アイリーンは、秘める想いを打ち明けるべく主人の部屋を訪れる。
一方、マリアは“二日間の記憶”を振り返り、アイリーンの前で涙を溢してしまう。それは、彼女の尊厳を大きく揺さぶる悲痛な出来事でもあった。
名も無き神は語る。二人の間に芽生える、禁断の恋を──。
──ティトルーズ城、マリアの部屋。
マリアはアレックスとの会話を終えた後、アイリーンを招き入れた。給仕服に身を包むアイリーンが、つい先程までアレックスらと敵対していたなど誰が予想できただろう。
アイリーンは罪悪感を懐きながらも、主人の前に立ち尽くす。揃えた手先は小刻みに震え、呼吸は微かに乱れていた。
肌を包帯で覆うマリアは、寝台の上で身体を起こしたままメイド長を見つめる。彼女が小首を傾げれば、波打つ聴色の髪が揺れてアイリーンの心をときめかせた。
「あら、どうしたの?」
「…………」
アイリーンはその碧眼を主人から逸し、無言を貫く。だが、マリアは悪戯を思いついたような笑みを浮かべ、付近に立つ彼女を煽ってみせた。
「珍しいじゃない、ハキハキと喋るあなたが黙り込むなんて。それに、少し顔が赤いわよ?」
「……!」
「ほらお姉様、もっと近くに来なさい」
マリアの上目遣いに胸を打たれ、赤面するアイリーン。暫したじろぐ彼女だったが、半歩ずつマリアに近寄る。アイリーンは片膝をつき顔を逸らすも、色白の手は熱の籠もる頬を逃さなかった。
「さあ、話して。あたしにしか話せない事なんでしょ?」
「……アレックスに、酷いことをしてしまったわ」
「どうして?」
「自分は、本当の気持ちを隠すために彼を利用したの。例えあの人に利用されようと、この身体を満たしてほしかった」
「お姉様、それこそ自分に嘘をついてるわ。あなただって、あの男に惚れてたんでしょ?」
「それは……!」
マリアは、人形のような瞳でアイリーンを覗き込む。本心を見抜かれ動揺を隠せぬアイリーンだったが、諦めを示すように溜息をつく。
「……少し、お嬢様が羨ましかったの。彼がずっと彼女を追いかけてる事は、とっくの前から判っていたはずなのに……ヴェステルで助けられてから、仕事があまり捗らなくなったわ」
「仕方ないわよ。あの並々ならぬ力を『この国の為に使う』なんて意気込む男が現れたら、どんな女の子も一撃だもの。そういうところも含めて、彼は悪魔だと思うわ」
「だけど、それも既に終わった事。今度こそ気持ちと向き合う事にする。だから……聞いて、マリア」
アイリーンは主人の手を両手で包み込み、力強い眼差しを注ぐ。そして彼女は息を大きく吸い、思いの丈を打ち明けた。
「貴女が好きよ。それは、一人の女性としてね」
艶めく声がマリアの鼓膜を伝い、胸を高鳴らせる。先程まで主導権を握っていたマリアは、一変して戸惑いを露わにした。
「ど、どうしてそんな事を……!? だってあなた、あたしの嫌な部分をいっぱい見てきたでしょ?」
「うふふ、嫌な一面なんて無いわよ。時々手に負えないけど」
「もうっ! あたしのどこに惚れたってのよぉ……」
「どこと言われても……全部って答えないと嫌でしょ?」
「何よ、さっきから意地悪な事ばっかり言って! 別に、あの子が彼の元へ行ったって寂しくはないし、ルドルフに襲われても辛くなんか……!」
例え憎まれ口を叩こうと、瞳に浮かぶ涙は止められないようだ。アイリーンは微笑むと、両手を伸ばしマリアの頭を胸に埋める。片手で優しく頭を撫でると、マリアの涙腺はさらに緩みだした。
「さっきの言葉、そのままそっくり返すわ。今は思い切り泣きなさい。そのために“側近”という存在がいるのでしょう?」
「うぅ……あぁぁあああぁあああぁあああああ!!!!!!」
アレックスとシェリーがミュール島へ向かった後、マリアは王配に呼び出され部屋を訪れる。直後、ルドルフ直属の執事に捕らえられ、夫に二日の監禁を許す事となった。
だが、魔力を封じられた彼女に恐怖を注がれる直前。アレックスらが王城を訪れたのだ。それに気づいたルドルフは部屋の鍵を掛け、妻を残してプール室へと去る。本来はアレックスらがルドルフから鍵を奪うはずが、マリアは単身で部屋を脱出。その理由は、溢れる涙と共に明かされた。
「あの子も今、あたしと同じ目に遭っている……それなのに、『今度は私の番』と霊力を意識に送り込んで……痛みを肩代わりしたの! あたしらが女だからってこんなにも舐められるなんて……悔しいのよ……!!」
「……マリア……」
アイリーンは痩せ細った主人を抱き締めながら、十二年前の過去を想起する。かの出来事を重く受け止めるように、彼女は静かに目を瞑った。
──ティトルーズ暦三百三十六年、二十四のラピスラズリ。
しんしんと雪降る夜、幼き王女の絶鳴が城内に響き渡った。
『姫様っ!!!』
モップを投げ捨て、部屋へ駆けるアイリーン。
