洗脳されたルナと戦う最中、因われていたはずのマリアが俺を庇って負傷。胸を刺された彼女は、後から駆けつけてきた上級魔術師によって医務室へ運ばれた。
一方、ルナは恩人を傷つけてしまった罪悪感から目が覚め、プール室の鍵を明け渡す。こうして俺とアイリーンは食堂を去り、ルドルフが待つその場へ移動した。
アイリーンが鍵を開けたその先には誰もいない。更衣室も特に荒れた形跡が無く、ただ不穏な空気が流れるのみだった。
「自分とした事が、このような事で手が震えるなんてね……」
プール室に繋がる両開きの扉。アイリーンの手先は小刻みに震えており、過呼吸気味でもあった。
「俺が開けよう」
「……ありがとう」
今から俺達がやる事は、人殺しだ。いくらアイリーンがルドルフに不満があるとは云え、王室の者を殺める事に抵抗を覚えるのも無理もない。
一方で俺は、不思議と罪悪感が生まれなかった。俺とシェリーを引き合わせてくれたのはある意味彼なのに、どこか感覚が麻痺している。きっと『陛下のご命令だから』と割り切っているせいだろう。
ドアノブに手を掛け、力いっぱい回す。重い扉を引くと、スペードを模したプールが視界に飛び込んだ。半円状の窓からは日が差し込み、澄み切った水を輝かす。臙脂色の柱が伸びた先には、見せかけの青空が広がっていた。
その中で俺は、プールを背に立つ金髪の男を見据える。彼もまたレイピアを握り締め、氷のような眼差しを注いできた。
「判っていたよ、アイリーン。君が心の奥底で嫌がっていた事を」
「お言葉ですが、これ以上は彼らと争いたくありません。それは、誰もが同じ事を思っているはずです」
「大切なモノがずっとこの手に収まるなら、私は手段を選ばないよ。例え返り血を浴びてでもね」
俺が瞬きをした刹那。
ルドルフはアイリーンに迫り、余る片手で彼女の首を締める──! それは、血管が浮き出る細い手からは想像がつかない程の握力だった。
「う、ぐ……っ!」
「君は召使いの分際でいつもいつも煩かった。ただ言われた通りに仕事をこなせば良いものを」
アイリーンは両手で抵抗するが、ルドルフの手はびくともしない。それどころか、ルドルフは彼女の首を締めたまま硬質な床へ叩き落とそうとする。
その際、俺は投げ飛ばされた彼女を受け止める事に成功。思わず尻餅をついてしまうが、彼女が頭をぶつけるよりは遥かにマシだ。
「なぜ彼女らに戦わせた?」
「君を始末して純真な花を壊滅させれば、マリアが私のモノになるからだよ。その機会を設けてくれたのは、他ならぬジャック殿だ」
「……やはり彼にその身を捧げている様子ね。なら、此方も気が楽だわ」
俺の腕の中にいたアイリーンは立ち上がり、構えを取る。俺も彼女の隣に立つと、地面を蹴って拳を腹に喰らわせた。
「ぐふっ!」
「これは俺をイイ女と引き合わせてくれた礼だ」
殴られた衝撃でルドルフが身体を前に曲げる間、アイリーンは月の氣を四肢に纏う。
直後、彼女は天高くルドルフを蹴り上げ、目にも留まらぬ速さで武術を叩き込んだ。
「うあっ! がぁ!」
「陛下とお嬢様を長く悲しませた罪、軽くないわよ」
宙に浮くルドルフは、為す術も無くアイリーンに殴打される。それも、骨の折れる音が響く程に。
鈍い音を連続させてもなお、彼の身体は浮いて──いや、浮かせていたのだ。
アイリーンは彼の胴を捕らえ、その石頭を床へ叩きつける!!
「せいっ!」
「ぬぁぁああ!!!」
頭から血飛沫が舞うも、ルドルフが気絶する様子は無い。
それどころか直ちに起き上がり、レイピアの剣身に稲妻を宿した。
「氷撃!」
なけなしの魔力を以って氷の弾を放つも、ルドルフは容易く両断。
彼は俺を見つめ、三日月のように口角を上げる。
「一度は君と刃を交えてみたかったのだよ。ジャック殿から力を授かった今なら、君を破れるだろうね」
レイピアを突き出し、こちらに迫る!
俺は左にローリングするも、彼は武器を高く掲げた。
「雷撃」
稲妻がレイピアの刃から天へ迸った直後、俺の頭上に降り注ぐ。
しかし、後ろへステップすることで回避に成功。詠唱を終えた隙に走り出し、タックルで押し倒す。その勢いで手中にあったレイピアが宙を舞い、乾いた音を響かせた。
俺は彼の上に跨ると、両手に怒りを込めて頬を強打! 右・左と殴り続ける間、彼が反撃に移る余地など皆無だった。
「俺の女は! てめえの妹を殺しちゃいねえ!!」
シェリーの初恋は、不幸にもこの男だった。彼女のみならず、その顔で何度も女を誘惑した事だろう。
もしシェリーが……いや、この男がマリアの許婚じゃなければ……俺の女は苦い思いをせずに済んだ。
ジャックと肌を重ねる事など、起こり得なかったはずだ!
