「私もようやく……イリーナの、元へ……」
愛する者の名を呼び、手を伸ばすヴィンセント。
黒の露と化す直前まで、彼の目線はアイリーンの方を向いていた。
新緑の地に遺されたのは、大きな血溜まりと悲しき静寂。周囲に散らばるガラスの破片は、ヴェステル迷宮最上階から落下したことを物語る。
俺と花姫たちがその場に着地したあと、アイリーンはそっと呟いた。──血溜まりを見つめながら。
「きっと、大切な人を亡くしたのでしょうね。天国で彼女と会えていれば良いけど」
大切な人……俺にもそんなヤツがいた気がするが、果たして誰だったか。疑問を浮かべながら、なんとなく空を見上げてみた。
紺と茜の境目の中で星々が煌めく。喧騒が絶えない城下町と違って、此処は草木の揺らめきだけが聞こえる。
その揺らめきは増し、髪が乱れるほどの風が吹き始める。
左方から大きな鳥の影が横切り、遠くへ向かうかと思いきや──緩やかに曲がって此方へ飛んできた。
近づいてくる大きな存在。それは、俺たちを此処へ運んでくれたグリフォンだった。グリフォンは徐々に降下し、近くの芝生に着地。
「みんな、城に戻るわよ」
先んじて進むマリアが、振り向きざまに声を掛ける。
彼女らが次々と怪鳥の背に乗り込む中、俺は元の姿に戻ることにした。
夜空を飛び交った末、城へ無事到着。
エントランスに向かえば、メイドたちが横一列になって一斉に跪いていた。
「「おかえりなさいませ、陛下にマスター。そして、純真な花の皆様」」
はきはきとした女の声音が重なり、広い室内に響き渡る。マリアは前に立ち、彼女らに向かって「ありがとう」と微笑んだ。
「皆、ありがと──」
「マスタァァァアアァァァア!!!!」
突如アイリーンに飛び込むメイド──それは、誰よりもマスターを慕うクロエだった。
彼女はアイリーンを固く抱き締めたあと、向き合うように両手を握り出す。……ただ、肝心の本人からすれば少し戸惑い気味のようだ。
「ご無事で何よりです! 皆、今すぐ宴の準備をして!! それからシーツの準備もすること!!」
「いやシーツはいらねえだろ」
「変態は黙っててください」
「それはこっちの──」
「まあまあ二人とも、それぐらいにしなよ」
クロエのやつ、相変わらず蔑むような目で見やがって。アンナが止めてくれなければ、また不毛な争いが起こってたかもな。
アイリーンは俺とクロエに苦笑の表情を向けたあと、「さて」と切り替える。メイドたちの目線はマスターと女王に集中していた。
「自分だけ何もしないのは悪いから、手伝うわ」
「お待ちください! それではお祝いの意味が……」
「自分も皆にお礼がしたいの。クロエ、付いてきてくれるでしょ?」
「……はい!」
アイリーンはクロエを説得したあと、部下たちと共にエントランスを後にする。その一方で、マリアは一部のメイドらをこの場に残し、掃除をさせる。俺の後ろでは、アンナとシェリーが僅かな暇を持て余して雑談を始めた。
直後。ひんやりとした気配が俺に接近し、腕に絡みつく。
満面の笑みを浮かべたエレが、さっきから俺に目線を送っていたのだ。
「アレックス様ぁ〜?? アイリーン様やシェリー様とどのようなご関係で?」
「ま、待てエレちゃん! その……目が、怖ぇぞ……」
俺がそう言ったところで、彼女が離れてくれるわけでもな──
って、しれっと足を踏むな! 踵でグリグリするなって!!
