しとしと降る雨の中、俺の隣には白い傘を指す少女がいる。水玉模様を描いた黒のオフショルダーに、ベージュのワイドパンツという出で立ちの彼女はエレだ。両手で柄を持つその仕草と横顔はどこか寂しげで、なぜか胸が苦しくなってしまう。
だから俺は視線を戻し、彼女の家へと歩みを進める。俺たちの間で生まれた会話は『次の角を右に曲がるのです』『こっちで良いのか?』と道案内程度。露先同士が当たるか否かの距離にしては、会話がはっきりと成立していた。
だが、こんな息詰まった空気にいつまでも耐えられる俺じゃない。そろそろ何か話題を振ろうと口を開いた矢先、煙突付きの木造住宅が左の方から見えてきた。
赤白橡に彩られた壁に深緑の屋根と、自然を彷彿させる家だ。手前には、レンガ造りの柱に支えられた両開きの門扉がある。ティトルーズ城のそれと違って遥かに丈は低いが、黒鉄の鋳物が重厚感を与えた。
「さあ。どうぞお入りください」
エレが数歩前に踏み入れ、扉の裏側にある鍵を解錠する。それから鉄の軋む音と共に外側へ開かれると、彼女は俺に微笑を向けた。
「今お茶をご用意しますから、お掛けになって待っていてくださいね」
裏柳色のソファーがあるリビングに通された俺は、彼女の言葉どおりその席に腰掛ける。彼女が台所へ消える間、俺は部屋の中を見回すことにした。
波模様が刻まれた壁に、光沢がある黒のテーブル。見上げれば三輪の鈴蘭を模したライトがあるものの、灯りが無いせいで仄かに暗い。視線を右に向ければ暖炉があるが、梅雨の時期に石炭を焚べるヤツはいない。
洗練としたこの空間は、三〜四人でゆったりできそうな広さだ。おそらく三年前まではヒイラギと一緒に住んでいたのだろう。
そんな風に眺めていると、エレがトレイを両手で掴んだままリビングに入る。トレイの上にあるのは、二つのタンブラーと水色の丸皿に並べられたクッキーだ。
エレは膝を折り、取っ手無しの陶器を丁寧に置く。俺の前に置かれたのは、銀鼠色のそれに木製の蓋をしたものだ。僅かな隙間から花のような香りがする辺り、ダージリンかもしれない。
「以前は一緒に住んでたのか?」
「はい。もうだいぶ前の事ですけどね……」
未練を残すように、悲しげな声音で答えるエレ。上がる口角を崩す事はないものの、昨日の一件──ペルラ村への襲撃──があればそう簡単に笑顔になれないはずだ。
「それより、こちらを是非召し上がってください。張り切って多めに作っちゃったのです」
「これは?」
「リヴィのクッキーなのです。あの場所にはあまり良い思い出が無いのですが、このクッキーと林檎だけは大好きなのです。よくベレと一緒に作っていたのですよ」
早速一枚を持ち上げ、裏表とひっくり返しながら眺めてみる。麦色に焼かれた丸いクッキーは、俺が知るモノと違って表面がほんのり柔らかい。花弁のように散りばめられたナッツは、おそらくスライスアーモンドだろう。
じっくりと見つめたあと、いよいよ前歯でかじってみる。意外にももっちりした食感で、控えめな甘さだ。噛めば噛むほど味わいが深まり、アーモンドのやや堅めな食感が存在感を残していく。気が付けば二枚目、三枚目と手が伸びてしまう程の美味さだ。
「わざわざ作ってくれてありがとう。すごく美味いよ」
「喜んで頂けて何よりなのですっ。たくさんありますから、いっぱい食べてくださいね」
『食い過ぎは禁物』とわかっていても右手が止まらない。時に紅茶を挟むことで口を休めても、身体はこのクッキーを欲していたのだ。
エレはそんな俺をさっきから見つめて笑みを浮かべている。ちょっと恥ずかしいが、俺を見て喜んでくれてるなら良いか。
ゆっくり噛んでいたはずなのに、いつの間にかクッキーは残り僅かだ。『好き』と言っていただけあって、エレもそこそこの頻度で手を伸ばしている。お淑やかに食す様子は初めて一緒に飯食った事を思い出す。……もしシェリーら花姫と出会うことが無ければ、彼女との交際も有り得たと思う。
「あの……どうしました?」
「いや、ただ見てたかっただけだ」
「もうっ、またそれなのです!? あんまり見られると恥ずかしいのですよ……」
「あはは。隣に美人がいりゃあ見惚れちまうんだよ」
初めて会ってから二ヶ月しか経っていないというのに、何だか懐かしい事のように思える。エレは頬を紅く色づかせながら、くすくすと慎ましく笑った。
それから嬉しそうに上目遣いすると、聴色の唇を開けて話を切り出す。それは、俺に深い話をするような口ぶりだった。
「アレックス様から見て、わたくしはどのように見えますか? きちんと……生きているように見えますか?」
「えっ。んと、生き生きしてるようには見えるが……」
「ああ……それなら良かったのです」
笑みを浮かべたかと思いきや、アンニュイな横顔を見せるエレ。『生きているように』の意味について疑問が過ぎった矢先、彼女は思いもよらぬ事を口にした。
「わたくしは、あの国では“死者”のような扱いなのです」
「……何故だ」
「それは……わたくしが、この髪型だから」
