アンナと出掛けてから数日後。今日はシェリーが俺の家に泊まりに来る日だ。陽が昇っているうちは『用事がある』との事で、夕方ごろに待ち合わせ場所へ向かうらしい。
今は午後六時頃──そろそろ陽の沈みが始まる頃だろう。夕陽に照らされた雲は焦がされたかのよう。薄水色の空の下、俺は家を出て近くの本屋へ足を運んだ。
その本屋は、かつてエレと一緒に向かった場所とは違ってこじんまりとしている。その分、品揃えもあまり豊富ではないので俺は立ち寄らないが、読書好きのシェリーにとっては申し分ないようだ。
中に入ると、中央にある三列の本棚が目につく。奥に伸びたその空間はやや狭く、立ち読みする人を横切るのにも精一杯だ。
ふと視線を左の方に向ければ、ワンピース姿のシェリーが文庫本に夢中になっている。……あそこは確か月夜想小説があるとこだよな? 明るいうちからそういうのを読む辺り、俺と好みが近かったりして──。
静かに歩み寄ってみると、シェリーは俺と目が合うや身体を飛び上がらせた。
「はわわっ! アレックスさん」
「悪いな、驚かせて」
彼女は慌てて本を棚にしまった後、身体を俺に向けるも両手を後ろで組んで顔をそらす。……赤面してるとこも、やっぱ可愛いな。
「あの、今の……見てませんよね?」
「何も」
それは真っ赤な嘘だが、いくら恋人と云えど詮索はよそう。
シェリーは安堵の溜息をつき、胸を撫で下ろす。彼女が着るベージュのワンピースは、ブラウスのように裾までボタンが付いている。加えて、透けた生地のスカートがウエスト部分から膝下にかけて重なる──という不思議な作りだ。春に会ったときも白く狭い肩を露出させたし、今回もそういう格好なのは彼女の好みかもしれない。
俺が「じゃあ、行こうか」と促すと、シェリーが後からついてきた。彼女が俺に追いついて横並びで歩くものの、さっきから周りを気にしてばかりだ。余程俺らの関係を知られたくないのだろう。
「心配すんな。これも『大事な親睦』だ」
「そ、そうですよね!」
手を繋げないのはちょっと寂しいが、ここは気丈に振る舞おう。いくら家の近くとはいえ、誰が見ているか判らない。
辿り着いた先は、長方形の窓が複数設置されたクリーム色の建物。此処が俺の住むアパルトマンであり、一部のバルコニーからは草花が生い茂る。玄関をくぐってしばらく階段を昇った後、シェリーを自分の家に招いた。
何の変哲もない場所だと云うのに、シェリーは部屋に入るたび感嘆の声を上げる。彼女が台所に着くと、俺は普段使いのエプロンを差し出した。
「食材、言われた通り買っておいた」
「ありがとうございます! あの、全部でいくらでした?」
「んなの気にするな。お前の飯はタダじゃねえ」
「そ、そんな……!」
せっかく作りに来てくれるのに支払わせるなんて、何処の過ぎた倹約家だ。それにもし食材を買わせていたら、幸せそうに立ち読みする恋人なんて見れないだろうよ。
シェリーはワンピースの上からエプロンを重ね、髪を一纏めにする。……服はちゃんと着てるはずなのに、ノースリーブのせいで正面から見ると裸に見えてしまう。いっそのこと、何も着ずに──って妄想は止そう。油が跳ねて火傷したら大変だからな!
