通りすがりの狼男が、私を病院に連れて行ってくれた。それは憶えているのだけど、麻酔を打たれてから起きるまでの記憶は流石に無い。ただ言えることは、長年脇腹の中にあった異物感が消え去った事だけ。
だから上体を起こそうとするのだけど、電流のような痛みがまだ残るせいで何もできない。
見渡す限りだと此処は個室のようで、他に寝台は見当たらない。シーツから天井まで白い中、ベッド脇にある木のテーブルが際立っていた。
ぼんやりしていると、扉を叩く音が聞こえる。私が「どうぞ」と応えると、二メートル程の大きな影が姿を表してきた。
彼こそが、病院に連れて行ってくれた隻眼の狼男だ。開け放たれた窓から微風が入り込み、銀の毛並みを優しく撫でる。彼は私に近寄ると、鋭い目つきが丸みを帯び始めた。
「命を取り留めたみてぇだな。安心したぜ」
「あの。先程は私を助けてくださって、ありがとうございました」
「わしぁ当たり前の事をしたまでだ、礼なんざいらねぇ」
「いいえ。あなたが助けて下さらなければ、私は命を落としていましたの。ですから、どうか御恩を返させてください」
「別に良いってのに。……そこまで礼がしたいってんなら……成人したらわしの店に立ち寄りゃ良いさ。もしあんたが憶えていれば、な」
「待って!」
背を向けて去ろうとする狼男を、私は声を上げて引留める。彼は振り向くことなく立ち止まった。
「あの、あなたのお名前は……?」
「……ランヘルだ」
その言葉だけを残し、今度こそ立ち去るランヘルさん。
私が成人してもなお、彼の顔と名前を忘れた日は一度も無かった。
その後、両親やマリアがランヘルさんとすれ違うように見舞いに来てくれた。特にマリアは終始泣いていて、ただならぬ罪悪感が込み上がった。
……また彼らが来てくれた頃には全てを話そう。その頃には医者からも話があるはずだから。
〜§〜
私が入院を始めてから翌日。脇腹に刻まれたメスの傷は癒えたものの、まだまだ自由に動けそうにない。
それでも、鎮痛剤を飲んだおかげで何とか起き上がる事はできた。此処でできる事とすれば読書ぐらいだ。テーブルには、看護師さんが置いてくださった本──併設の図書室から借りてきたらしい──が一冊積まれてある。
だから先生が来るまでの間、これでも読んで時間を──って、誰か来る!?
「ひぇっ!」
扉が突然開かれると、白衣を纏う銀髪の男性が私を睨みつける。彼の剣幕で思わず本を落としてしまったけど、拾う余地など何処にも無くて……。
「脱げ」
もしかして、魔族のお医者さん……? 耳は尖っていて、蛇のような金の瞳で私を見下ろしている。左目には傷があるのに、どうして視えているのか判らない。とてもカッコいい人なんだけど、すごく……怖い……。
「何をしている。早くしろ」
「いや……来ないで……」
ダメ、近づいてこないで……! ただでさえ何もできないのに、私をどうする気なの!?
私の念が彼に通ずるわけも無く、為す術もないまま押し倒されてしまった。彼は寝間着のボタンに手を掛け、腹部から外していく。
「いやぁああ!! やめてよ……って、えっ?」
襲って……こない? 腹部より上のボタンを外す事はなく、指先で私の脇腹に触れるだけだ。それにしてはくすぐったくて、声が出そうになる……。
こんな変なことされてるのに、どうしてドキドキするんだろう。それに、何だか懐かしい感じもする。……何処かで彼と会った事あったかな?
「似ているな。何もかもが」
「似て……る?」
今、彼が独り言ちたのは気の所為でしょうか。ううん、確かに『似ている』という言葉を耳にした。でも彼は私の問いに答えぬまま指を離し、再び見下ろしてくる。
「しばらくは此処で大人しくしてろ」
「は、はい……」
「それから、貴様はあと一歩で死ぬところだったぞ」
「死んでた、ですって……?」
先生が言うには、昨日はこのような状態だったらしい。
かつて清の邪神アイヴィは何らかの理由で私を襲い、体内に卵を植え付けた。もし邪神との子が産まれれば、この国に大きな災いをもたらしたかもしれない、とも。また、母体は出産の激痛に耐えきれず命を落とすことも有り得たそうだ。
その際、六年前に起きたプールでの事件を話すと、彼の低声はさらに威圧感を与えてきた。それでも私は『彼の圧力に負けまい』と、恐怖心を隠してみせる。
「貴様……何故それを放置した」
「私よりも、幼馴染が亡くなった事の方が大事だったから。あそこで私が話したとしても、きっと彼女の兄は……皆は……『聞いてくれない』と思ったから」
「……愚かな女だ」
「何とでも言ってください。昔からそういう女ですから」
先生は「はぁ」と嘆息すると、呆れたようにこう言い放つ。
「貴様のその面倒な部分も特別に診てやる」
「な、何なんですのそれ!?」
「言葉通りだ。加えて、俺に対する目つきも正してやらねばな」
何この人、医者なのに態度が悪すぎますわ! こんな人が主治医だなんてもう最悪……。……『別の人に換わってもらう』なんて事はできないのかな。
「くれぐれも抜け出すなよ」
「わかってますわよ……!」
もうムカつくー! 消えてくれて結構よこのスケベ医者!!
