ヴェステル迷宮の石門を開けば、レンガ造りの通路がしばらく続いていた。壁掛けの蝋燭に照らされたそれは湿った空気で、カビの臭いが鼻をへし折ろうとする。
それでも俺たちは、此処の三階層へ向かわねばならなかった。アイリーンを助け出し、ヴィンセントに一泡吹かせねばならないからである。
道なりに歩いていると、左手には魔法陣の形で青く灯る扉があった。俺がそこで立ち止まれば、花姫たちも同様にまじまじと見つめる。ただマリアだけは訝し気な様子で、魔法陣の下に記された古代文字を指でなぞり出した。マリアが訳すにはこのような文らしい。
魔術を操れる者及び力を有する者以外の入出を禁ずる。
「此処から先は、あたしとアレックスしか入れないようね」
「えっ、二人だけって大丈夫なの?」シェリーが尋ねると、マリアは彼女の肩に手をそっと添える。
「心配要らないわ。それに、今の彼なら頼もしいはずだしね」
「でも、本当に気を付けてね。此処は手ごわい奴らが多いから……」
「アンナもありがとう。……じゃ、アレックス。早速入るわよ」
「陛下! アレックス様!」
エレが近寄り、マリアや俺の手を両手で握り締めてくる。
「お二人とも、ご無事でいてくださいね。ああ、わたくしのような者も入れば……」
「気持ちだけ受け取るよ。お前らも気を付けてくれ。生存確認は通信機で行おう」
俺がそう言うと、アンナとエレ・シェリーが声を揃えて頷いた。
マリアが魔法陣に手を当てれば光が増し、鉄を引きずるような音が響き渡る。扉は俺とマリアを歓迎するようにゆっくりと開いたのだ。
何としても国王を護らねばならない。怪我のこともあるし本当は彼女に城で待っていてもらいたいが……。
これまであらゆる戦闘経験を積み重ねてきた俺だが、これほど緊張するのも久しぶりだ。彼女を喪うことは勿論、シェリーらとも永遠に別れるなんてオチも以ての外である。
だからこそ、その先へ半歩踏み入ったことは俺にとって非常に大きい。
更に半歩、いや一歩進んだとき――
扉は力強く、俺たちと残る花姫たちを隔てた。
辿り着いたのは、先ほどと変わらない場所。錆ついた壁は此処の古さを物語る。
ただ、身体には違和感があった。ゴブリン討伐で身体を動かしたというのに、今はとても鈍く感じる。だから俺は隣で歩くマリアの方を向いてみるのだけど、彼女の唇が少し青ざめている気がした。
「おい、大丈夫か?」
「……だから、魔術師と力のある者だけ、なのね。ただでさえ魔力が落ちてるってのに……」
言葉の端々から苛立ちが感じ取れる。こういう時に効く薬は――
何かが、後ろから迫りくる感覚。
懐に入れようとする手が止まり、背筋が凍る程の恐怖を覚えた。
それはマリアも同じようで、背後を振り返ってみれば――
闇の波が音も無く此方へ押し寄せてきた。
「逃げて!!」
マリアが声を張り上げるのと同時に翼を展開。
俺も彼女に合わせて飛行に移るが、波は急速に迫りくる。
波が、
闇が、
俺の足先に触れようとする。
来るな来るな来るな来るな来るな来るな来るな来るな来るな来るな来るな!!!
これは幻影じゃないのか? でもマリアも焦ってる様子だ。全速力でこの狭い通路の中を飛んでも、いつもより遅いことは自分でも判る。
むしろ走った方が速いんじゃないか?
波との間に僅かな距離ができたとき、立ち止まって直ちにマリアの手を引く。
「俺に捕まれ」
「ひゃ!」
彼女が両足を床につけた矢先、俺は両手で抱き上げて突進するように走った。
重圧な空気をぶち破り、数メートル先にある壁に向かって駆け抜ける。
行き止まり?
いや、曲がり角だ。
右に曲がり、息を切らしながらも死ぬ気で駆ける。
かける
カケル
駆ける!!
「あの先、床が無いわ!」
「なら飛び込めば良い!!」
闇に呑まれるくらいなら、下へ落っこちる方がマシだ!
途切れた路の先は――
暗く、悪臭立ち込める縦穴だ。
でもそれがどうした?
