大金を恵んだだけの話だ。
果たして俺に断末魔は訪れたのか。
床上で散らばった破片が、その答えだ。
俺と彼女の愛は、いずれ終わりを迎える。
それもどちらかが後を追って──ではなく、彼女は一生現世に取り残されたままなのだ。
だから、生半可な理由で死ぬ事はできない。
『彼女と永遠に生きる』という俺の望みは、今ここで打ち砕かれた。
──魂を弄ぶ、あの男によって。
「……クソったれがぁぁああああぁぁ!!!!!」
怒りに身を任せ、再び壁を殴ろうとした時。
何かがテーブルの上で小刻みに振動し続ける。
その正体は、再び国王が支給してくれた通信機。僅かな希望が俺をテーブルへ引き寄せ、正方形に折り畳まれた機械を開かせた。
液晶に記された名を見て、すぐに画面を押下。縦長の端末を耳に当てると、何度も聞いたあの声が耳に届いた。
「もしもし……?」
「…………シェリー、ごめんな…………」
罪悪感で頭が下がり、破片だらけの床が視界に飛び込む。シェリーは俺の言葉を察したのか、息を呑んでは暫しの無言が続いた。
そして彼女は、意外な言葉を俺に放つ。
「……判っていますわ。あの瞬間を、私も見てきましたから」
「お前、意識を失っていたんじゃ……?」
「ジャックは、あなたが生死に彷徨う様子を脳裏に映しました。私が棺に囚われていたのを良い事に」
「……どこまで惨いんだ、あの蛇野郎は」
蘇生で人が弄ばれる様を見れば、心に相当なダメージを負うだろう。つまり、彼女も『耐性について知っていた』という事だ。
畜生、何もかもあいつの思い通りって事かよ……!!
「私は……あなたが生きていれば、それで嬉しいから……」
「バカ、無理に励まさなくて良いんだよ……」
「でも、今は泣いてなんかいられないのよ……!」
……思いっきり泣いてるじゃねえか。それに、感極まっていつもの敬語が抜けてやがる。
だけど、彼女がそう言う理由も察していた。今はまだ戦禍の最中。俺たちの標的である銀月軍団とは、事実上の一時休戦状態なのだ。いつヤツが襲撃してもおかしくはない。
重苦しい空気を和らげるように、シェリーは言葉を続ける。
「ようやく、落ち着きを取り戻しました。リハビリテーションだって、マリアとアイリーンさんのおかげで順調でしたし……ですから、今できる事を沢山したいんです」
「その、“何らかの力”ってのは戻ってきたのか?」
「いいえ……ですが、これ以上休んではいられません。それに、マスターの事も気掛かりですの」
マスター。それは、かつて俺の師匠でもある狼男ランヘルの事だ。防衛部隊を辞めて酒場の店主として働いていたが、ペリドットの月に彼もセレスティーン大聖堂に連れ去られた。
そこで俺は、満月で暴走した彼と対峙。右眼を潰したことで彼の暴走は落ち着き、現在は入院しているそうだ。
先程の事があった以上、正直乗り気ではない。しかし、彼女の言う通りできる事は今のうちにしておいた方が良いだろう。
だから俺は「そうだな」と答え、彼女の誘いに応じる。
「以前話したように、俺が彼を傷つけたんだ。後ろめたいが、一緒に行こう」
「はい! きっと判ってくださるはずですわ」
シェリーのヤツ、まだ心が落ち着いてないと云うのに気を遣いやがって……。そんな彼女の事も労りたいし、早速いつ向かおうか。
「お前の都合の良い日はいつだ?」
「その……明日は如何でしょう? マリアが、私達のために馬車を手配して下さるそうですし」
「良いぜ。仕事をくれたのも彼女だし、ついでに伝えて貰えると助かる」
「勿論ですわ。それに、あなたと一緒に過ごしたくて」
「同じ事を思ってたよ。じゃ明日は見舞いに行った後、俺の家でゆっくりしよう。夜はお前の好きな飯屋にでも行こうぜ」