固く閉ざされた扉を蹴破ると、マリアが絨毯の上で蹲り、何度も『痛い、痛い』と泣き叫ぶ。アイリーンは隣で転がる小瓶を一瞥したが、真っ先に主人の丸まった背に手を添えた。
『どうした!?』
『何事なの!?』
『いやぁ……痛いよぉ……』
後から駆け付けたのは、マリアの両親──すなわち三代目国王と王妃だ。両親も娘を気に掛けるが、当の本人が答える気配は無い。
そこでアイリーンは、先程の小瓶に再び視線を向ける。一見すると空の小瓶、しかしラベルに記された筆記体は、彼女の背筋を一気に凍らせた。
その名も──
Immortalità 《不死の薬》
『姫様……そんな……!』
アイリーンの指先が震え、小瓶が手から滑り落ちる。その小さな落下音が国王たちの耳に届くと、彼も拾い上げてラベルを見つめる。無論、彼らも娘の行動に声を漏らす他なかった。
『なんて事なの……!?』
『マリア! 何故お前が……! そんな薬を押し付けたのは、いったい誰なんだ!!』
『ママ……パパ……ごめんなさい……。全部……あたしが、決めた事なの……。理由は……聞かないで……!』
『あの副作用を娘が経験するなんて……こんなの夢よ!』
不死の薬──服用した者は“死”を断つ代わりに、全ての毛穴を突き刺されるような激痛に見舞われる。
副作用を止める方法はただ一つ、心臓を止める事。痛みは二度訪れることが無いものの、耐えきれず自ら絶った成人が多く存在する程だ。
薬の存在を知る以上、次代の王を殺める事などできるはずがない。王女の傍に在った者たちは、ただただ現状を嘆くほか無かった。
しかし、痛みはようやく峠を越える。マリアの呼吸は未だ乱れるも、背筋を徐々に伸ばし、腫れた目で両親を見つめた。
『あたし、アイリーンと二人きりでお話したい……』
『……わかった』
『服用した理由は永遠に明かされない』と悟った国王は、静かに頷き王妃と共に部屋を去る。ハンカチで涙を拭う母親の背は、アイリーンにとって胸の痛む光景でもあった。
それでもアイリーンは向き直り、主人の話に耳を傾けねばならない。着任したばかりの彼女にとって、筆舌しがたい程の重圧だ。
『何故あの薬を?』
『……もしあたしが先に死んだとき、あの子を一人ぼっちにしちゃう……。それが、嫌だったの』
マリアの初恋相手はシェリーであり、許嫁のルドルフに対しては嫌悪感を抱いていた。ルーシェが清の邪神アイヴィに命を奪われてから五ヶ月間、シェリーは『自分のせいだ』と塞ぎ込む。何度も彼女に手紙を送るマリアだったが、返信を受け取る事は決して無かった。
──どうすれば、お嬢様に気づいてもらえるかしら。
マリアの寂しげな表情が、アイリーンの胸を締め付ける。暫し熟考した末、彼女はある行動に出た。
『ご無沙汰しております、お嬢様。夜分遅くのご訪問で恐れ入りますが、今すぐ馬車にお乗り頂けますでしょうか』
アイリーンは急遽馬車を手配し、シェリーの家へ向かう。当時マリアとは疎遠になっていたシェリーだが、旧友の危機を察知して承諾する。
この時のアイリーンは今にも心が壊れそうだった。ティトルーズ王家に仕える事は、家系に託された使命。次期王配との摩擦や王女の異変が重なっても、胸中を打ち明ける事は許されなかった。
『姫様……どうして、あのような真似を……』
『何かあったんですか……?』
『……詳細を、申し上げかねます。それが姫様の命ですから』
もし明かせば命令を背く事になり、血統に傷がつく。
赤橙の髪に付着する雪は、苦難の表れとも云えよう。シェリーの次の一言は、アイリーンの凍りついた心を溶かした。
『お姉さんも、辛かったんでしょ?』
成人と云えど、十五歳は思春期の最中。彼女は自身より幼いシェリーを抱き締め、いち少女として泣き叫ぶ。
『自分が彼を引っ叩たいていればっ! お嬢様も姫様もずっと一人で過ごす事が無かったのに!! もっと自分がしっかりしていれば、姫様があんなモノに手を出す事は無かったのに!! 御仕えする事がこんなにも辛いなんて、聞いてないわよぉぉお!!!』
精霊祭前夜、一両の馬車は賑やかな街を駆け抜ける。
召使いの嘆きは、民衆の喧騒に掻き消されていった──。
「……もう一人で抱え込まないで。貴女には、これ以上辛い思いをさせたくないの」
「お姉様……」
アイリーンは、マリアの涙が枯れるまで抱き締める。いち使用人として──そして、同じ性として。
「この国は、あたしの我儘でいつか終わっちゃう。皆が育ててきたこの国の未来は、あたしが壊しちゃったの……」
「未来なんて、今は忘れなさい。いつか、貴女が心から『信頼できる』と思った人に託せば良いのだから。それに……我が国が滅びようと、いつまでも貴女の傍にいるわよ」
「……ありがとう……」
日が沈み、夜の帳が降りる頃。
焼け焦げた王都の下、二輪の花が咲き誇った。
(第七節へ)
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