──客船のバルコニーから。
エク島へ向かう当日。午前五時にシレーナ港で花姫たちと待ち合わせした後、マリアが用意してくれた小型の客船で出港した。
先頭にある弥帆柱は、一角獣を彷彿させる。前方と後方には二本の帆柱があり、うち前方には帆桁がクロスするように取り付けられている。各々に黒い綱を括り付ける事で、船全体を引っ張り上げているようにも見えた。
客室と煙突は、帆柱に挟まれるように位置する。丸太にも似た二つの赤い筒からは、白雲のように煙をもくもくと蒸していた。客室は煙突の前に設置され、中には個室や食堂・医務室・簡易会議室がある。ただ『客船』とは云うものの、軍用なのでカジノなどの娯楽施設は存在しない。
早朝になれば、職人たちが漁に出るはずだ。しかし朱い地平線を駆けるのは、今の所この純白で装飾された船だけ。水面には一筋の光が差し込まれ、今にも夜色から空色に変わろうとしていた。
こうして日の出を見るのはいつぶりだろう。ヘプケンを離れた時以来かな──と、手すりに片手を添えながら眺めていると、右後ろから小柄な気配が駆け寄ってきた。
「見てみて! 太陽が昇り始めてるよ!」
はつらつとした声を上げ、東の空を指差すのはアンナだ。橙色のワンピースを身に纏う彼女は、風に飛ばされぬよう余る手で麦わら帽子を押さえる。土色の毛束とスカートが微かに揺れると共に、潮の薫りが鼻腔に入り込んだ。
アンナの声を聞いたのか、再び誰かの足音が聞こえてくる。それは振り向く間も無く、俺の左腕に絡みついてきた。
「アレックス様と一緒にこんな光景を見られるなんて、幸せなのです」
花柄のカットソーに、七分丈のスキニーデニムという出で立ちのエレ。短い裾から白い肌を覗かせる辺り、バカンス感覚が抜けないのだろう。
それはそうと、アンナがこちらを見て何やら口を尖らせている。眉根を寄せ、桃色に色づく頬から嫉妬が窺えるが、まさか彼女が俺に惚れてるわけ──
「お・は・よ♡ 良い朝だな」
「おわぁ!!」
やべっ、落ちる──!! 突然の低声が鼓膜を支配するせいで、思わず海に身を投げそうになる。幸いエレたちに支えられたが、此処で溺れたら洒落にならないぞ……。
「ベレ! アレックス様が落ちたらどうするの!?」
「何を言う姉貴。朝の挨拶は大切だと教わらなかったのか?」
俺を驚かせた女の正体はヒイラギだ。格好は姉と似るものの、ボトムの丈が長い代わりに肩も露出させる。墨のような毛束がふんわりと靡く中、彼女は勝ち気な笑みを浮かべた。
ヒイラギは黄金の瞳でアンナを見ると、近づいて帽子を取り上げる。アンナが「あっ」と声を漏らすも、ぺたんこになった髪を荒々しく撫で始めた。
「お嬢ちゃん、よく眠れたか?」
「ちょ……子ども扱いしないでよっ」
抗うアンナだが何だかんだで、まんざらでもない様子だ。この二人が仲良しなのはちょっと意外に思ったが、アンナがエレと親しい以上それも有り得る話か。ちなみに、アリかナシかと訊かれたら間違いなく前者。何とは言わない。
「眠れないときはうちの所へ来い。添い寝してやるぞ」
「だからボクはそういう歳じゃないんだってー!」
……いかん、朝から妙なこと考えてたら戦いに支障が出る。それに、顔に出したらシェリーに何されるかわからんからな……。
ちなみに何故ヒイラギがこの船上にいるか。経緯は少し前に遡る──。
『お待たせなのです!』
『あら、エレ……って、その袋は何かしら?』
シレーナ港で待ち合わせする中、エレは巨大な絹袋を引きずりながらやってきた。上下に動くその袋の中には、まるで誰かが入っているかのよう。マリアを始め誰もが訝しげに見つめていると、エレがこんな事を言い出した。
『ベレが“うちも連れてけ”とうるさくて……でも早起きが苦手なので、こうして連れて行くしか無かったのです』
『陛下、如何なさいますか?』
『……執事たちに迷惑を掛けないなら良いわ』
ヒイラギもまた戦力になるが、それ以上に男好きが災いするかもしれない。それはマリアも同じことを思っていたようで、『不本意だけど』と言わんばかりに溜息をついた。この時ヒイラギは起きる気配が一切無かったため、エレが個室に放り込んだのである。
