──ティトルーズ暦二十六年、七のトパーズ。
プレゼントを渡してからひと月の時が過ぎる。例え心が擦り切れようと、アリスとの再会を諦めていなかった。
辿り着いた場所は、国内の辺境に在る“リタ平原”。冷ややかな青空が広がるのに対し、ここの草木だけは何故か緑豊かだ。地平線は続けど、魔物どころか生物の気配すら見当たらない。
歩き疲れた俺は青々とした絨毯に腰掛け、空を眺めてみる。絵の具を伸ばしたような白雲は緩やかに流れ、ほのかな北風によって草が揺らめく。東の方を見遣れば、ミュール島と思しき地が堂々と浮遊していた。
此処に足を運んだのは今日が初めてではない。何度も訪れたが、その都度彼女はいなかったのだ。
今日もきっと居ない。なんせミュール島からは近いし、また何処かで入れ違いを──
「アレックスさん」
確信。その声の主は、俺の背後で佇んでいた。
初めて会った時に着たワンピースに、首から提げたラピスラズリのペンダント。儚げな髪色を持つ彼女は、静かに微笑んでいた。
「アリス……」
「やっとお会いできましたね」
差し伸べられた手を迷わず取り、立ち上がる。彼女は女の中では高い方だと思うが……改めてみると、小柄に見える。それでいてメリハリの利いた体格なのだから、俺以外の男にも沢山言い寄られたに違いない。
だけど、彼女は俺を選んでくれた。どんなに追われても、俺と同じように探してくれたんだ。今更なんて礼をすれば良いかわからねえな……。
アリスは笑みを浮かべたまま、俺の手を離そうとしない。それどころか、俺の身体が勝手に前へ引っ張られていた。
「ほら、アレックスさん! 早くっ」
決して振り返かず、ひたすら緑の絨毯を突っ切る。
その無邪気ぶりに身を委ねていると、枝葉を広げた大樹に辿り着いた。
息を切らしながらも、華奢な手で引き寄せるアリス。背を幹に預けるせいで、俺が追い込むような形となった。此方がたじろいでいると、彼女は両手を胸に当ててこう言う。
「抱いて下さい……これが最後だから……」
「……お前、今なんて……」
「あなたと会えるのは、今日しかありません。ずっと黙ってきましたが、来月末にラウクさんと──」
震える声が、悪魔を呼び起こした。
最後まで紡がれる前に、両手を掴み舌を絡ませる。それは、生まれて初めての行為──しかし、何度も経験したような感覚でもあった。
俺を止められる者などいない。
身体に手を忍ばせると、彼女はついに嬌声を漏らした。
しばらくの抱擁でアリスの理性が濡れ出す。
感極まる前に唇を離せば、潤んだ瞳で俺を見つめていた。
「……場所を、移しましょう」
その掠れた声に艶があるせいで、俺も狂っちまいそうだ。だが今は衝動を抑え、彼女についていこう。
「どこへ行くんだ?」
「秘密っ」
再びアリスが俺の手を引くと、深緑の茂みへと向かった。小川流れる森の中、せせらぎが俺の意識に語り掛ける。
視線を落とせば、水面には俺が映っていた。前髪がやや長く、後ろ髪が無造作だ。こんなヤツが今から女と向き合うと思うと、堪らず目を背けたくなる。
嗚呼、この流れる音が心の穢れを晒すようで耳が痛い。胸の高鳴りも増す一方だし、そろそろ開放されたい一心だ。
羞恥心を胸に歩を進めると、ようやく秋空と平原が見えてくる。
もうすぐだ。きっとあと少しで──。
「こちらですわ」
目の前に広がるのは、木で造られた小さな廃屋だ。藍鼠色のくすんだ屋根に、傷みきった壁。此処で住むには色々と心許無いが、身を隠すには申し分ないだろう。
「あまり綺麗とは言えませんが……良かったら入って」
アリスがドアを開けると、木を擦るような音が響く。早速中に入れば、数歩程度しかない廊下が視界に飛び込んだ。正面には簡易的な台所、右手には年季の入ったドアがある。
彼女はそのドアノブに手を掛け、狭い部屋に入る。棚やテーブルなど、随所で埃が被る光景はまさに汚れた雪景色。窓から注ぐ光のせいで、浮遊する無数の粒子が目立った。
