やめて。
そんな目で見ないでよ。
私には、忘れられない人がいるのに。
真っ直ぐな眼差しが胸を突き刺すせいで、息すらできないし顔だって熱い。
もしこの息を吐いてしまえば、高い鼻筋が近づいて唇を塞がれるかもしれない。
それから、厚い舌が入ってきて――。
……私ったら、何を考えているの?
栗色の癖毛に羊のようなツノを生やし、尖った耳を持つ青年。
いま目の前にいるのは、ただの仕事仲間のはずよ。
彼の名は“アレクサンドラ・ヴァンツォ”と云うけれど、私はいつも『アレックスさん』と呼んでいた。
その呼び方が彼の望みでもあるから。
彼は引き締まった右腕で壁を押さえ、左手をズボンのポケットにしまい込んでいる。
私をどうする気なのかな……。逃げれば酷い目に遭うかもしれない。
怖いはずなのに、身体が疼いてくるのはアルコールのせいなのかな。
こんなことなら飲まないほうが良かったんじゃ……。
ねえ、マリア。
君は三年前に『ふさわしい人がそのうち現れる』と言ってくれたけど、もしかして彼のことなの?
「お世辞だと思うなら、ここで証明しても良い」
お願い。その低い声で囁かないで。
左手を近づけないで。
このまま身を委ねたら、あの人との約束を破っちゃうのに……!!
……え?
「何やってんだ俺は……」
私が予想していた未来は、左手をまたポケットにしまうことで潰えた。
彼は表情を歪ませ、私から視線を逸らしている。
「悪い。信じてほしかったとはいえ、怖がらせちまった」
「いえ……」
あまりに意外な言葉で、思わず嘘をついてしまう。
「今のは忘れてくれ。くれぐれもマリアちゃんには話すなよ」
アレックスさんは右手を壁から離すと、釘を刺すようにそう言った。
それからは、何事も無いまま家に辿り着いたけど……
私も私でどうかしていた。
「よかったら、私の家でお茶しませんか?」なんてさ。
いくら胸が痛む理由を知りたいからって、流石にこんな誘いは無いよね……。
迫られた恐怖は決して嘘なんかじゃないのに。
あの続きを想像してしまう私がいる。
偶然枕に垂らしていた白檀の香りは、私にこう呟かせる。
「赦して……今夜だけだから」
待ち人の名を呼ぶも、両手は既に理性を殺していった。
読み終わったら、ポイントを付けましょう!