「アレックスさん、またえっちな事考えてます?」
「またって何だよ! 俺そんなスケベに見えるのか?」
「ええ」
即答かよ。しかも笑顔で言わないでくれ、傷つくから。
いよいよシェリーが調理に取り掛かったので、俺は食卓に着き雑談しながら待つ。この時点でかなり腹が減っていたが、彼女が手際良く作るおかげで完成までの時間が短く感じた。
主食は、小エビを入れたトマトクリームのパスタだ。クラムチャウダーや副菜など、卓上はたちまち華やかに。シェリーが向かいの席に着いた後、早速フォークを掴んだ。
フォークを回転させ、麺やクリームを絡め取る。それからエビを突き刺すと、ぷちっと弾ける音が聞こえてきた。いよいよ口の中に入れた瞬間、全てがどうでも良くなるような幸福感を覚える。
「あの、お味はいかがですか?」
これは……美味い……。エビは弾力があるし、パスタも丁度良い歯ごたえだ。トマトクリームだって、牛乳と合わさるおかげで味わいがとても優しい。もし余りがあるなら、是が非でもお代わりしたくなるものだ。
もっともっと噛み締めていたい。けれど、その刹那にも必ず終わりは訪れる。俺はこの幸せを更に味わいたくて、次から次へと手を伸ばしたくなるのだ。
「最高だよ。これからも作りに来てほしいくらいだ」
「お望みなら、いつでも駆け付けますわ。そこまで美味しく食べてくださるなんて嬉しいです……」
「できることなら、今すぐ一緒に暮らしたいさ」
「ちょ、ちょっと! どうしてそんなこと平気で言えますの!?」
「俺は本当の事を言ったまでだ。美人で優しいし、料理が美味いだけじゃない。俺たちはお前の霊力に助けられてるんだよ」
「もう、やめてください……! 恥ずかしくなります……」
ああ、俺はこういう生活を待ち望んでいたんだ。昔も似たような事をしてきたが、今までとは全く違う感覚だ。
それに……どこか懐かしい感じもするんだよ。遥か昔、シェリーに似た女と過ごした気がする。はて、それは何だったかな……。
考えていても仕方ないので、俺は食事に集中して全てを平らげた。他の飯も美味かったし、腹持ちも十分。こんな女、他のヤツには明け渡せねえよ。
「シェリー。今日のためにワインを買ってきたんだ。一緒に飲まないか?」
「良いですよ」
俺は彼女をリビングに通した後、台所から赤ワインとグラスを取り出す。それからソファーに腰掛けて一緒に乾杯した後、色んな話題に花を咲かせた。
しばらく雑談していると、シェリーの頬に赤みがさす。うっとりした表情で俺を見つめた途端、妖艶なムードが高まり始めた。
「あの、アレックスさん……」
「どうした?」
「良かったら、一緒にお風呂に入っても良いですか?」
シェリーが唇を薄く開かせ、両脚をもぞもぞと動かす。その様子を見てやましい事を考えずにはいられない俺は、彼女の耳元でこう囁いた。
「俺と一緒に入って、どうしたいんだ?」
「……っ!」
彼女の口から艶やかな吐息が漏れる。だが彼女は答えるどころか、目を泳がせながら脚を依然と動かすだけだ。そこで俺は、滑らかな肌の上で指先を走らせる。
「お前の口で言ってみろ」
身体を仰け反らせ、喘ぎ声を上げ始めるシェリー。何度も求めてくるが、敢えて期待に添えない。すると彼女の目尻には涙が浮かび、断片的ながら言葉を紡ぎ始めた。
「……抱いて、ください……あなたが、満足するまで……」
「お前も変態だな」
ゆっくりと手を離し、彼女の唇に軽くキスをする。それから背中に手を回して一緒に立ち上がると、そのまま風呂場へと足を運んだ。
接吻を交わしながら、互いの服を脱がしていく。仄かな汗臭も、場を盛り上げるために不可欠な要素だ。曲線を描いた肢体を指でなぞれば、彼女は腰を妖しく動かす。
感極まったところで中に入ると、シェリーは限りなく奉仕をしてくれた。
「ああ! もう我慢できねえ……!」
「ひゃあ!」
当然、そこまでされたら暴れずにはいられない。悪魔に細い腰を掴まれた人間は、この小さな風呂場で何度も悲鳴を響かせるのだった──。
あれで終わりにするなんて、誰が決めたことか。ベッドに戻った後、ワイシャツを彼女に貸したのが間違いだった。……いや、『それが正解だった』と言い直す。
俺のワイシャツをシェリーが着れば少し袖が余るし、なんせ裾から伸びた脚が更なる興奮に至らしめる。それに……胸元のボタンを閉めないなんて卑怯だぞ。そこそこ大きい方だからこそ、目のやり場に困るのは言うまでもない。
「ねえ、アレックスさん。まだ、寝ませんよね……?」
袖で口元を隠し、横座りしたまま誘惑の眼差しを注ぐシェリー。そんな風に求められたら、普通な方法じゃお互い満足できないだろう。ならば──。
「ちょっと待っててくれ」
俺はある物を取るべく、棚の中を漁る。
目当ての物はすぐに見つかった。群青色に艶めく円錐形の瓶。その中を満たす透明の液体は、今か今かと開封の時を待ち構えるようだ。