「ええ……! それでは、よろしくお願いしますね」
俺と彼女の通信はこれで終了した。
遺憾が依然として残るものの、俺は再び生かされている。情けないが、まずは部屋の掃除から着手する事にした。
〜§〜
翌日。俺とシェリーは馬車でランヘルのお見舞いに向かった。彼の身体は回復の最中らしく、俺たちは安堵する。
程なくして俺の家に行くと、彼女はベッドの上で甘えてきた。
ベッドの端で腰掛ける俺は、シェリーの頭を膝上に載せる。暫く髪を撫でていた矢先、彼女が珍しく俺に抱きついた。
そしてバニラのような香りを漂わせ、艶のある声で尋ねてくる。
「あの、もうしばらく抱き締めてくれませんか? ……私の心が落ち着くまで」
「良いぜ」
俺も抱き返し、痩せ細った彼女の身体を包み込む。
それから互いに見つめ合うと、静かに唇を重ねた。
今だけは、災いも宿命も忘れよう。
願わくば永遠にこうしていたい。
「アレックスさん……」
シェリーが腕を肩に回し、深い接吻を求める。互いの唾は媚薬に換わり、ついに俺は彼女を押し倒してしまった。
こうして触れ合ったのはいつぶりだろう。辛い思いをしたのに、我慢していないだろうか。
悲しいかな、心では不安が募ってもこの手が止まる事はない。結局本能が愛に飢えていたと知れば、かつてのように集中する事などできなかった。
それが表に出てしまったようで、よがっていたシェリーも俺の顔色を伺う。
「無理していませんか? もしかして……私とこうするの、本当は嫌だった……とか?」
「そうじゃねえ。お前こそ俺に良いようにされていいのか?」
「……むしろ、めちゃくちゃにしてください……。この身体は、あなたのものですから……」
嗚呼。お前のはにかむ表情も、その仕草も愛おしい。
胸元に当てた両手をすぐに払い、本当にひと思いにしてやりたいものだ。
情動が不安を上回り、男の性に身を任せる。すると彼女も甘い声を上げ、さらに求めだしてきた。
いよいよ彼女の服に手を掛け、小さな耳元で囁く。
「愛してる」と。
例の如く、シェリーもそう返してくれると思っていた。
──彼女が口にするまでは。
「私も、愛していま──」
言い切ろうとした刹那。
シェリーが突如胸を抑え、鼓膜が破れんばかりの苦鳴を上げ始める。俺は慌てて彼女から離れるが、どうして良いか判らず頭の中が真っ白になるだけだった。
「あぁっ、ぐっ……くる、しい……!!」
「どうしたんだ急に!? おいっ!!」
思わずシェリーの肩を掴むが、状況が変わることはない。
彼女の目尻には涙が浮かび、しまいには身体を仰け反らせるようになった。
落ち着け、アレクサンドラ。こういう時は──!
「耐えてくれ、シェリー! 今連れてくからな!」
彼女の身体を担ぎ、玄関へ走る。アパルトマンの階段を降りた後、数十メートル先の救護馬車停留所へ向かった。
深緑色の客車に乗り込み、室内の救急医に現況を話す。彼は回復魔法を施すべく、彼女の胸元に手を近づけるが──。
「っ!!」
魔法陣がシェリーを護るように現れ、稲妻が医師の手に絡みつく。彼は僅かの間痛みに悶えるが、すぐさま平静を取り戻した。
シェリーの苦痛は依然として続き、時に白目を剥き出す。その光景はどの事象よりも恐ろしく、背筋が凍るほどだ。
「これは……まさか……!」
彼がつぶやいた矢先、シェリーの服を脱がし始める。こんな形で身体を見るのは心苦しいが、彼女の身に何が起きているのか知らねばならない。
医師はシェリーの上半身を露わにした末、左腕を凝視する。
彼につられて覗いてみると、その白い肌には何かが深く刻まれていた。
(第二節へ)
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