窓際にあるのは、明らかに単身用と思われるベッドだ。二人で上がるには狭すぎるが、その分密着できるから良しとしよう。
アリスがベッドの前で立ち尽くす中、俺は静かにドアを閉める。バタリと嵌った音がすると、耳鳴りがする程の静寂が漂った。
一歩ずつ近づき、彼女の肩に手を掛ける。
そしてベッドの上へ押し倒すと、俺たちは激しく口づけを交わし合った。
「アリス」
「……っ」
この日、俺は“女”という存在を知る。余りに無知だったせいで、痛い思いをさせてしまっただろう。
それでもアリスは本能を魅せてくれた。彼女なりの慈しみで何度果てたか計り知れない。『本当にこいつは御神子なのか?』と問いたくなる程乱れていた。
けれど、その行為もいずれは終わりを迎える。
空が茜色に染まり、眩い光がベッドを照らす。
種族を越えた俺らは、一糸纏わぬまま抱き締め合っていた。
「こうしてお前と一緒に住めたら良いんだけどな」
「それができるなら、毎日料理を振舞えるのにね」
思えば、アリスの手料理を一度も口にした事が無かった。四世紀経った今ならまだしも、当時は電話すら存在しなかった。しかもいつ会えるか判らない以上、同棲なんてただの夢物語だ。
ぽつりと言葉を交わしては、静まり返る。
彼女の頭を腕に載せながら、そんな語らいをしばらく繰り返していた。余った手で頭を撫でれば、幸せそうに胸元へ飛び込んでくる。
これが最後。これで最後。
その事実が離れられないせいで、俺の涙腺は今にも壊れそうだったのだ。
何故、時の流れはこんなにも早いのか。血にも似た陽光は、彼女に母国へ戻るよう迫り立てる。
「戻らなきゃ……」
アリスはベッドから降り、脱ぎ捨てた衣服に袖を通す。乱れた髪を手ぐしで整えた後、少しずつドアへ近づいていった。
「アレックスさん……さようなら」
唇を震わす想い人。
俺のほうを振り向くと、白いワンピースとまっすぐな髪がふんわりと揺れる。片手を胸に当てるのは、いつもの癖だ。
「もう行ってしまうのか?」
「はい。そろそろ彼らが探す頃ですから」
お前、泣いてるのか笑ってるのかはっきりしろよ……。
下がった眉に溢れる雫、無理やり引き上げた口角──そんな顔を見せられたら、余計辛くなるだけだ。
悪魔が神にすがるのもなんだが。今すぐこいつを闇で隠し、もう一度俺の腕で抱き寄せたい。それができたらどんなに幸せなことか。
俺は、古いベッドの上から見送ることしかできないというのか? 受け止め難い現実が近づくほど、彼女から目を逸らしたくなる。
白いシーツを無意味に見つめていたはずが、
徐々に滲んだ。
見るなよ。
見てんじゃねえよ。
俺の無様な姿を見て、勝手に泣いてんじゃねえよ。
「……さっさと行けよ、この……バカ女……」
お前の顔なんか、もう見たくねえんだ。
「言われなくても、わかってますわ……!」
なら早く消えてくれよ。
こっちはもう胸が痛いどころじゃねえんだ。
「あなたのそういうところ、大嫌いですもの!!!!!」
ああ、それで結構さ。
ドアが強く閉ざされる音。
脳裏にこびりつく、涙まじりの怒声。
忙しない足音が、
遠のいていく。
「……なんで……なんで俺は悪魔なんだよ!!!!」
こんな辛い想いをするくらいなら。
親父からもらった力も、
俺という存在も、
何もかも要らねえ。
天井の一角に張られた蜘蛛の巣。
こんなグロテスクな模様を見つめたって無駄だ。
あの雪のような肌とかさ、
柔らかな感触とかさ、
甘い吐息とかさ。
忘れられるわけねえだろ。
だいたい俺たちの関係なんて、一騎討ちだけで終わるはずだったんだよ。
それなのに……いつの間にか劣情が抑えきれなくなって。
美味そうに飯を頬張ってたお前の顔だって、俺への想いを詠う声だって、
全部ぜんぶ俺のモノにしたかった。
ああ! クソったれが!!