「今日という今日は、絶対に放さないのです」
「誤解だって! 別に俺は誰とも付き合ってなんか──」
「さあ、あなたたちは応接間で待っててもらうわよ。あたしについてきて」
なあマリアちゃん、俺を助け……って思ったけど、絶対に力を貸してくれないよな。下手したら、迷宮で襲い掛けたことをバラされるかもしれんし。
頼むエレ、皆に変な誤解を与えたくないからいい加減放してくれ……。
結局、彼女は応接間に向かう間も中で待つ間も、ずっと俺にしがみついて目線を送るばかりだった──。
三灯の巨大なシャンデリアが照らす大広間。菱形模様のフローリングの上で、礼装を纏う男女が優雅に舞っている。その背後で管楽器やピアノなどを演奏するのは、国王に招かれた弦楽団だ。
奥にある横並びのアーチ窓は夜の帳を映し、バルコニーへと繋がる出入り口からは涼しい風が入り込む。
ティトルーズ城の人々は、俺たちの帰還を盛大に祝ってくれた。いや、正しくはアイリーンを迎えているのだ。
此処で暮らす誰もが、花姫のみんなが、笑顔で飲食や雑談・ダンスの鑑賞を愉しんでいる。俺も雑踏の一人だ。シェリーとエレの間に座る俺は、ダンスを見るうちに妄想が勝手に膨らんでいく。
もし此処でシェリーと踊れたら。
どんな表情で踊ってくれるだろうか。
どんなドレスを着てくれるのだろうか。
その後は……どんな事が起きるのだろうか。
嗚呼。今すぐ彼女の手を引いて、バルコニーへ抜け出せたら。
いつ見られるかわからない場所で激しい接吻ができたら。
エレは今、アンナとの会話に夢中なんだ。
アルコールに身を任せてシェリーを
「ねえ」
右の後ろから誰かが俺を呼び掛ける。振り返れば、紫のドレスに身を包むアイリーンがいた。
さっきから見かけねえと思ったら……つか、胸元が開いてるせいで目のやり場に困る……。
俺が困惑してる事に気にも留めず、彼女は半ば強引に肩を掴む。とりあえず席を立つと、「大事なお話があるの」と言ってバルコニーの方へ足を運んでいった。
周囲が思い思いに楽しむ中、速歩きで彼女の背を追いかける。露出した背中は贅肉一つ無く、歩くたびに豊かな胸が揺れているのが判る。このまま部屋に導かれて、朝まで過ごすとなれば……この背中にキスしているだろう。
此処のバルコニーは、以前俺がエレと会話した所より広々としている。点在する男女を尻目に、誰もいない場所に向かって真っ直ぐ歩くのみだ。
演奏が遠くなるにつれて、胸の鼓動が高まる。アイリーンは死角を見つけると、俺の手を引いて壁に押しやってきた。
「おい、何す──」
紅い唇で塞がれ、舌を絡ませてくる。口腔から漂う葡萄の香り……こいつ、酔ってるのか……?
引き剥がそうとするが、脚をも絡まれて身動きが取れない。淫らに動く腰は、俺を早々と興奮に至らしめた。
口の中で吐息が混ざり合う。
俺は快楽の虜となったようで、自ずと舌を動かしていた。
アイリーンが俺の片手を掴み、ドレスの中に忍ばせ……って、これ流石にやべえだろ!! あとさりげなく触れるな! 別に、嫌じゃねえけど……。
ああもう、ダメだダメだ!! 完全に主導権を握られてるし、いっそこのまま……。
……え?
舌が……唇が……
離れ、た?
糸引く唾液が月光に照らされ、彫りの深い顔立ちが遠のく。……と思いきや、彼女は唇を耳元に当て、低い声で囁いてきた。
「ご主人様」
意外な呼び掛けに身体が反応し、思わず手を彼女の腰に当ててしまう。それは胸と相反するように細く、滑らかな曲線を描いていた。
しかし、彼女は俺に当てていた指先を剥がし、唇に当ててくる。俺の唇は弾力など無いはずなのに、指の腹に押されて微かな圧を感じた。
もっと囁いてくれ。
お前さえ良ければ、俺も男になって──
「助けてくれた御礼よ。じゃ、またあちらでね」
えっ、あ……?
いつの間にかアイリーンは俺から離れ、ヒールを鳴らしながら去っていった。
もしかして、お預け……? それとも、弄ぶために此処へ呼び寄せたのか?
頭の中が真っ白なせいで何も考えられない。あのまま手を引いて本当にご主人様になれば良かったのに、もう手遅れだ……。
「……嵌められた」
今はまだ宴会中なんだ。この場で抱き合うってことは、確かに有り得ねえよな。
でも不完全燃焼だ。一周回って苛立ちすら込み上がってくる。
とりあえず外の空気を吸ってから戻──
「今度は何だ?」
ズボンのポケットに入れた通信機が短く振動する。とりあえず端末を取り出し、確認してみればシェリーからのメッセージが届いていた。
<あなた達がご無事で本当に良かった。合流するまでの間、とても心配したんですよ。ところで、今はどちらにいますか?>
……なんてことだ。俺をわざわざ気に掛けてくれるなんて。
さっきまでアイリーンと良い雰囲気だっただけに、罪悪感が一気に押し寄せてきた。
ごめんな、シェリー。すぐに向かいたいとこだが、今は気持ちを切り替えることに集中したい。
顔を上げ、夜空を眺めてみる。城下町はまだ明るいってのに、珍しく星がよく見えるな。
バルコニーを優しく照らす三日月。
銀色に輝くはずが、今日ばかりは金色に輝いていた。
「気が付いたか?」
「……申し訳ございません。全ては私の責任でございます」
「ふん。次こそ仕留められなかったら、ただでは済まぬぞ」
「ええ……重々に承知しております」
「しょうがないわね。次は私があいつらを取っちめるわ。ちょうどあの女がいるみたいだし」
「出る分には構わん。だが、あいつの身体は貴様だけのものでは無い事を銘じておけ」
「はいはーい」
「ジャック様、あたくしに御命令を」
「故郷へ行き、好きなようにすればいい。それから姉を見かけたら捕縛しろ」
「あね、き……!?」
「逆らう気か?」
「いえ……ただちに出撃いたします」
「あのヴァンツォちゃんって子、とっても強くてシビれちゃうにゃんね〜」
「…………」
「ねえ、ジャック様ぁ! どうして僕を無視するのにゃん??」
「……俺を見限ったこと、永遠に後悔させてやろう」
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