生きてれば良いんだよ。
あと数歩。
もう一歩。
片足で硬い地面を蹴り――
重力に全てを託す!!
「きゃあああああああ!!!」
マリアが落下する恐怖に耐え切れず、悲鳴を上げる。俺の首に絡む両腕が力を込めるせいで、苦しい……!
ええい、この際だ!!
いっそどうにでも
なれ!!!!!!
――ベッチャアアアア!
「ひぃぃいいい!!」
両足に絡みつく不快感の正体は、肉の色を彷彿させるスライムだ。内部は心臓のように脈打っていて、この海全体が生物そのものかと思えてくる。
悲鳴を上げてばかりのマリアは、もう失神寸前と云った様子だ。でも俺の両手にも痺れが来ているし、離して彼女にも着地させようとするのだけど――
「い、嫌よ!! こんなところ歩きたくない!!」
「じゃあ飛ぶか?」
「当たり前でしょ!」
まあ広い通路だ。マリアが翼を広げて飛ぶスペースは一応在るっちゃ在る。マリアが俺から離れた途端、片足をつける直前で浮遊を始めた。サイズこそ人並みだが、太古に絶滅した妖精を彷彿させる。
それにしても、此処はいったい何処だ? 先程と違って壁は石材で造られているっぽいし、天井だってかなり高い。おそらく三階まではあるんじゃないか? 地下水道のようなこの地は、かつて俺が向かったときには無かったはずだ。声を発すればかなり響くので、下手に大きい声を出せば敵が寄ってくるかもしれない。
つか、スライムが付着するせいで歩きづらいな……。こんなことなら着地前に羽を展開するべきだと思ったが、後悔したって遅いのだ。
一歩進むたびに、肉が擦れるような音が通る。マリアはさっきから不機嫌で、もう『戦いどころじゃない』といった様子だ。変に話しかけてもストレスになるだけだろうし、しばらくは無言で――
ん? 前方から足音が聞こえてくるぞ。正確に言えば、スライムを引きずる音。それも複数だ。
「ねえ、後ろからも」
「くそっ! マリア、そっちを頼んでいいか?」
「ええ!」
鈍い感覚を押し殺し、腰に下げた長剣を取り出す。音と気配がだんだん近づくにつれて、シルエットがはっきりと見えてきた。
スケルトンだ。白い塊が粗雑な盾と剣を持って此方へやってくる。本来ならいくら束になっても問題ないが、この状況下だとワケが違う。
俺とマリアはそれぞれの方を向き、魔物どもを迎撃する!
「うぉぉおおおおお!!!」
スケルトンが一斉に剣を振り下ろすも、俺は全てを回避。
まずは目前の盾を貫き、身体を打ち砕く! 盾は木くずを吹き出し、骸骨は一気にバランスを崩した。
次に左方の敵。空振りし、下半身に絡む粘液に難儀しているようだ。俺はそのまま横に一振りして分断に成功。いくら身体が重いとはいえ、これぐらいなら何とかなるか?
「どうした? もっと来いよ」
せっかく陛下を護るという使命を懐いてるんだ。此処で余裕を見せなきゃ男じゃない。
骸骨どもは俺の挑発に乗るほど単純だった。怒りに身を任せ、更に激しく振舞うも俺の前では何一つ意味を為さない。
スライムは未だ俺の両脚に纏わりつく。でも意に反するよう脚に力を込めるだけで、何とか自由に動けるのだ。やがて俺は粘性の液中で足払いを繰り出せるようになり、自身がさらに有利になっていく。
まだまだこれからだ。
時に剣を弾き、時に盾を壊す。
さらに――
「てやぁっ!」
脚を振り上げ、踵で蹴飛ばせるようにもなった。それも纏めて何体と。
宙に放り投げられた骸骨たちは虚しくスライムの海に沈められ、そのまま最期を遂げることとなる。
こっちが粗方片付いたところで、マリアを援護しよう。振り向けば、彼女は得意の焔魔法でスケルトンとスライムを何度も焼き尽くしている。そのおかげか、彼女から三メートルぐらいの間は石床が露わとなっていた。
だが、魔力を相当費やしたのか動きが先程より鈍い。俺はスライムが存在しない箇所に一歩踏み入れるのと同時に、大剣に持ち替えた。
背負う武器を瞬時に取り出し、
横に薙ぎ払う!
