「わしを超えてみせろ」
それは、まだ青かった俺への挑戦状でもあった。幾ら突っ掛かっても全て避けられ、殴った分だけ殴り返され……あの頃の俺は、苛立つあまり『手加減してるだろ』と怒鳴った事もあった。
──振り返れば、いずれも懐かしい記憶である。が、この狼男の眼帯が解かれた今、同じ言葉を吐いても気迫が大きく違うのだ。
シェリー同様、セレスティーン大聖堂で囚われていたランヘルは、その紅い右眼を以って俺と対峙。血管が浮き出る程の筋肉から殺意が伝わってきた。
鋭い眼差しが俺の胸を突き刺し、皮膚感覚を奪う。
俺の手からはついに、長剣が滑り落ちてしまったのだ。
ランヘルは、見計らったかのように高く跳び──
爪を振り下ろす。
爪先が眼前に迫ると共に、身体が自然と後ろへ跳ぶ。紙一重で躱せたものの、その素早さに圧倒されて声が出なかった。
「ほう? 今更怖気づくとはな」
「……っ!」
彼が防衛部隊の隊長を務めてた事など、もう二世紀以上前の話に遡る。今となれば、カウンター越しで酒を注ぐ姿が当たり前なんだ。
……そうか、よく考えれば今日は満月。ジャックは、これを利用してランヘルをも連れ去ったんだ。あのクソ野郎、俺の大切なヤツらをよくも──!
ランヘルが威厳のある声で煽る瞬間と、俺の瞬きが不覚にも重なってしまう。だが、それが彼の攻撃を許す事になるなど、思ってもみなかった。
「捕まえてみろ」
瞼を開けた刹那、彼は目の前にいなかった。
直後、顎に重い衝撃が圧し掛かり、身体が天高く投げ出される。
「うがぁっ!!」
「どうした? お姫様を助けるんじゃなかったのか?」
ランヘルは間髪入れずに次の一手に出る。今度は俺と同じ高さまで跳躍すると、踵で俺の腹部を抉ってきた。
俺は為す術もなく後ろへ吹き飛ばされ、背中が壁と激突してしまう。そのまま床に転げ落ち、肺に溜まった血を吐くほか無かった。
上体を起こそうとした時、重い何かが俺の頭を押さえつけた。その正体は獣の足であり、踵で後頭部を踏みにじる。その摩擦で痛みが伴う中、彼は疑問を投げ掛けた。
「あの者に敵う力が、今のあんたにはあるのか?」
あの者……? こいつも洗脳されてるってのか? だとすれば、何としてでも解かねばならねえ。
俺は知っている。満月に頼らずとも、彼が遥かに強い事をな……!
「……お前には、判らねえよ」
床に爪を立てる傍ら、右手に魔力を込める。
それから小声で呪文を唱えると、ランヘルの片足がみるみるうちに凍りついた。
「なっ!?」
思わずもう片方の足を俺の頭から離してしまうランヘル。俺が立ち上がる間、清魔法はその足をも凍らせた。
今度はこっちが殴る番だ。
利き手で拳を作り、狼の顔面に一発喰らわす!
「ぐぉお!!」
まだだ!
殴る、殴る、殴る、殴る、殴る、殴る、
殴る!!
「何百年ぶりだろうな? こうしてお前に突っ掛かったのはよ!!」
そして間合いを取った直後。右手を床に着け、ランヘルの足下に衝撃を与える! 絡みつく氷は花のように咲き誇り、彼の身体を垂直に打ち上げた。
助走をつけてから大きく跳躍し、割れた腹筋に左ストレートをかます! 今度はランヘルが床に打ち付けられる格好となり、彼に跨る俺は胸ぐらを掴んだ。
「おい、シェリーはどうした!?」
彼は歯軋りするも、抵抗できそうにない。
そこで体勢を変え、彼の背後から腕を回す。それからマシンガンをこめかみに押し付け、こう脅した。
「とぼけたらどうなるか、判ってるよな?」
彼が俺の恩人である事は……今は捨てろ。グリップを握る手先が震えようと、人差し指はトリガーに触れる寸前なのだ。
いつ撃たれてもおかしくないと云うのに、ランヘルは嘲笑うように鼻を鳴らす。
「あんたもそういう手段を覚えたか」
「さっさと答えろ」
「生きてるさ。それがあんたのお望み通りであるかは判らんがね」
「くっ!」
腕から離れるとは、さすがの身のこなしだ。
けど、今度こそやられはしねえ。ランヘルの回転蹴りが数回に渡って繰り出される。全ての蹴り技を躱した末、彼は突進してきた。
次の手は──投げだ。彼は両手で掴もうとするが、俺が前転する事で立ち位置が逆転。余裕が生まれたのか、ある記憶が俺の中を駆け巡る──。
『何をしている? さっさと立て』
何度立ち向かっても、この狼男には歯が立たなかった。
ランヘルはただ腕を組み、俺を見下ろすのみ。岩場で傷だらけとなった俺は、ただ怒鳴り散らす他なかった。
『んなこたぁ……わかってんだよ!!!』
怒りに身を任せても当たるわけがない。でも、大悪魔の力に頼らないと勝てない自分を認めたくなかったのだ。
『遅い』
『うあ……っ!』
躱され、殴られるだけの日々。
それでも俺は──!
