・カプレーゼ:輪切りのトマトにモッツァレラチーズを添えたサラダ。味付けはオリーブオイルなどで行う。
『女心と秋の空』とはよく云ったもの。城の医務室でエレさん達を見舞った翌日、朝からしとしとと秋雨が降り出した。普段通り朝食取って家事をこなしたけど、どうも気持ちが塞がってしまう。昨日のうちに食材を買っておいて正解だった。
それはそうと、私たち純真な花は近日中に神殿へ向かわなきゃいけない。その準備をする前に、昨晩開かれた軍議を振り返ってみよう。
ジャックとアーサーがアルタ街から消えた後、クロエさんは潜入調査を行ってくださった。どうやらアーサーは樹の神殿にいるようで、そこにはエレさんの声帯を必要とする亡霊がいるらしい。どんな亡霊かは気になるけど、元々クロエさんは霊が見えないので詳細は判らぬままだ。
本来なら城の転移装置で樹の都の教会に移る予定だったけど、状況が状況なのでグリフォンで向かう事が決まっている。最近は空から襲う魔物も出没するため、騎士団や防衛部隊の皆さんが何らかの飛行手段──魔物に乗ったり、機具を背負って飛んだり──を用いる事も増えてきた。だから、私たちも用心しないと真っ逆さまに落ちてしまうでしょう。
今回、アイリーンさんとアンナは怪我の影響で出撃の停止が決まった。エレさんもその予定だったけど、彼女の意志と私の考えによって弓を握る事となる。身を案ずるベレさんやマリア・アレックスさんと私も併せて五人──戦力としては一人分欠けている分、より気を引き締める必要があるわ。
……月や焔の神殿に行った時はあまり感じなかったのに、胸がどうもざわつく。それも、私やアレックスさんが何らかの災いに巻き込まれる予感がするの。皆は勿論、あの人に何かあっては──。
「くっ……」
やっぱり、彼を想うと左腕がずきずきと痛む。……でも、苦しむ姿を彼に見せてはダメ。迷惑を掛けるなんて、彼女として失格よ。
姿見を見なくても判ってる。腕が痛むときは、紋章が赤黒く光るという事を。こんな痛みに、負けるもんですか……!
その時、ナイトテーブルに置かれた銀色の通信機が短く震え出す。花柄のファンデーションにも似た機械を開くと、エレさんからメッセージが届いていた。
〈あなた様の恋人を好きになって、ごめんなさい。どうしてわたくしは、ずっと昔からシェリー様を傷つけてばかりなのでしょうか〉
……どうして、エレさんが私たちの関係を? ううん、それ以上に胸がますます苦しくなってしまう。
思えば、四~五年前もエレさんからこんな風に謝られた気がする。もう昔の事だから、あの頃みたいに嫌な感情を懐く事は無いんだけど……せめて、呪いが解けてからにしてほしかった。
エレさん、あなたもお辛い思いをしている事は十分に判っています。でも、その言葉だけは簡単に言わないでよ、ずるいよ……。あなたや他の子たちが想っても痛みは訪れないし、キスしても力が消える事はないんだから……!
「……それじゃあ、ダメ」
想いを伝えられなくて苛立っちゃう事は否定しない。それでも、あの子たちを妬むのは絶対に違う。皆にも過去があって、恋の苦しみをも経験している。少なくとも『あなたは良いよね』という言葉は、戦場を共にする相手に言うものなんかじゃない。
シェリー、私はまだまだ幸せな方なの。そうよ、この涙だって私が弱いせいで……!