こんなことなら、お前なんかと会わなきゃよかったよ。
「……『お幸せに』なんて言えるか、バカ野郎」
俺は腕を瞼に押し当て、先までの刹那を思い返すことしかできなかった。
7th.Top, A.T.26
私たちが最後に逢った日、あの人が抱き締めてくれた。いっぱい泣いちゃったけど、うるさくなかったかな? 見回りもいなかったはずだし、大丈夫よね。
それにしても、彼の真剣な顔はとてもカッコよかったな。もう二度と見れないと思うと、また涙が……。
本当はお別れしたくなかったの。私から言ったくせにね。お互い話す余裕なんて無かったけど、彼はずっと頭を撫でてくれた。ずっと私を見つめてくれた。どんな神様よりも信頼できる、慈悲深い眼差しだったわ。
でも、時間は待ってくれない。秋は夏と違って陽の沈みが早いの。憎いくらいにね。
それでも告げなきゃいけなかった。
「アレックスさん、さようなら」って。
あの時の夕焼けは、ずっと忘れない。
とても寂しそうな彼を照らしていたから。
もし願いが叶うなら、もう一度あなたの腕で抱き寄せてよ。
『これが最後』なんて言うんじゃなかった……。こんな素敵な人を泣かせるなんて最低だわ。
だから──
私もあなたが大嫌いです。
最後まで憎まれ口を叩くあなたが、大嫌いです。
……なんて心から言えたら、とても楽なのにね。
今度こそさようなら、アレクサンドラ。
これが最初で最後の恋かもね。
これからは、ティトルーズ王国とミュール島を守る御神子として生きます。
あなたに、ミュールの御加護があらんことを。
大好きでした。
この世で、一番──
「くっ……あぁ……!!」
黄ばんだ厚手の紙に、いくつもの滲みが落ちる。
もう抑えきれなかった。
御神子との記憶が、
走馬灯みてぇに何度も何度も駆け巡ってくるんだよ……!
頭が、胸が、チクチクするんだよ……!
「ごめんな……お前にきちんと気持ちを伝えるべきだった……」
次のページを捲らなきゃいけないのに、指先が動かない。こんなに汚しちまって、返す時にマリアに怒られるだろうな。
でも、そんな事はどうでもいいさ。こうしてアリスの気持ちを知れたのだから。
刹那、右側から一条の光が射し込む。
窓辺に映るのは、霞がかった空と淡く色づいた雲。
その景色もまた、時の流れを物語る。夏は秋と違って陽の入りが早いものだ。ビックリするぐらいにな。
大丈夫だ。
今、お前の魂は末裔の中にいる。
俺は一人じゃない。
あの頃と違って仲間もいるし、両親は平和に暮らしてるし──何より、お前が傍にいてくれる。
日差しは冷え切る空間を温め、夏の始まりを再び告げる。
だが、今日に限ってはそれが心地よいと思えたのだ。
瞼が急に重くなり、手先の感覚が失われていく。
そのままソファーに埋もれた俺は、緩やかに暗闇へ落ちていくのだった──。
「あなた」
誰かが呼び掛ける。この澄み切った声はアリスかシェリーだろう。
雲ひとつ無い空の下、暖かな風が蒼の花々を揺らす。ネモフィラとも呼ばれるそれは、まるでシェリーの髪色にも似ていた。
「こちらですわ。早く」
声のする方を向くと、大きな麦わら帽子で顔を隠す少女が遠くで立っていた。
帽子が風に飛ばされぬよう、片手で必死に押さえる彼女。
徐々に近づくと、華やかな香りが運ばれてきた。