はあ……やっと邪魔が居なくなってくれた。疲れちゃったから横になろう。
「……ベレさん、私が倒れた事を知ってるのかな」
視界に広がる白い天井。見つめれば見つめるほど、自分という存在が小さく見えてくる。
彼女にとって、私ってどう映っているのかな。私は友達だと思っているんだけど……。
『先程、あの子達とどのようなお話を?』
『同じ教室にいるムカつく女の話をしてた。ただそれだけだ』
……私のことじゃ、無いよね。見舞いに来ないのは、きっと知らないだけだ。退院すれば、今までみたいに仲良くしてくれるはず──。
「ん?」
扉を控えめに叩く音がした。例の如く「はい」と応えると、籠を提げた金髪のエルフが現れる。フィオーレ二等級士官の制服ってことは──
「シェリー様、ご無事でしょうか?」
違う、エレさんだ。彼女が目線を下に向けたと思いきや、先程床に落ちた本を拾い上げる。卓上に戻してくれた御礼に、私は「ありがとう」と一言告げた。
「あの、ベレさんは?」
「…………」
……重苦しい沈黙。彼女は私の質問のせいで俯いてしまっている。聞き出せば答えてくれるかもしれないけど、今の私にはそんな勇気など無い。すごく気になっている癖に、本当のことを知るのが怖かった。
「ごめんなさい、エレさん。私は……気にしていませんから」
「シェリー様……わたくしこそ、あの子の姉なのにごめんなさい。あの、良かったら林檎でも召し上がりませんか?」
このような空気の中、本当は林檎を食べる元気なんて持っているわけがない。でも、これ以上気まずい状態を変えるには頷くしか無かった。
せっかく切ってくれたというのに、美味しかったかどうかも憶えていない。結局私の過去を話せぬまま、世間話でやり過ごすだけだった──。
入院してからどれ程の月日が経った事でしょう。レースカーテンで陽射しを遮り、蒸気で冷えた空間の下で本を読む。若干動けるようになった私は自分の足で図書室に向かい、借りたいものを借りるようになった。様々な物語や知識に触れ、見聞を広げていった。
両親やマリアもよく見舞いに来てくれるけど、変わらずベレさんは来ないしエレさんもあれきりだ。勿論誰も来ないよりは嬉しいし、来てくれるだけで励みになるけど……何かが足りないとも思った。
今年はマリアと遊べない。それだけでこんなにショックが大きいなんて思いもしなかった。これまで彼女と居た事は、決して当たり前なんかじゃなかった。それもこれも、あの卵を早いうちに処置しなかった自分のせいだ。……今頃、泣いているに違いないよね。
今日もまた夜が降りて、銀月がこのシーツを照らす。温い風は窓辺の木々を微かに揺らし、部屋の中にも入り込む。今、私の頬を撫でてくれるのはこの微風だけ。人の温もりであれば、どれだけ幸せなことか──。
「まだ起きていたのか」
「わー!」
もうっ! 先生ったらいつもノックしないんだから! 慣れてるつもりだけど、やっぱりビックリしちゃう時がある……。
相変わらずお構いなしに歩み寄る彼。いつものように診察かと思いきや、ただポケットに手を入れたまま見つめるだけだ。
「な、なに……?」
冷ややかな目が私の胸に刺さり、唇を震わす。でもそれはほんの少しの間だけだ。
窓辺に視線を移し、ミステリアスな横顔を私に晒す。特別な事はしていないはずなのに、何故私の身体が熱くなるの?
彼が放った言葉は、意外なものだった。
「母親は、俺が生まれてしばらくしてから死んだ」
先生の、母親……。
何の関連性も無いはずなのに、胸がきゅうと締め付けられる。それも、刃物で突き刺したような痛みすら感じるのだ。
どうして彼は私にそんな話をするのでしょう。感情を表に出さないし、真意がわからない。悩むあまり、私は自分の胸を両手で押さえてしまっていた。
「やがて俺は悪魔に拾われ、皮肉にもこの地で生かされた。あらゆる奴らの身体にメスを入れてきたが、“死”ほど愚かしいものは無い。……そう思わぬか?」
「……いいえ」
「ほう。貴様も目の当たりにしたのだろ?」
「それは事実ですわ。でも、時には天界へ導く方が幸せな事もある。私はそう思っております」
「……変わった女だ。死ねばその者に触れられなくなると云うに」
「他国の史実で知りましたの。『生きる』という恐ろしさを。ある一人の少女は見知らぬ男に両親を殺され、何年も我が物にされました。男は彼女を手放さないために四肢を切断し、目玉を抜き取りました。そんな彼女が口にしたものは、とてもこの場で言えるようなものではありません。やがて少女は警察に救出され、男は殺害されました。ですが、施設のゆりかごに収められた彼女は、『命は尊いもの』と諭されて自決を許されなかったのです。……好きだった人に一生会えぬまま、ね」
「シーヴのあの事件か。貴様のような博識な女は嫌いではない」
不敵な笑みを浮かべるように彼の口角が上がる。凄惨な事件を話したばかりというのに、その表情にはどこか色気があった。
けれど、彼はすぐに扉の方へ歩いていく。そしてドアノブに手を掛け、振り向きざまに別れの挨拶を告げてきたのだ。
「貴様の部屋を訪れた甲斐があった。……シェリー。俺を喜ばせた褒美として、いずれ外に連れ出してやる」
「は、はあ……」
……もしかして先生って単純? 診察で散々私を振り回してきたけど、こうして見るとちょっと可愛いかも……。
って、何を考えてるの私!? あんな面倒くさい人、相手にしていられますか! ああもう、ちょうど扉がしまってるんだし、この枕を投げつけてやるー!
「えいっ!」
枕が扉に向かって飛ぶと衝撃音が響き渡る。
彼がそれに気づくことは決して無い。でも、それが却って好都合だ。私の火照った顔を見られなくて済むのだから。
「……めんどくさいのは、あなたの方ですわ」
(第六節へ)
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