ヒイラギは熟睡できたのか、上機嫌でエレやアンナと会話する。
その時、白のチュニックにホットパンツという眩しい出で立ちの少女──シェリーがやってきた。程よく膨らんだ胸を布で覆い、透き通ったベールでくびれを包み込む。くっきり見える谷間にすらりとした太腿と、密かに俺を誘っているとしか思えなかった。
「皆さん、おはようございます。朝食の準備ができましたわ」
「わーい!」
「アレックス様も早く!」
「ああ。後で行く」
アンナが喜んで屋内に向かうと、エルフ姉妹ものんびりと後を追う。
彼女らが客室に向かった事で、賑やかな空気から静かな空気に一変。シェリーと二人きりになった俺は彼女の腕を掴み、壁際へ追い込んだ。
「わ……っ!」
シェリーの声が誰にも聞かれぬよう、唇を塞ぐ。舌を絡ませると、彼女はよがるように腰を動かした。
誰に見られるか判らないスリルに身を委ね、さり気なく弄ぶ。けど、長くこうしてはいられない。彼女のリアクションがピークに達する直前、唇を離すことで唾液が糸を引いた。
「行くぞ」
「もう、意地悪すぎますわ……」
瞳を潤ませるシェリー。続けたいのはやまやまだが、誘惑を断ち切るように俺から距離を置いた。
洗練された廊下を歩き、左手にある両開きの扉を開く。俺とシェリーが辿り着いたのは食堂だ。窓一面に広がる海を背景に、赤い絨毯を踏みしめる。白い柱が疎らにそびえる中、花姫たちは円形のテーブル席に着いていた。中央に位置するそこで空席に座ると、向かいのアンナが首を傾げる。
「二人とも何してたの?」
「作戦会議だ」
マリアやアイリーンを除く一同が目を丸くするが、それは気にしないでおこう。
ちなみに俺の左隣にはエレ、右隣にはシェリーが座っている。僅かの時間でも恋人と一緒に座れるのは、実に嬉しい事だ。
地中海を想起させる食べ物が、白のテーブルクロスを隙間なく埋める。中でも目についたのは、木製プレートに並べられた副菜だ。チーズやトマト・キュウリなどが置かれる傍ら、籠の中にパンが積まれている。
「やっと二人が戻ってきたし、そろそろ食べましょ」
マリアがそう言うと、一斉に食材への敬意を告げる。彼女らは他愛ない会話をしつつ、各々が気になる食べ物に手を伸ばした。
「海を見ながら食事ができるなんて、ますます美味しくなりますわね」
「そうだな」
いくら軍用と云えど、ティトルーズ王家の美的センスが光る場所だ。この豪華な空間は俺たち庶民にとってあまりに貴重であり、誰もがこの瞬間を噛み締めているかのよう。
「それにしても、アンナはよく食べるわね」
「いったい何処に入れてるんだ?」
大食らいな少女に疑問を投げ掛けるのは、アイリーンとヒイラギだ。他の隊員たちも視線を注ぐが、当の本人は食事に夢中で全く気付いていないらしい。
「本来の目的はあくまで救助だけど、何処かの誰かさんが一番張り切ってるわよね」
「えっ!?」
アイリーンの視線が、上品にパンを食すマリアに移る。女王本人の身体がビクッと跳ねたあと、顔を赤らめて声を張り上げた。
「べ、別にあたしは楽しんでなんかないわよっ!」
「『エク島へ向かう』と言って、真っ先に“格好良い水着”をお求めになりましたよね? 随分と過激でしたが」
「だってシェリーがいるんだもん……そりゃあ……」
「そういや、マリアの水着姿は暫く見てなかったね」
「陛下もアイリーン様もセクシーですし、とても楽しみなのですよ!」
「ま、マリアさんっていつも過激な物着てるの!?」
「んぐっ!」
アンナのとんでも質問が飛び交ったせいで、食べ物を喉に詰まらせてしまう。両脇に座るシェリーとエレは慌てて俺に水を差し出してくれた。
「わぁ!! 大丈夫ですか、アレックスさん!?」
「はわわ、水を飲むのです!!」
「…………ありがとう、助かった」
おかげでまた命を取り留めたものの、アンナのヤツ(飯に夢中で)聞いてなかったんだな……。『マリアの水着がとてつもなくヤバい』という会話は耳に入れてたが、『いつも過激な物着てる』となるとニュアンスが変わってくる。……別に、『そんなマリアも見てみたい』なんて思ってねえぞ?