ああ、気に食わねえ。何度殴っても気が済まねえ。
例え胸倉を掴もうと、怒りが一向に収まらねえんだ。
「それでも『殺した』ってえなら、俺があの世に行かせてやる」
「……最高だよ……」
「あ?」
「やはり彼女と君を、引き合わせて正解だった……。そこまでシェリーに惚れ込むのは、想像以上だがね……。……ふふふ、はははははははは!!!」
痣だらけのルドルフが突如高笑いし出し、緋色の鎖が俺の足下から湧き出る。鎖が俺に絡みつくと、高熱が鉄を伝って全身を焦がした。
「ぐあぁぁああぁああぁぁ!!!!」
「私がわざわざ魔族を隊長に任命するワケが無かろう! すべてはマリアの愛を受けるため。そう、化け物には化け物がお似合いだからさ!」
なん、だと……!?
そうか……だからマリアは、この男をずっと愛せずにいたんだな──。
『教えてくれ。なぜ悪魔を隊長の候補にした? 俺の能力はさておき、人柄と実力を兼ね備えた存在なら人間にもいるだろう?』
『…………それだけは、口にしたくない。あの理由があるからこそ、あたしの身体を彼に委ねられないの』
愛する女の大切なモノを踏み躙りやがって……何が“愛”だ。不幸だったのはシェリーだけではない。自分で相手を選べないマリアもだ。
早くこの手でこいつを殺さねえと、次はアイリーンが──!
「いい加減になさいっ!」
アイリーンが飛び蹴りを喰らわせた事でルドルフの身体は後方へ吹き飛び、俺は灼熱の鎖から解放される。だが、身体中が焼け爛れたせいで指一本すら動かせないでいた。
それでも目で彼女らを追うことはできる。プールの前に立つ二人は、剣と武の攻防を絶え間なく繰り広げていた。
薙ぎ払いや突きで牽制するせいで、彼女は手足が出ずにいる。軽やかに躱し続けるアイリーンだったが、ついにバランスを崩して脇腹を刺された。
「あぁああ!」
くそ、あのままじゃ彼女が──! 何故こんな時に動けねえんだ俺は!!
アイリーンの身体がプールへ傾く中、ルドルフは片手で彼女の長い髪を乱暴に掴む。それから彼女の顔を水中へ押しやりながら、何らかの言葉を耳元で囁いていた。
俺は痛む身体を無理矢理起こし、手放した剣を拾い上げる。足を引きずってでもルドルフに近づく傍ら、彼は俺にも聞こえる声量で言葉を吐いた。
「何のために花姫の力を得たんだい? それとも、私にその手足を壊されたいのかな?」
ルドルフはアイリーンの髪を持ち上げ、彼女の顔を空気に晒す。しかし咳き込む刹那、彼は再びアイリーンの顔を水中へ押しやった。
俺とルドルフらの間の距離は、二メートルにも満たない。それでも存在に気づかねえなら、こうしてやらぁ!
「おらっ!!」
「ぎあぁぁあぁぁあぁぁぁあああ!!!!!」
騎士の剣をルドルフに向かって投げ飛ばし、見事に命中。顔半分を貫かれた彼は、情けない悲鳴でこの広い空間を埋め尽くした。
その隙に、プール脇で横たわるアイリーンを介抱。彼女は両腕を俺の首に回し、肺に溜まった水と血をげほげほと吐き出した。
「ありがとう……後は……自分に、任せて……」
アイリーンは体勢を立て直し、懐からダガーを取り出す。魔法銀で作られたであろうその剣身は、太陽に照らされ眩い光を放った。
彼女はルドルフの方を向き、ダガーをかざしながらこう呟く。
「マリア・ティトルーズ陛下に、栄光あれ」──と。
ルドルフは顔に刺さった剣を引き抜くが、新たな痛みで再び泣き叫び後ろへ倒れ込む。顔半分からは鮮血がとめどなく溢れ、白い肌がたちまち穢れていった。
そして──
「はああぁああぁあ!!!」
ルドルフの胸に跳び込み、忠誠心を突き刺すアイリーン。彼の左胸に突き刺さったミスリルは、赤黒い何かを火山のように噴出させた。
先程まで暴走していた男は助けを求めるように手を伸ばすが、それも叶わず垂れる。アイリーンはダガーを引き抜くと、片膝をついて彼の顔に手を添えた。
「皇配殿下、ご無礼をお許しください」
それは、彼女の心に残る僅かな慈悲から来たものだろう。彼女はこちらに向き直るが、その顔は俯いたままだった。
血溜まりは徐々に広がり、鉄の臭いが立ち込める。青い隻眼を部下の手で閉ざされた今、起き上がる事は二度と無かった。
「行くわよ……陛下の、元へ」
「ああ」
いかなる理由であれ、血縁の死は辛いものだ。
だからこそ、妹を喪ったこの地で俺達を待っていたに違いない。今更弔うつもりなど無いが──。
「天国で妹と仲良くやってろ」
振り向きざまにそう吐き捨てると、脇腹を押さえるアイリーンと共にプール室を後にした。
(第五節へ)
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