彼女は目線を落とし、毛束を掴む。長い横髪にして、後はボブカットというちょっと不思議な髪型──でも、それが何故リヴィで死者として認識されるのだろうか。
そして彼女は、俺に真摯な眼差しを向けたまま語る。
当時のわたくしは、ベレと同じくらい髪が長かったのです。ですが、一緒にリヴィを抜け出すときにオークに後ろから髪を掴まれてしまって。その頃、ベレはわたくしの前でもう一体に捕まって何もできませんでした。
ですから、わたくしは護身用のダガーで髪を切る事で危機を脱したのです。本当は殺生なんて苦手なのですが、その勢いで二体を刺し殺しました。
その時わたくしは、自分自身に誓うようにこう言ったのです。
『一緒に生きられるなら、過去の自分を捨てる。故郷も両親も、自分たちを苦しめるものは全部要らない』と。
リヴィにとって髪は生命の象徴ですから、髪を切る事は“死者”同然なのです。わたくしだって酷いことを言われるのは嫌ですが、ああでもしないと命が危なかった。
その後、『せっかくあなたから貰ったリボンを汚してごめんなさい』と謝ったのですけど、あの子は『そんな事はどうでも良い』と言って抱きつき……ずっと泣いていました。とても気の強い妹があんな風に泣いたのは、初めてだったのです。
ベレから貰った白いリボンは、今も宝箱の中に保管しているのですよ。あれは、わたくし達が生き抜いた証なのですから。
「お前らにそんな事が……辛かったよな」
「良いのです。そうしたことで、アレックス様に出会えたのですから」伏し目がちに首を横に振るエレ。
「リヴィは確か、『調和の乱れはやがて他国の標的となる』って理念で動いてたよな」
「はい。『一人でも考えが異なれば、いずれは混沌に繋がる』──両親からそう教わったのです。でも、あの子はリヴィの理念に納得いってなかった。『そんなの窮屈すぎる』って」
「そうだな。俺も同じ考えだよ」
「……勿論、両親はそんな彼女を許さなかったのです。お父様は、彼女が普通じゃない事をやったときは必ずぶたれました。わたくしと一緒に内緒で他の国へ出掛けても、あの子だけが殴られたのです。『殴るならわたくしを』と何度も言っているのに、『あなたはとても良い子だから』の一点張りでした」
「子を殴る親は人間以下だ。それが嫌で、お前らは他の国へ?」
「それもあるのですが、“吟遊詩人”という夢があって彼女と一緒に世界を旅した事もあるのです。中でも、あの子は東の国をとても気に入っていました」
「あの独特な国か」
「ええ。一番最初に出掛けた国なのもあって色々戸惑ったのですけど、優しい人が多くて風情のある国でした。アレックス様は行ったことあるのです?」
「うーん、ちょっと。だいぶ前だから細かい事は憶えてない」
「でしたら、銀月軍団との戦いに蹴りがついたら一緒に行きませんか?」
……まいった。こればかりは曖昧に『Si』なんて頷けない。だから俺は、極力波風立てないようにこう言った。
「せっかく花姫たちと出会えたんだ。どうせなら皆で行こう」
「賛成なのですっ! ……その前に、ベレの目を覚まさせてやるのですよ」
「良かった。やっと笑ってくれて嬉しいよ」
「……わたくしは、あの子を信じたいのです。『魔族に転身しても、姉への気持ちは変わらない』と」
「強い女だ」
俺がエレの肩を叩くと、彼女の顔が一気に赤くなる。彼女は振り切るように席を立つと、棚に飾られた写真立てを持ったまま戻ってきた。
「これは、まさに東へ出掛けたときの写真なのです。この頃のベレは、今と違ってわたくしと同じ髪色でした」
俺は木製の写真立てを両手で受け取り、その中で佇む二人のエルフを眺める。
黄金の髪を靡かせる姉妹は、幸せそうに微笑んでいた。右がヒイラギで、左がエレ。この頃にはリヴィを抜け出していたのだろう、エレは現在のように髪が短い。着物と呼ばれる民族衣装を羽織り、花の髪飾りをつけた彼女らはとても美しかった。
背景は、漆喰の壁と瓦屋根の建物が並ぶ場所。通り過ぎる人々は誰もが着物姿で、そこがティトルーズ王国とは違う国であることは一目瞭然だった。
俺が「ありがとう」と言って写真を返すと、エレは元の場所に戻して席に着く。その時、彼女は竹で作られた小さく細い棒を懐から取り出した。先端が匙のように丸まっている辺り、耳掻きのように見える。
「では、アレックス様。お膝の上で横になってください」
「なっ!?」
「今日来てくださったお礼なのですよ」
なんで、よりにもよって膝枕なんだよ……しかも耳掻きを持ってるってことはまさか……。
「来ないのですか?」
「いや、今行く」
悲しそうな目で見つめられたら、余計断れねえだろ。俺はシェリーにそうしてもらった時のように頭を膝上に預けると、硬い先端がそっと耳の中に入り込む。
ただ耳掃除をしてもらってるだけなのに、何故かすっげえ変な気分になる……。だから心を無にして目を瞑るのだが、エレは容赦なく甘い声で囁いてきた。
「気持ち良いですか?」
「ああ」
「それなら……もっとご褒美をあげなきゃね」
待て待て待て。それ以上の事ってやっぱあれか? 今度は舌で耳掃除ってか? それされたら色々な意味で俺死ぬぞ??