「っ……あぁ……!」
無機質な液晶に、雫がぽたりと落ちる。どんなに唇を噛みしめても、雨は勢いが増す一方だ。ああ、これも天気がどんよりとしているせいよ。
既読の印を点けてしまったし、エレさんはきっと不安に苛まれている。それなのに、どうして手が動かないのでしょう。
……今は無理に返す必要も無いんだ。まずは、気持ちを落ち着けてから……。
ふと窓に視線を向けた時、通信機が再び震える。それも今度は長く、発信者の名が泣く私を呼び止めた。
その名も、『Alexandra=VANZO』。凍り付いたように止まる手を無理矢理動かし、何とか端末を耳元に持っていった。私は取り急ぎ涙を拭き、声を明るく装ってみせる。
「もしもし?」
「おはよう。昨夜は遅くまで仕事してたから、こんな時間に起きちまった」
「そ、そうでしたの!? もうアレックスさんったら、規則正しい生活を心掛けなきゃダメですよ?」
「あはは、貴重な休日だからつい爆睡しちまうんだ」
私は彼に合わせて笑ってみるけど、頬の筋肉が引きつってしまう。でもアレックスさんは、追い打ちを掛けるようにこんな事を尋ねてきた。
「なあ、今からお前の家に行って良いか? 昨日『胸騒ぎがする』って言ってたし、エレちゃんの事で気に病んでねえかってさ」
やめてよ、ただでさえ堪えてるのにそんな事言われたら……。
「……もしかして、泣いてるか?」
「ち、違い……ますわ! これは、ただの欠伸ですもの!」
「……そっか。じゃあ、そっちに向かおう」
「待って! まだ私は何も──」
もしかして、勘づかれた? ああ、お食事の準備ができてないのに……!
アレックスさんがいきなり通信を切ったせいで、思わず部屋の中心で立ち尽くしてしまう。あの感じだと、元から行く気満々だっ
「お邪魔するぜ、シェリー」
「ひえぇぇ!?」
わーーー!! いつの間にアレックスさんが背後に!! 合鍵で入ったんだよね? 転移装置を使ったとかじゃ……ないよね?
泣き顔という事を忘れて後ろを向いてしまった時、彼は逞しい腕で私を抱き寄せてきた。
「やっぱり泣いてるじゃねえか」
「違いますってば……!」
胸の中でどんなに否定しようと、アレックスさんは抱き締める事をやめない。それどころか、耳元で囁かれた言葉は私の涙腺を更に壊した。
「出撃の日までは、毎日こうしてやる。俺が後悔したくないからな」
……この人は、どこまでも優しい。長く騎士として戦ったからこそ、恋人と過ごす重みを理解してくれているんだ。
紋章には、蛇男の独占欲が込められている。それが痛覚を通して訴え掛けるのだけど、私の両腕は目の前の悪魔を包み込んでいた。
「アレックスさん……あなたが来ると思ってなくて、まだお昼の準備も……」
「良いさ。俺が食材を買ってきたし、一緒に作ろうぜ。……でも、まずは思い切り泣け」
「ありが、とう……」
彼の大きな手が、私の髪を撫でる。ほんのり湿る皮膚と水の匂いは、雨が大降りである事を物語った。
思えば、半年前もアレックスさんに優しくされたっけ。ジャックに襲われた時、彼はこんな私を庇ってくれた。その時に言ってくれた言葉を、今でも憶えている。
『悪魔の女を助けるためだ』
もう意識はあやふやで、本当に死ぬかもしれないと思った。でもこうして生きられるのは、彼が私を助けてくれたから。どこまでも『身勝手な人』と思っていたけど……嫌じゃなかったのは事実だ。
だから、今度こそ私が彼を守る。もう“死”と無縁の身だもの、私にしかできない事はあるはずですわ──!
「私も、しっかりしなきゃ」
「嬉しいが、全部背負おうとするなよ」
「……ええ」
それから私たちは台所に立ち、一緒に料理を作った。オムレツにカプレーゼ・野菜のスープと、お互いの好きな食べ物ばかりだ。
美味しいものを食べた後は、ソファーに腰掛けて肩を寄せ合う。それだけ切り取ればいつもと変わらない日常だけど、私にとって掛け替えの無いものだった。
「良かったら話してくれ。さっき泣いてた理由」
「……はい」
もう隠すのはやめよう。エレさんからのメッセージも、腕の痛みも全て。私には、真摯な眼差しに嘘をつく事なんかできない。
ゆっくりと息を吸ったあと、伝えたい事をそのまま伝えてみせる。私の言葉に対し、彼の反応は──。
(第五節へ)
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