夜明けまでアリスの日記を読んだ後、シェリーがわざわざ昼飯を作るために家に来てくれた。パスタを食った後はどうなったかって? ……それは察してくれ。
ただ、彼女は夕方から酒場に向かわねばならないとの事なので、脱ぎ捨てたブラウスのボタンを嵌めていく。それから小さなバッグを手に取ると、玄関のドアへ足を運んでいった。
「それではアレックスさん、ごきげんよう」
「おう。帰りはアイリーンちゃんと一緒なんだろ?」
「はい。……また近いうちに、お邪魔してもいいですか?」
「勿論だよ。じゃ、気をつけて行けよ」
シェリーは、銀月軍団を率いる者が元恋人と判明して以来、ランヘルからの帰りには必ず付き人がいる。その付き人はマリアが手配しており、アイリーンやクロエらと云ったメイドが店の前で警護する。
そうでなくても夜中に女性が歩くのは危険なので、手配は幼馴染なりの気遣いのようだ。
俺は恋人を抱きとめ、彼女の唇に軽くキスをする。シェリーは女神のような微笑を俺に向けた後、とうとうこの家を後にした。
「……さて、さっきの続きを読もう」
俺はリビングを手短に片付けた後、ソファーに腰掛ける。テーブルの上に通信機を置くと、近くにある紅い皮革の表紙に手を伸ばした。
アリスが俺と別れた後、どんな事を書いていたのか気になるものだ。もしかしたら俺への想いを引き続き綴ってくれたかもしれないし、他愛ない日常の事でも──
「……って、いきなりこれかよ……」
流石の俺も、次の内容には面食らってしまった。なんせ視界に飛び込んできたのは、旦那との事後なのだから……。
しかもその後は、どうやら妊娠したらしい。耐えろ、アレクサンドラ。これらはぜんぶ過去の話なんだ──!
30th.Lap, A.T.26
日記を書こうと思って開いては、あの人のことばかり思い出す。そんなことを繰り返していたら、もうこの日になってたなんてね。
結局私たちの関係がラウクさんにバレて、一時はどうなるかと思ったわ。勝手に読んだの? やっぱり見回りに気づかれたとか? 彼は『なんとなく気づいてた』としか教えてくれなかったけど、責めてこなかった。それどころか、『君を満足させられなくて済まない』とも。
あの夜、私達は一つになった。……でも、ずっと胸が苦しかった。彼に言ったことも、したことも、ぜんぶ建前。せっかく優しくしてくれたのに、『もしあの人のモノだったら』なんて考えてた私はやっぱり最低だ。
ねえ、アレックスさん。あなたは今頃どうしていますか? 儀式で穢れた私を見たら、きっと失望するでしょうね……。
26th.Gra, A.T.27
ここ最近、身体の調子が良くないことを教皇さまにお話ししたら、助産師さんを紹介してくれた。『ご懐妊かもしれません』って言ってたし、しばらくは身体を休める必要がありそう。
2nd.Dia, A.T.27
やっとつわりが落ち着いてきた。ここ最近は苦しくて、日記を開く余裕なんてなかったわ。でも、助産師さんと一緒に軽く身体を動かしたら、ちょっと気が楽になったかも。
あと、鏡で見てみたらお腹が少し大きくなってた。それをラウクさんにも話したら大喜びで。夜は『生まれてきたらどんな名前をつけようか』と盛り上がったわね。
4th.Sme, A.T.27
あれからお腹がかなり膨らんで、みんなが喜んでいる。教皇さまも私を見て、さっそく安産の儀式を開いてくれたわ。誰もが赤ちゃんのために歌を唄ってくれて、ちょっと泣きそうになった。
さて、どんな子が産まれてくるのかしらね。男の子かな? それとも、女の子? 性別が判る魔法があれば良いんだけど、それは産まれてきたときのお楽しみか。
12th.Rub, A.T.27
本を読み聞かせていたら、またお腹を蹴ってきた。ちょっと痛むけど、元気そうで何よりね。ラウクさんも興味津々で語り掛けるし、まるでこっちの言葉が伝わっているみたい。ああ、早くこの子に会いたいわ。
「……母親になるお前も可愛いじゃねえか」
『苦しくない』と云えば嘘になる。でも、乱暴に扱われるよりは全然マシだ。複雑な気持ちにならなくはないが、幸せなようで何よりだよ。
1st.Zaf, A.T.27
夕方はラウクさん・助産師さんと一緒に庭を散歩。陽が落ちてくると、ちょっと暑さが和らぐわね。それにしても、うっかり転びそうになったときはヒヤッとした……。けど、二人が支えてくれたおかげで安心したわ。