「今のうちに魔力を補給しろ」
「わかったわ!」
自身の動きを制限するのは謎の重圧だけ。それも不思議と感じないくらいに、今はかなり身軽だ。
よし、このままスケルトンを殲め――
「どういう、ことなの!?」
マリアのその言葉は俺を振り向かせ、動揺を与えてきた。
彼女の手中にあるのは一つの瓶。本来ならその中に青い液体が入っているはずだが――
無色透明だったのだ。
その事実が、剣を握る手に震えをもたらす。
だが、『それが罠だ』と言わんばかりにマリアの背後から何かが迫ってきた!
俺は即座にスライムを蹴って跳躍。
そして幅広の刃を振り上げる!
――ズバァッ!!
真っ二つになったのは、ローブを纏う骸骨――リッチだ。それは少し前に城下町を襲ったあの魔物とほぼ同様の存在。あの頃は俺の武器に魔法が込められていなかったが、今は問題なく始末できる。おそらく俺たちの隙を突きたかったのだろうが、それも虚しく粘液の中に落ちていった。
それでもリッチは湧き出す一方だ。もう一振りとスケルトンを一掃し終え次第、リッチの討伐に切り替える。マリアもなけなしの魔力で魔物を始末するが、もはやスライムを焦がすことすらままならない。
今度こそ、俺の周囲にいる敵は始末できた。
でもマリアは……。
「ああもう、何なのよ!!」
「落ち着け! 感情的になれば殺られるぞ!」
その時、彼女の左手には先程の瓶が収められてあった。
怒号と共に、リッチに勢いよく投げつける!
「落ち着いてられるワケ……ないでしょ!!」
八つ当たりが効いたのか、割れた瓶は骸骨の魔術師に着弾。ローブと骨を次々と溶かす辺り、酸だと判断した。でも、いつ俺たちがそんなモノを持ち歩いていたんだ? マリアは俺の疑問を読み取るように、棘を込めた声でこう答える。
「あの扉は罠だったのよ! 此処はあたし達の力を鈍くさせるだけじゃなくて、魔力回復剤を無に帰す魔法が掛かっているの! こんなところ、さっさと抜け出してシェリーたちと合流するわよ!」
もうこいつに何を言っても聞かないだろう。確かに彼女の言葉は本当だけど、今はただ「そうだな」と応えるしかない。
「あたしとしたことが、こんな罠に引っ掛かるなんて……もう許せないわ!! はぁぁぁあああああ!!!!」
その光景は、俺にとって信じがたいものだった。
既に魔力が底を尽きたにも拘わらず、彼女は杖を振り回し、リッチの身体を槍のように突く。
ヤツがのけぞっている間も、彼女は一切の隙を見せない。
今度は杖を虚空へ戻したと思いきや、空中に浮いたまま肉弾戦に持ち込む!
「このあたしが、魔法しか使えないとでも? とんだ思い違いね!」
勢いのある蹴りに見覚えがある。おそらくアイリーンやクロエに護身術でも教えてもらったのだろうか。動きに若干の無駄が目立つものの、戦うには申し分ない。新鮮な光景に思わず見惚れてしまいそうになるが、俺は彼女の背後をフォローすることにした。
「いい加減に、消えなさい!!」
似ている。
戦い方も、喋り方も。
いくら血が繋がってないとはいえ、本当に義姉譲りって感じの振る舞いだ。もしアイリーン本人が見ていれば、いったいどんな反応をしていたか。彼女らの訓練もまた、迫力のあるものに違いない。
マリアは残る一体に対し、猛突進。
身体を回転させ、ミドルキックでとどめを刺した!
「えぇい!」
さすがのリッチも動揺したようで、衝撃を腹部で受けて掻き消える。黒い花びらが舞い上がると、ようやく静寂が訪れた。気配がないことを確認すると、大剣を背に戻す。
「……はあ……はあ……」
マリアが息を切らし――
って、そのまま落ちる!!!
