〈今日の帰り、青い傘を拾ったんだがお前のか?〉
エレの家で過ごした日の帰り。シェリーらしき人物の傘を拾った俺は、本人に確認の旨をメッセージで伝えた。
しかし、返事が一切来ることなく翌日を迎えてしまう。ついに城でも彼女と話す時間が取れぬまま、飛行船へ乗ることとなった。
雨天だった昨日と違い、今日は白い絵の具を塗りつぶしたような曇り空だ。空の報せ──ポストに投函される文に、今日と明日の天気を予測したもの──によれば午後は晴れ間が見えるようだし、(リヴィの国の)官邸に行くまではレインコートが要らないだろう。
ティトルーズ王国にある飛行船は軍用と旅客用の二種類が存在するが、俺たち純真な花が乗るのは前者だ。鉄で覆われた楕円形の気嚢に水素を詰めており、その下部は客船と連結している。ヘプケンに居た頃は船をぶら下げたものを見掛けた事があるが、それと比べてスマートである。
客船には会議室・寝室・客室・医務室・食用倉庫・休所と六つの部屋があり、廊下を出ればすぐに移動できる仕組みだ。なお軍用につき、食事は戦闘糧食に限られる。
今俺らがいるのは客室で、当然屋内も鋼鉄で造られている。既に移動中なので、重力は左へと緩やかに流れていく。そんな中、俺は開花した花姫たちを眺める。
向かいに座る三人──左からシェリー、マリア、アイリーンだ。俺の右隣に座るのはエレで、その奥はアンナ。エレがアンナと会話する一方、シェリーの目線は先程から泳いでいた。
「アレックス様」
エレが柔らかな声音で俺の名を呼ぶ。それから彼女は俺の膝上に手を伸ばし、右手と絡めてきた。手の甲に重なる小さな掌はじんわりと汗ばんでいて、緊張が窺える。
けど、今の俺には彼女の温もりを感じる余裕など無かった。何故なら、シェリーがさっきから苦虫を噛み潰したような表情を見せるからである……。アンナは既にマリアたちとの会話に夢中だし、ただこのタイミングを恨めしく思った。
とうとうシェリーは『耐え切れない』と言わんばかりに立ち上がり、蒼い髪が横切る。エレもその様子を目で追っていたが、俺は「ここで待っててくれ」と一言告げて立ち上がった。
硬い椅子から離れた解放感よりも、今は心に纏わりつく靄から解き放たれたい。彼女を追うべく角を右に曲がると、四方に扉や出入り口がある廊下に出た。正面には食用倉庫への扉があり、シェリーはその手前で背を向ける。
「何処へ行くんだ」
俺が尋ねると彼女がゆっくりと此方に向き直ったが、視線を落としたままだ。一人分の距離が、まるで心の隔たりのように感じて息苦しい……。それでも『不安を見せまい』と平静を装っていると、シェリーの小さな口が弱々しく開かれた。
「ちょっと、寝室へ……」
「……抱えてる事があるなら、俺も──」
「大丈夫ですわ。それより今は、エレさんのお傍にいてあげて下さい。それでは」
俺の話を遮り、左奥の扉を開けるシェリー。……あいつの声が震えてたし、大きな碧眼に涙を溜めていたのは気のせいだろうか。
やはり彼女は、俺とエレがキスするところを見たに違いない。そうでなければ傘を置いてまで走らねえし、メッセージの返事が既に返ってきているはずだから。
粛々と閉ざされた無機質な扉を見つめていると、鼻をすするような音が微かに聞こえてくる。耳を塞ぎたい衝動を抑えて客室へ戻ろうとした瞬間、眼前にはエレが立っていた。
「シェリー様、どうしたのでしょう……?」
「少し具合が悪いようだ。俺たちはあっちに戻ろう」
こんな建前がよくすらすらと浮かぶものだ。俺たちが元の席に着くと、誰もが目の前の空席に視線を移している。だから俺はそこでも「あいつなら大丈夫だ」と言ったが……心中穏やかでは無かった。
『今は、エレさんのお傍にいてあげて下さい』
物憂げに放たれた言葉とすすり泣く声が、脳裏で忌々しく交互する。その傍らでエレがずっと見つめてくるので、先程添えてくれた左手を今度は俺が握り締めた。
「……今日は、俺がそばにいるからな」