ただ、本当に楽しみじゃなかったら、もっと簡素な施しだったに違いない。仕事を大事にしつつ、隊員たちに僅かでも憩いを与える。俺以上に隊長らしく、どの国の王よりも部下思いだと思った。
「全く、アレックスは本当にモテるわね」
「天然ジゴロな隊長……殿下も面白い男性を選ぶものです」
マリアとアイリーンが他人事のように俺たちを見つめる。美人に囲まれるのは大いに嬉しいが、そんな風に言われてもさして喜べないのもまた事実だった。
皆で食堂を後にすると、各々が自室へと足を運ぶ。俺もその一人だったが、通信機の振動が俺を呼び止める。
〈良かったらボクの部屋に来てくれない?〉
意外な事に、メッセージの差出人はアンナだった。思わず声を漏らしそうになったが、グッと堪えて直ちに彼女の部屋へ向かう。
花姫たちがゆっくりと歩く一方で、アンナだけは先に部屋へ戻ってしまったようだ。いったい何があったのか──いや、何をされるのか判らない。不安と高揚を同時に募らせる自分がちょっと嫌だった。
木製のドアが向き合うように存在する中、俺は『B05』と刻印されたドアの前に辿り着く。何もおかしな点は無いはずなのに、何故緊張してしまうのだろう……。
「よし……」
息を大きく吸ったあと、穏やかにドアを三度叩く。するとドア越しで「ひえっ!」という短い悲鳴が聞こえ、ノブが回りだした。
「来たぞ」
「…………」
僅かな隙間から顔を覗かせるアンナ。彼女は無言で頷くと、指先で『中に入って』と合図してきた。
周囲を見回し、誰もいないことを確認。そっと部屋の中へ入ると、奥に伸びた空間にはベッドやソファー・書斎机が所狭しと配置されていた。
アンナは灰色のソファーに座ったあと、丸いクッションを抱きしめて顔を埋める。俺はその様子に少々戸惑ったが、平静を装い隣に腰掛ける事にした。
「なあ、どうしたんだ?」
「…………」
アンナは未だ無言を貫くが、少しずつ顔を上げて上目遣いで見つめてきた。クッションを手放さぬまま、恐る恐ると口を開く。
「目を瞑って。そしたら、口を開けて……」
えっと……目を瞑り、口を開く……?
何をされるのか判らないが、とりあえず指示に従おう。
──ってこれ、傍から見れば俺が奇妙なヤツじゃないか? この状態で誰かに入られたら、『隊員に手を出している』と思われかねない。
直後、洋紙を剥がすような音が聞こえてきた。口の中に何かが放り込まれ──もしかして……飴? 舌の上で甘い何かがへばりつき、イチゴのような味が染み渡る。そこでアンナは「いいよ」と言ってくれたので、口を閉じて飴を舐め回した。
「ごめんね、こんなことで呼び出しちゃって……」
眉を下げ、顔を赤らめる彼女は俺から視線を逸らす。食いながら話すのは憚るので、『ありがとう』という意味を込めて頭を優しく叩いた。
敢えて相手の反応を窺わず、ソファーから離れる。引き留めるかと思ったが、ドアノブに手を掛けてもなお彼女は動かぬままだ。
「こちらこそありがとう」
どうやら俺の思いが伝わったらしい。振り向きざまに頷いた後、今度こそ個室のある廊下に出た。
さて、到着までどうしようか。本音を言えばシェリーの部屋に行きたいが、出入りする様子を誰かに見られてはいけない。それに、良いところで着いても後味が悪いだけだ。だから俺も自室に戻って任務の確認をしよう。
そう思ってB00──自室の番号──へ戻ろうとした時、アイリーンが正面からやってきた。給仕服のスリットから脚を覗かせ、パンプスで床を踏み鳴らす。彼女は俺と目が合うと、何かを企むような笑みを見せた。
「ちょっとだけ部屋に来て」
いきなり誘われて凍り付く俺。しかし半ば強引に腕を引っ張られ、個室へ連れて行かれてしまう。
そして彼女は、狭い部屋の鍵を掛けた後──
胸元の赤いリボンをするりと解き、ボタンを上から一段ずつ外し始めた。
「さあ、ご主人様……じっくり見て良いのよ」
蕩けたような表情で俺を見つめるアイリーン。
大きな胸元が露わになった刹那、俺は再び劣情に苛まれる事となる──。
(第七節へ)
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