「こういうの、本当はベレの方が得意なんですけどね。でも、今はわたくしが独り占めなのです」
この状況、天国だか地獄だか判らねえ。純粋に美人に耳掃除をしてもらうだけなら天国だが、シェリーに知られたら地獄へ真っ逆さまなんだよな。
「えっと、その……エレちゃん」
「はい」
「ご、ご褒美って……何だ?」
「決まってるじゃないですか。あなた様のお耳にえっちなことをするのですよ」
よせ、それだけはよせ。いくら俺でも、んなことされたらマジで倫理観がぶっ壊れる。
だから此処は全力で阻止しなきゃならねえ。今の俺は、ティトルーズ王国を救うことと同じくらい重要な責務を背負わされているんだ!
「す、すまんな。明日は出撃の日だから、それ終わったら帰ろうと思ってるんでね」
「そうですか……でしたら仕方ないのです」
ああああ一命を取り留めた……。声、上ずってねえだろうか?
ごめんなエレちゃん。俺としては大歓迎だが、此処は筋を通させてもらうよ。
耳掻きが終わると、何事も無くエレの家を出る事に成功した──
と思ったのだが。
石造りの小さな階段を降り、紺の傘を開いて門扉へ進む。
解錠してドアノブに手を掛けた瞬間、ほっそりした手を俺の腕に絡めてきた。
「どうし──」
振り向いた矢先、俺の唇が柔らかなもので塞がれる。
そして彼女は俺の身体を抱き締め、吐息を艶かしく送り込んできた。
突然の出来事に胸が高鳴り、息苦しくなる。
動揺する余り、手が震えている。
ついに傘が滑り落ちそうになった時、彼女はやっと唇を離してくれた。白肌は桜のように色づき、髪から滴る露は彼女を艶めかせる。
皮肉なことに、今日は想像を掻き立てる格好だ。大きく開いた肩は細く、露わとなった臍は縦に伸びている。しかも脚を覆うワイドパンツが、スレンダーな身体をより引き立たせるのだ。
こいつ、真っ直ぐな目をしてるくせに……あざとい。
そんな事を思っていると、彼女の目尻から雫が流れた気がした。
「わたくしは、もう逃げない」
その言葉は、儚くも力強いものだ。
しかし不意に胸を打たれる中、彼女は背を向けて玄関へ戻っていく。一人取り残された俺は、ダークブラウンの扉を呆然と見つめるしかなかった。
小間を叩く音が、誰かの足音で掻き消される。その足音は急ぐように過ぎ去るも、俺の意識をはっきりと揺さぶった。
ようやく門を抜け、音がした方を向く。左方から正面奥へ駆ける女性の髪は蒼く、腰まで伸びている。……って、何処かで見覚えのある姿だ。ふと左を見れば、十歩程離れた道端には天色の傘が落ちていた。
なぜ少女はあの傘を置き去りにしたのか?
傘が落ちている方へ向かい、一旦自分の傘を下に置く。表面をあしらうクチナシの小花柄に、鳥籠のように覆われた小間。その傘を持ち上げたとき、ピオニーの残り香が鼻腔をくぐった。
その香りは、目に焼き付く少女の姿と見事一致。
だが──同時に戦慄をもたらしたのだ。もう一度走った方に目を向けても、既にその姿はない。
「……俺としたことが」
手を伸ばす気が失せた。今の俺には、灰色の空を見上げる事しかできない。
全部俺の不手際だ。もう傘なんざ要らない。
この情けない図体は、罰を受けるように無数の雫に叩きつけられたのだ。
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