助産師さんは『いつ出てきてもおかしくない』と言ってたし、ああ緊張する……。
28th.Tor, A.T.27
紅葉を眺めていたら、ふとあの人のことを思い出した。
アレクサンドラ──初めて恋した悪魔の名前。ちょっとムカつく人だったけど、結局嫌いになれない。むしろ、あの性格から垣間見える優しさが大好きだった。
思えばアレックスさんとの別れって、この日からもう少し後だったわよね。二人で草原を駆け抜けたあと、廃屋でゆっくり過ごして、それから──。
もう随分と前のことなのに、今さら胸が痛むなんてね。思い返したってどうにもならないし、ラウクさんとは上手くいってるはずなのに……。
昨年末、もしラウクさんと一つにならなければ今の子は産まれてこない。だから今さら悔やむことは無いのだけど、未だにペンダントを棄てられない私がいる。一緒に過ごしてきた日々を思い出すだけで、また泣いてしまうわ。
まさかとは思うけど、私はまだアレックスさんのことが好きなのかしら。仮にそうだとしても、二度と会えるわけが無いのに。それに、あの人だってもう別の人に恋してるかもしれないのだから。
それでも、こう願ってしまう。生まれ変わるなら、次こそはアレックスさんと
途切れてる……? もしかして、陣痛が来たのだろうか。
それにしても──アリスのヤツ、俺のことを忘れてたわけじゃなかったんだな……。まさかそこで思い出すとは思わなかったけど、なぜこの時期に? ただ、『不安になりやすい』とは聞くからその流れで俺のことがふと過ぎったのだろう。
あいつの子ども、なんて名前だったんだろう。性別もちょっと気になるし、次のページに書いてあるのかなぁと思ったら……って、また全然違う内容だ。
ただ、その出来事はティトルーズ王国に関する事だ。それも歴史的な出来事で、緊張で顔が一気に引き締まる。
5th.Lap, A.T.27
私の霊力は、この日のためにある。
花姫に必要な力を、彼の故郷に捧げてきた。誰もが幻視病に苦しんでいるというのに、何にもできないのは嫌だったから。
念の為、この病について書き留めておきましょう。
汚れた魔物に触れたら最後。死ぬまで幻覚・幻聴が起こる。見聞きするモノは多種多様で、大抵はトラウマや嫌いなモノが現れると云うわ。ヒト同士の間でも感染るせいで、このひと月であっという間に広まった。
もっと早く気づいてれば、命を絶つ人はぐっと減ったはずなのにね……。疫病が滅んでも、彼らの魂は呼び戻せない。
どうか安らかに。
そして──生きとし生けるもの全てに、ミュールの御加護があらんことを。
「え……?」
どんなにめくっても、ただ白いページが浮き出るだけだ。
空白、空白、空白、空白、空白。
……いくら彼女がずぼらとは云え、肩透かしを喰らった気分になる。これじゃあ純真な花の歴史も、彼女のその後もマジで判りやしない。
なら──マリアに聞くか、城の書庫で調べるしかないか。
それはさておき、幻視病は本当に嫌なものだった。幸い俺たち家族は罹らなかったが、身の回りで苦しむヤツは嫌という程出てきた。
『大抵はその人のトラウマや嫌いなモノが現れる』
本当にその通りで、例えば周りに蟲がいなくてもそいつには視える。だからいきなり殴ってくることはあるし、殺し合いも日常茶飯事だ。しかもそれで感染するわけだから、余計えげつないことになる。
この疫病をあのアリスが滅ぼしたって云うんだ。そりゃあこの国の女神になるわけで。
信者になったヤツはたくさんいるが、あいつの恩を平然と忘れるヤツもごまんといた。別に『崇めろ』なんて言わねえ。けど、散々苦しんでたくせに助けてもらったことを忘れるヤツは、腹の底から許せなかった。
だから──
「……いや、それ以上はよそう」
思い出すせいでまた肉が食えなくなったら意味がない。どんなに捲っても続きは無いのだし、後はマリアに返すだけだ。さて、いつ頃に城へ──
「ん?」
メッセージが一件届いていた。それもエレから。
とりあえず通信機を開き、内容を確かめてみる。
その文には──少し前まで銀月軍団の一員だったヤツの名前も、はっきりと記されていた。
(第九章へ)
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