清の神殿でオーブを手にした俺とシェリー。かつて彼女から別れを告げられるも、もう一度元の関係に戻れると信じていた。
だが、それを拒んだのは彼女ではない。俺の四肢に纏わりつく、不気味な触手だ。
どす黒く、無数の吸盤が埋め込まれた足──長年の経験から、“クラーケン”と判断した。
「なっ!?」
「アレックスさん!!?」
どんなに抗おうと、俺の身体がまるで深淵へ引きずり込まれるかのよう。
シェリーは拳銃を取り出すべく、スカートを捲りガンベルトを覗くが──。
「そんな! 銃が……ない!?」
もしやジャックが奪ったのか……!?
背後には清神が待つものの、本来の彼は魔術を持ち合わせていない。
ならば、シェリーらを巻き込まないためにも此処は──!
「俺を構うな! 早く逃げろ!!」
「でも、あなたを置いていくわけには……!!」
「行け!! 必ずお前の元へ戻る!!」
彼女とは──いや、皆とは二度と会えない。
もう一人の俺がそう囁いてくる。
だからこそ、一縷の望みに賭けるんだよ!!
シェリーは振り切るように横切り、ガニメデと共に去った事だろう。それを物語るように、呼吸が突如失われ肺に大量の水が入り込む。
それでも、この目に焼き付いた光景がある。
彼女が走り去る時、真珠のような光を幾つも残した事を──。
俺はどこまで情けねえんだ。何のために大悪魔の力を授かったってんだ。
身体は暗闇へ引きずり込まれ、視覚も聴覚も──思考も奪われていく。
その刹那、眼前に何者かの姿がぼんやりと浮かび上がる。羊のようなツノを生やし、黒いマントで身を包む男。顔の輪郭は曖昧に映るものの、漆黒の髪とブラウンの瞳に心当たりがあった。
彼は口角を上げ、何やらぶつぶつと呟く。言葉の端々に耳を傾けようとしても、もう何も聞こえない。
ただ言える事は、『そいつが決して味方では無い』という事。
彼はいったい何者なのか?
思考を巡らす前に、俺の意識はとうとう──。
──────────────。
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──────────。
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──────。
どれくらいの時が経っただろう。
最初に戻ったのは聴覚。硬質な物を打ち付ける音は絶え間なく響き、真っ黒だった意識を呼び覚ます。その次に触覚だ。冷たく凹凸のある床が左頬を撫でるせいで、尖った部分が皮膚に喰い込んでいく。
しかし俺が瞼を開けるよりも、聞き慣れた男声の方が鼓膜に速く到達した。
「起きろ」
靴のような何かで脇腹を蹴られ、必然的に瞼が開かれる。だが辺りは依然として真っ暗で、布で視界を遮られているようだ。激痛の余り声が出そうになるが、口の中に鉄臭いものがある事に気づく。
猿ぐつわ──その単語が浮かび上がった時、俺はまた誰かに捕まっている事に気づいた。着慣れた布地や鎧は変わらず、しかし両手を後ろに縛られ、脚でもがく他なかった。
「躾が足りぬようだな。これでどうだ?」
「んぐ……っ!!」
腿にも強い衝撃が走ったと思いきや、何者かに髪を掴まれる。
そして視界を奪う布が剥がされた時、ジャックが俺を睨んでいたのだ。
「が、ぐぉ……」
「貴様とは長年の付き合いだ。これ以上隠す必要もあるまい?」
隠、す……?
何故こいつは、あたかも友達だったかのような言いぐさを?
それに、此処はいったいどこだ? 彼の背後に映るのは、岩肌に包まれた洞窟。だがエンデ鉱山のように整備されており、朱色の光が随所で漏れているようだ。しかも今は冬だと云うのに、全身の毛穴から汗が噴き出る。
ジャックはこの疑問を汲み取る事無く、そっぽを向いて誰かを呼びつけた。
「アマンダ」
「はっ」
おい、何を言ってんだこいつは!
アマンダは、セレスティーン大聖堂で俺と夢魔に殺されたはずじゃ……!?