『明日にでもなれば、少しはわしの攻撃を見切れるだろうな』
『今日じゃなきゃ……ダメなんだよ!!』
一発でもぶん殴らないと気が済まなかった。
身体中が血だらけになろうと、拳を振り回した。
……けれど、結果は同じだった。
『諦めろ』
腕を掴まれ、身体が宙に浮く。
投げられた。
そう認識したときには、再び岩肌の上に引き戻される。
この時は、例の力に依存してはいけない理由を判らずにいた。
『それが今の実力だ』
『良いじゃねえかよ、力を使ったって……!』
『考えろ。封じられたとき、あんたはどうするつもりだ?』
『俺はそう簡単にやられねえ。だから……考える必要なんかねえさ』
無論、予想できるわけがなかった。
その四世紀後に、封印の石を埋め込まれる未来をな──。
それからランヘルは俺や他の戦士と共に編隊を組み、いつからか“マスター”と呼ぶようになった。偉そうでムカつくことはあったが、腕っぷしが強いのは確かだ。
そんな彼の言動や鍛練に慣れてきた頃。月が見えぬ夜空の下で、俺にこんな事を言ってきた。
『わしは満月が嫌いだ』
満月の光を浴びた狼は、野生に帰って弱者を襲う。だが俺は、『彼には無縁な話だ』と思っていた。
それから月が満ちる度、右眼を押さえる仕草が印象的だった。『病で片目を失った』というのは嘘で、本当は他の狼人と同じ力を有していたのだ。
ずっと近くにいたのに、何故気づけなかったのだろう。如何に敵対しようと、自分の浅い思慮を恨み続けたのである。
そんな中、直伝の体術でようやく追い込む事に成功。彼の下半身は俺の両脚で押さえられ、身動き取れずにいた。
「……さっさと─せ」
「え……?」
「わかったなら、わしの右目を潰せ。この目のせいで……娘を殺めた」
痣だらけの狼にもはや敵意が見られない。細める瞳の奥には、悲哀を秘めている気がした。
「だからわしは満月が嫌いなんだ。この目さえ無けりゃ、忌々しい月光に苛まれんで済む。大事なあんたを殺る前に……潰せ」
「………………無理だ」
結局、あれだけ恩人を殴っておきながら最後まで抵抗が拭えなかった。例え『片目を潰せ』と頼まれようと、俺には荷が重すぎる。
「早くやれ……さもねえと、また娘を傷つけちまう……」
ここで云う“娘”は、シェリーを指すのだろう。例えジャックに操られようと、本心では争いを嫌っている。
俺の右手がそれに応えるように、鞘から剣を引き抜く。柄を握り締めてもなお震えは止まらず、流れる汗がランヘルの顔面に滴り落ちた。
切先を赤眼に近づけるも、いまいち焦点が合わない。
深く呼吸をした末、覚悟がついに決まった。
「……耐えてくれ、マスター」
瞼を固く閉じ、
剣を垂直に振り下ろす──!
聖堂に響いたのは、狼の遠吠えではない。
ヒトの悲鳴だ。
柔らかな何かが刺さる感触に、不気味な音──この瞬間は一生忘れられないだろう。
音を掻き消すように俺も唸り声を上げ、剣を引き抜く。瞼を開けた矢先、串刺しの何かを見て胃液が溢れそうになった。
耐えろ、俺こそ耐えろ。
これが彼の望みだったんだ。
突き刺さったそれを外すべく片手を伸ばす。
しかし持ち主の手が俺よりも早く伸び、白い球をぶち抜く。彼はそれを握り締めると、紅の飛沫が俺の鎧に付着した。
「……これで、良い……」
ランヘルはその言葉を最後に、手がだらりと垂れた。
……大丈夫だ、意識を失っただけだ。
何度も自分にそう言い聞かせ、彼から離れる。
彼の顔はもちろん。俺の顔も血だらけだ。
だが、今は顔を拭く余裕すらない。
「後は俺に任せろ」
再び血糊を払い落とし、次の扉を開かねばならぬのだ。
今宵は長く続くだろう。
そう、彼女を助けるまでは──。
(第五節へ)
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