「おい、しっかりしろ!」
すぐさま彼女を抱き上げ、身体を揺さぶる。
「ありが、とう。ちょっと疲れただけだから……」
「もう少し耐えてくれ。それまでは休める場所を共に探そう」
此処を歩くだけで時間の無駄だ。今度は俺が翼を展開し、敵に見つからぬよう高度を上げた。さっきの通路があった部分は、もう黒い壁となって泡を吹いている。
「あたしも……探してみるわ!」
マリアはそう言って俺から離れ、もう一度飛び立つ。通路への入り口を探すべく、俺は壁上部を、彼女は下部を調べ始めた。
できれば二階・三階に行ける通路が欲しいのだが……それらしきものは見当たらない。
そんな時、マリアは「あっ!」と声を上げて止まりだした。だから俺は彼女のいる位置まで高度を下げ、壁を見つめてみる。
「此処ならどうかしら?」
彼女が指差すのは、地面から一メートルほど上に在る入り口だ。高さは二メートル弱・横幅は人間二人分といったところで、俺たちのように飛行手段が無ければ決して届かないだろう。
奇襲がある可能性を見て、まずは俺がその中に降り立ってみる。スライムのせいで両脚にべたつきはあるものの、構わず二歩ほど進んでみた。――無論、剣を構えた状態で。
俺が見る限りだと、再び来た時の通路に近い。重苦しい空気が相変わらず続くということは、此処で合ってるのか?
「見つけたとこは此処だけか?」
「ええ。……本当はもっと見回したいとこだけど、また敵が来そうよ」
「なら、しゃあねえか。入ってくれ」
俺がそう言うと、マリアも飛び込んで俺の隣に立つ。彼女は一応、肉弾戦もできるようだが……早いとこ憩いの場を見つけよう。
それからしばらく散策する俺たちだが、何処の部屋を探っても何も無いか魔物が存在するだけだった。スケルトンや下級の魔術師と大した奴らじゃないが、疲労が溜まるとどうしても精彩が欠いてしまう。
「此処も違う、か……」
「あら、木箱があるわよ」
狭い部屋の奥には確かに小さな木箱がある。それは今朝にクロエが俺に贈ってくれたものと違って酷くボロボロだ。壊したいのはやまやまだが、軟い貴重品が入っているかもしれない。
それに……木箱を凝視し、耳をすませてみれば呼吸をしているのが判る。そこで酸の入った小瓶を取り出し、箱の上から垂らしてみることにした。
透き通る一滴が木材の表面に落ちると、奇妙な呻き声が聞こえてくる。この存在こそが“ミメーシス”で、迂闊に手を出せば噛み千切ってくる恐ろしい魔物だ。
木箱が亜麻色の液体となって溶けると、紙切れのような何かが落ちているのが見つかる。膝を折って拾い上げてみれば、何らかの紋章を描いた札を手に入れた。札の中心に大きく描かれてあるのは、陽の紋章だ。
「御守りだったのね」
「陽のエレメントなら、魔物に投げれば浄化できるかもな」
別に投げなくても、持っているだけで陽の魔法を多少受け止めることはできるしな。特に月のエレメントの持ち主ならもろに受けるとヤバいから、アイリーンを助けたら彼女に譲ろう。……その時までに持っていれば良いが。
もうこの一階に用はない。少し歩けば石造の階段が見えるので、俺たちは重い足取りで一段ずつ登っていく。
気のせいだろうか。昇るにつれて鉄と油の臭いが鼻腔をくぐってくる。俺は自分の感性を確かめるべくマリアの方を向いてみるのだが、彼女は気味悪いモノを見たような表情だった。
「お前もわかるか?」
「勿論よ。『嘘だ』と思いたいけど……」
何か思い当たる節でもあるのだろうか。
階段を登り切って数歩進んでみると、とてつもなく広い空間に辿り着く。不思議なことに、この階だけ天井がそこそこ高いのだ。
何があるというんだ……?
呆然としていると、背後で鉄の下りる音が聞こえてきた!
――ガシャン!
「そんな……戻れないの!?」
マリアが愕然とする中、俺たちに何かが襲い掛かってくるのがわかった。
頼む、間に合ってくれ!!
眼前に迫るのは、矢のように降り注ぐ光。
俺はマリアの前に立ち、長剣を持って全ての光を捉えた!!
――シュバババババババババ!!!
剣身で雨を受け止めたことで、何とか一命を取り留める。
だが、それは次の戦いの始まりでもあった。
なぜなら――
「なんだ、あれ……!?」
幾つもの人面を埋め込んだ幅広の機械が、こちらに向かって走ってくるからだ。
(第六節へ)
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