その瓶を片手で持ったままベッドに上がり、ブリキ製の蓋を開ける。鼻腔に入り込む葡萄の香りはワインを彷彿させるが、ある意味酒より強い効果をもたらすだろう。
意味を察したのか、シェリーが自ら口を開ける。そのまま瓶を傾けて液体を流し込むと、ごくりと喉を鳴らす音が聞こえてきた。
「……ダメ……おさえ、きれない……っ!」
シェリーは間もないうちに息を荒げ、膝を擦り合わせる。
だが、お前のしたいようにはさせまい。俺は勢いよく押し倒し、互いの舌を絡ませる。……それから何をするかって? んなの、言うまでもなかろう。
ついに肉体にも塗りたくられ、理性を支配されるシェリー。
ベッドの軋みが激しさを増し、そして──。
「シェリー、好きだ……!」
「私も、好きです……アレックス、さん……!」
例え流れるような蒼髪が乱れても、彼女は月星が隠れるほど美しかった。長い睫毛は涙で濡れ、甘い歌声で俺を狂わせていく。
嗚呼、俺らの初夜を阻む者など何処にいよう。
身分も種族もどうだって良い。今はただ、このシーツに彼女との愛を染み込ませたいんだ。
だが、流石の俺も限界が近い。野生に帰った俺は女神を見つめ、欲望を飲み込ませる。
苦そうな熱が彼女の喉を通った後、俺らはだらしなくくたばった──。
あれからどれくらいの時が経った事だろう。街は闇に飲まれ、星が疎らに瞬いている。
テーブルに置かれたのは、二つのティーカップだ。紅茶を注げば桃の香りが立ち、ソファーに座る俺たちに安らぎを与える。
「さっきのお前、綺麗だったよ」
「うう、面と向かって言われると困りますわ……」
「ま、次は普通に楽しもう」
「……はい」
恥ずかしそうに頷くシェリー。だが直後、俺の人生崩壊危機に瀕するとは思ってもみなかった。
「あっ、そういえば」
彼女がナイトテーブルの方を向いたのが運の尽き。「どうした?」と尋ねるも、無言で立ち上がって歩いていく。
──そう、そこに置いてあったのは。
「待てシェリー! それは……」
俺の馬鹿野郎、何故彼女が来る前に整理しておかなかったんだ……! シェリーはついに、卓上にある例の五枚の写真を見つけてしまったのだ。
「これ、いつ撮ったんですか?」
やべえ。表向きはお淑やかだが、絶対怒ってるヤツだよ。なんて言えば良いんだ? ……いや、正直に言おう。
「春頃、俺がジェイミーに撮らせた」
「え……えぇ!?」
そりゃ驚くよな。なんせジェイミーの本命はアンナだし──この時は彼女とも出会ってなかったがな──、『自分が撮られる』なんて思ってもみないだろう。
これで別れを切り出されたら腹を括ろう。全ては俺の責任だ。
「本当に悪かった。だが、彼のことは責めないでやってくれ。俺が無理に頼んだことだから」
「……でしたら、次は一緒に撮りませんか?」
「…………え?」
顔を上げても、シェリーは女神のような笑みを浮かべたままだ。俺は……夢でも見ているのか?
「お前、盗撮されたんだぞ? 少しは俺に怒ったって──」
「それだけ私のこと想ってくれてたんでしょ? 本当に、初めて会ったときから気にかけてくださったんですね」
あ……えっと……。
正直、彼女のリアクションが予想外すぎて困惑してしまう。身も心も悪魔である俺を、なぜそんな慈悲深い眼差しで見つめるんだ?
「違いましたか?」
「いや、そういうわけじゃない! ……そのときは、笑顔で撮ろう」
「はい!」
ちょっと変わってると思わなくもないが、喜んでくれてるから良しとしよう。
俺も笑顔で返すと、一緒に元の位置に戻って別の話題に切り替える。
「ねえ、近いうちに合鍵を作りましょうよ。そうすれば何時でもご飯を作れますわ」
「おっ、いいね」
「アレックスさんったら、いつも皆さんをまとめてくれるでしょ。だから、できる限りあなたを癒やしたいんです」
「あれは隊長として当然のことだ。嬉しいが、無理はするなよ」
互いの手を絡ませ、頬を寄せ合う。俺たちの頬が熱を帯びているのは、きっと紅茶のせいだろう。そのまま静かな時が流れ、またもや唇を重ねる。
柔らかな感触が離れると、俺たちは額をくっつけたまま言葉を交わした。
「行くんだろ? ミュール島へ」
「はい。霊力の解放をしなければなりませんから」
「なら、俺も連れて行ってくれ。何となく嫌な予感がするんだよ」
「同じことを思っておりましたわ。……できれば、あなたのお傍を離れたくありません」
「俺もだ」
シェリーが更に霊力を解き放つには、彼女の血統が暮らすミュール島に行かねばならない。
その時に思い出すのは、城下町でデュラハンを狩った日に見た悪夢──あれがただの夢とはとても思えないのだ。
ならば一緒に行く以上、あの書物を尚更読まねばならない。それは、リヴィでマリアから預かった“アリスの日記”だ。彼女の生き様を知ることは俺にとって苦痛ではあるが、これも『シェリーのため』と捉えよう。
こうして、彼女と過ごす初めての夜は新たな責務への架け橋となるのだった──。
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