「パパー!」
緑の地平線が広がる中、背の低い少女がこちらに駆け寄る。人間年齢でいうなら五歳ぐらいだろうか。空色の髪と整った顔立ちはシェリーにそっくりだが、やや広がり気味の髪は肩まで切り揃えられている。頭部は俺と同じく、羊のような白い角が生えていた。
なぜ彼女が俺を『パパ』と呼ぶか判らない。ただ、此処の俺は腰を低くし、彼女を抱き留めるだけだ。抱き上げて平原を一望させてやると、白一面の空が続く。
その時、草を踏み鳴らす音が聞こえ、誰かが俺達に歩み寄ってきた。それは他ならぬシェリーであり、慈悲に満ちた笑みを少女に向ける。
「うふふ、ソフィアったら幸せそうね」
「ねえ! ママとパパはここで何してたの?」
「それはね……な・い・しょ」
「えー! ずるいずるいー!」
「ははは、そのうちお前も判るさ」
──こいつにも男ができて、昔の俺達と同じことをするのだろうか。
まるで、もう一人の俺が頭の中に入り込むような感覚──。けれども、何処か暖かくて優しい気持ちになれる。やがてその考えが身体中を支配すると、“子を授かった自分”としての自覚が芽生えるようになった。
ソフィア──それが俺達の子らしい。生まれてから五十年程と云ったところか。俺の腕の中にいる彼女は、母親に向かって小さな手を力強く振り続ける。
「わたし、大きくなったらパパとけっこんするー!」
「ええっ!?」
酷く驚くシェリーだが、俺は堪らなく嬉しかった。
こんな可愛い娘に穢れを経験してほしくない。そんな独占欲に駆られ、たまらずソフィアの頬にキスしようとしたとき──
『おはようございます、アレックスさん』
え、シェリーの声?
目の前の彼女は、ただソフィアを見つめるだけだ。
しかし──
『朝食ができましたよ』
彼女の声が響き渡る。だから俺が「シェリー?」と呼び掛けるも、母娘ともに俺に気付いていない様子だ。
不思議な感覚に疑問を抱いていると、鼓膜が破れんほどの怒号がついに意識を呼び覚ます──!
『もうっ! いい加減起きてくださーーーーい!!!!!』
「うわっ!?」
先程までの出来事が夢と気付くのに、どれくらいの時間を要した事だろう。近くにはエプロン姿のシェリーが佇み、呆れた様子で俺を見つめる。
「早く起きないと、ご飯が冷めてしまいますよ?」
「すまん……今行く」
ゆっくりと身体を起こし、両足を床に着ける。今は夢の余韻に浸るよりも、やるべき事をやろう。
顔を洗って身だしなみを整えた後、俺はシェリーと共に食卓に着いた。
食卓の上に並ぶ二枚の皿。それぞれには薄地のパンケーキ三枚に、二枚の長いベーコン・二つの目玉焼きが置かれている。片隅にある角切りのポテトは、目玉焼きの白身を占めるように小さな山積みを成していた。
パンケーキは総菜と合わせて食べるためか、甘さは控えめだ。ナイフでひと口分裂いては、黄身に浸けて口の中に放り込む。相変わらず飯は美味く、腹がはち切れるまでお代わりしたいものだ。
せっかくだから、俺はシェリーに先程の夢について話してみる。すると彼女は目を見開き、嬉しそうに声を上げた。
「まあ、そんな夢を!」
「夢の中のお前は、相変わらず綺麗だったよ。娘もお前にそっくりだ」
「しかも“ソフィア”というお名前だなんて、とても偶然ですわね。私の夢に影響されたのかしら」
数日前、俺とシェリーはピクニックのためにリタ平原へと向かった。その日の前夜、彼女はこんな夢を見たらしい。
『ちょうど昨晩、私がそう名乗る夢を見たんです。なぜか城で過ごしていたのですが、アイリーンさんにずっと甘える一方、マリアとは喧嘩ばかりでしたわ』
夢の中の彼女は、自分を“ソフィア”と名乗っていたそうだ。まさかこのような形で感化されるとはな──。
そして今、シェリーとこうして朝食を取っている。前日に東の国へ向かった俺達は、そのまま彼女の家で眠りについたのだ。
夢の話でついテンションが高くなってしまった俺は、ついでに未来の話を振ってみる。
「もし結婚したら、子どもは二人ぐらい欲しい」
「もう! 朝から何を仰るんですか……」
シェリーが照れながら怒る。そこで俺は笑って「ごめんごめん」と付け足しておいた。
「俺と兄貴は仲が悪いこと、もう判るだろ。だから俺が父親になったときは、兄弟姉妹で仲良くしてるとこが見たいんだ」
「私も一人っ子でしたし、確かに賑やかな方が良いですわよね」
「だろ? できれば、女の子と男の子一人ずつ欲しい」
「ええ。きっと、あなたのように力強い子が生まれてくるはずですわ」
「それでいて、お前のように美形に違いないさ。ま、何よりもその過程が楽しみなんだがね」
「アレックスさんったら、本当にえっちな人ですね」
「男ってのはそういう生き物だよ」
自然と上がる口角を気にせず朝食を貪る。顔を赤らめる恋人を見ながら飯を食う──そんな日常を掴むために、今後も“平穏を脅かす存在”と向き合い続けるだろう。
だが、この時の俺は知らずにいた。
互いの懐く“当たり前”が、ガラスのように砕かれる未来を──。
(第一節へ)
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