「お前は……?」
風に揺られる髪は腰まで長く、青白く輝いている。均衡の取れた体格を包むのは、アリスが着る純白の衣装だ。
無数の花弁が舞い上がる中、彼女は言葉を紡ぐ。
「私は、あなたの心の中に在り続けますわ。例え、何度生まれ変わろうと──」
遮ったのは、けたたましく咆哮する風。
水晶のような瞳が垣間見えたのは気のせいだろうか。花々は横倒しになり、彼女の髪は乱れる程に流れた。
「おい! 今なんて……!!」
言葉の最後を知りたくて手を伸ばす。だが、視界は瞬く間に花吹雪に支配されてしまった。
やがて暴風が過ぎ去り、視界が晴れて──
唸るような振動音が、意識を叩き起こす。
瞼を開けると、眼前にはテーブルが広がっていた。卓上にあるのは、開きっぱなしの日記帳と置き去りにされたティーセット──そして通信機だ。
音の正体に手を伸ばし、硬く平べったい物体を取り出す。その物体を縦に開くと、『Sherry』という字面が液晶に浮かび上がった。
ほぼ脊髄反射でその画面に触れ、端末を耳に当てる。直後、朝に相応しい声が耳を伝ってきた。
「こんにちは、アレックスさん」
「ああ……おはよう」
「良かった……何度も鳴らしましたが、一向に出なくて気掛かりでしたの。もしかして、ずっと寝てました?」
「うん……って、今何時だ?」
「もう一時ですわよ」
その事実が上半身を一気に起こし──
──ガッ!!
「ぬぉぉおおおおおおぉおお!!!!!」
「ちょっと、大丈夫ですか!? 何がありましたの!? アレックスさん!!」
言えねえよ、起きた勢いでテーブルに足をぶつけたとかさ。
いや、マジで痛え。
このまま死ぬんじゃないかってぐらいに痛え。
「うあああ……クソ……」
「あの……」
ようやく、痛みが引いてきたか……。ぶつけたとこがばっちり腫れてやがる。まあ、シェリーからすれば何が起きてるかさっぱりだよな。そろそろ話さねえと……。
「気にするな。活を入れただけだ」
「……足、ぶつけましたよね?」
「俺がそんな誤ちを冒すわけ無いだろ。……まだ痛えけど」
「それはそうと、昼食を作りに行こうと思いますの。今からお家に向かっても良いですか?」
何だか無視された気がするが、別に気にしてねえしすげえ良い提案だと思う。別に気にしてねえけど。
それでもシェリーの手作りは食いたいので、思わず首を縦に振ってしまう。
「ありがとう、ぜひ来てほしい」
「はい! 食材は私の方で調達してきますね」
「おうよ、買ったらそのまま家に来てくれ。場所は判るだろ?」
「勿論ですわ。それでは、また後ほど」
通信はシェリーの方から切れた。恋人がサプライズで来てくれるのは嬉しいが、何から手を付けよう……。
何となくアリスの日記を手に取ると、羊皮紙に張り付いた滲みが目に留まる。その綴りは俺の胸を締め付けるが、『今は違う』と敢えて首を横に振った。
「安心しろ、アリス。俺たちはいつだって一緒だ」
指の腹で肉筆をなぞる傍ら、自然と顔が綻んでいく。
『私もあなたが大嫌いです』
俺もお前も、嘘をつくのが下手だよな。
宥めるように栞紐を挟むと、汗でよれた記憶を静かに閉じた。
(終話へ)
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