その滑らかな手を俺の腿に置かせると、彼女の硬くなった表情が徐々に柔らかくなる。その笑顔は皮肉にも綺麗で、ガラスのような心に却って突き刺さった。
ごめんな、エレ。いつかお前に話さねばならない。
俺には、大事な女がいるという事を──
「お休みのところ失礼致します。まもなく到着ですので、降下のご準備を」
一人の執事が俺たちの前に立って一礼する。その切り出しが俺の心を解放してくれたと言っても過言ではない。
それにしても、ようやく……か。アイリーンはいつの間にか離席し、シェリーを呼び戻していたらしい。背後から鉄を踏み鳴らす足音が聞こえるも、俺は敢えて振り向かなかった。
執事が丸窓のついたドアを開けると、先程よりどんよりした雲と生い茂る木々が眼下で広がる。少し奥に視線を移せば瓦の軒並みが見える辺り、リヴィは本当に小さい国であることを実感した。
「ありがとう。じゃあお前ら、出るぞ」
「「はい!」」
「それでは皆様。ご武運を」
俺が先んじて飛行船から飛び降り翼を広げると、花姫たちも同じように降下を始める。到着地点は南にある公園だ。マリア曰く、そこに着地した後少し歩けば官邸に着くらしい。
眼下の小さな土地がだんだん大きく見えると、俺たちは芝生に向かって無事に着地。辺りを見回せば木々が点在するだけで、子どもの気配が一切無い。この天気からなのか、それともヒイラギの襲撃から避難するためなのか──いずれにせよ、不気味な静寂である事に変わりは無かった。
ティトルーズ王国と東の国の間にあるだけあって、湿気もそこそこ高い。夏季ではあまり過ごしたくないな。
とりあえず公園を出て街に出ると、石造の家が向き合うように佇んでいる。自然を愛しているからなのか木材を使ったそれは殆ど見当たらないし、何なら機械だって無い。エルフ達が金銀の長い髪を靡かせて行き交う様は、一周回って血の気が引く。
俺の気持ちを代弁するかのように呟いたのは、この国で生まれ育ったエレだ。
「本当に、この国は変わらない……」
住民たちは、互いに目を合わせて深々と挨拶する。その光景は一見長閑だが、横切る声からは生気が感じられない。それはアンナも感じ取ったようで、此処に辿り着いてからずっと訝しげな表情をしているのだ。
また、周囲が向ける俺ら──いや、エレへの視線には棘がある。特に若い少女たちが注ぐ視線は酷いものだ。彼女を見た矢先、『うそでしょ!? あの人達、死人を引き連れてるよ……』と聞こえるように盛り上がるからである。その言葉を耳にした彼らもそれに反応し、まさに魔物を見たかのように避けるのだ。
その視線がさっきから俺の胸に突き刺さるのは、『自分自身が悪く言われているから』ではない。よくわからん風習のせいでエレ達が傷つくのが不快だからだ。
アンナはこの状況に痺れを切らしたのか、眉間のシワがさらに寄る一方だ。歯を軋ませる彼女に対し、エレが肩に手を添えてこう言う。
「アンナ様、わたくしの事はお気になさらないで。こういうことには慣れていますから」
「……でも、さっきから皆を悪く言ってくるよ。エレだってきちんとしたエルフなのに、『死んでるみたい』って……」
「放っておけば良いのです。この国はいずれ、また滅びの道を辿ることになるでしょうから……」
「なんだって?」
ドスの利いた女の声は、正面からやってきた。
俺たちの前に立つ三人の女エルフ。先程の言葉を放ったのは中央にいる長身の金髪で、左目には眼帯が着けられている。動きやすくするためか、やや露出度の高い格好だ。その背後にいる二人の銀髪は子分といったところか。金髪は誇らしげに腕を組んでエレを見下ろす。彼女が鼻を鳴らすと、他の二人もくすくすと笑い始めた。
金髪は三日月のように口角を上げ、エレに鋭い視線を注ぐ。
そして彼女の口から飛び出たのは、エレの心の傷をさらに抉るような言葉だった。
「確かお前、あのならず者の姉だったよな?」
(第四節へ)
読み終わったら、ポイントを付けましょう!