次々と疑問が駆け巡る中、ヒールを鳴らす音が近づいてくる。
ジャックに手放された俺はそのまま床に打ち付けられると、間髪入れずに空を切る音が聞こえてきた。
「んがぁあ!!」
「起きなさいこの雄犬がっ!!」
この激痛を忘れはしない。ミュール島で捕まった頃、俺はこの女に鞭打たれながらジャックの過去を聞かされたのだ。……それも、シェリーとの情事が大半。
アマンダに指図されるのは癪だが、自分の居場所を確かめるためにも上体を起こし、何とか両脚で立ってみせる。そこには、光沢ある黒の衣装に身を包むアマンダが立ち尽く──
「頭が高いのよ!!」
「ぬぅぅうう!!」
「ふっ……愚か者が」
鞭は俺の顔と上半身を何度も叩き、全身を稲妻が駆け巡る。アマンダとジャックの連携に太刀打ちできず、四つん這いにならざるを得なかった。
「二足歩行の家畜が何処に在ろう?」
「そのまま私を御覧なさい。お腹も空いてる事でしょうし、足くらいは舐めさせてあげるわ」
ああ、クソどもの命令に従う自分が憎い! 身体が勝手にこいつらの言いなりになろうとしてんだ!
頭を上げれば、アマンダは不敵の笑みを浮かべ俺を見下してくる。彼女の服装は極めて露出度が高く、かつて負傷した右目部分には一凛の朽ちた花が咲いていた。尖った耳に蝙蝠の翼……もしや、魔族に転身したのか?
「あらあら、私の美しさに見惚れちゃったようね」
「餌付けはその後だ。大人しくしてろ」
ジャックに言われるがままに待機していると、鎖を引きずるような音が聞こえてくる。彼に首を触れられる中、革で作られた輪が俺を縛り付けた。馴染み深い感触からして人間の皮膚で作られたものだろう。その悪臭ぶりは吐き気をもたらすが、ジャックは構わずつま先で頭を撫でてくる。
「やればできるではないか。ついてこい」
痛みを感じる間もなく、彼が鎖を引っ張れば身体が引きずられる。岩肌に擦られる痛みに耐え切れず、必然的に四肢で歩かねばならない。
暫く洞窟の中を歩くにつれ、掌に穴が開くような感覚が生じる。例え血が滲もうと、彼は傷を見る猶予すら与えないだろう。
急な階段を昇らされるうちに、自分がどんな生物だったか忘れそうになる。ついさっきまではこの手で剣を握り締め、愛しい女に触れようとしていた。──それが今じゃ、ただ歩くための部位になってるのだからな。此処で抗っても、背後に立つアマンダに鞭打たれるのが明白だ。
階段を昇り終え高台に着くと、ジャックは「待て」と命令を下す。すると彼は、何かを見せるように脇に立った。
「この情景、実に美しいと思わないか? 降伏した(ティトルーズの)研究員どもは、俺たちに技術を捧げてくれたのだ」
淡い好奇心が身体を前進させ、崖の端で四足を止める。
ゆっくりと覗き込めば、眼下には壮絶な光景が広がっていた。
滝のように流れるマグマが全貌を照らし、只ならぬ熱気が洞窟を包み込む。人族と魔族は粗雑な服に身を包み、それぞれの役割を果たそうとしていた。
鉄を打ち付ける者に、機械を組み立てる者。時折聞こえる反抗者の悲鳴は、否応なく俺に恐怖心をもたらす。
これまでに戦ってきた兵器は、全て此処で造られてきたのだ。その証拠として戦車は勿論、聖騎士型の機械人形だって大量に並べられている。
奥には粘性の巨大な棺があり、おそらくはスライムで造られたものだろう。中に眠るのは、六本の手が生えた醜い魔人──デーモンを彷彿させるが、その雄の顔に見覚えがあるのは気のせいか?
まさに地獄のような光景に怖気づいてしまい、反射的に身体が後退していく。
俺とした事が、震えちまうなんてな……。自身を監視する兵士やアマンダはクスクスと笑い、ジャックはただ見下すのみ。
もはや理性を漏らす直前。
そんな俺に対し、彼はとどめを刺してきた。
「今日から貴様は俺の犬だ。シェリーと結ばれる未来は無いと思え」
ようやく判った。
もう一人の俺が、『皆に二度と会えない』と囁いてきた理由を。
蛇男が再び鎖を引きずった瞬間。
一縷の望みはマグマに溶かされ、凄惨な調教が始まりを迎える。
(第二十章へ)
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