騎士系悪魔と銀月軍団《ナイトデビルとシルバームーン》

花に寄り添う悪魔騎士、邪を滅ぼし燐光と共に
つきかげ御影
つきかげ御影

第七節 邂逅

公開日時: 2022年2月3日(木) 12:00
文字数:8,851

 調教されてからどれ程の時が経っただろうか。俺への餌付けを終えたと云うのに、ジャックはこの牢獄を離れようとしない。それどころか彼は俺の髪を掴み、耳元でこう囁いてきた。


「貴様と初めて会ってから、随分と時が経ったものだ。あの頃は貴様に傷つけられたが、今ではただの猛犬だ。試しに『ワン』と吠えてみろ」

「……するかよ」


 ろくに身体を動かせぬなら、せめて言葉で抗う。この蛇野郎の顔に唾を飛ばした刹那、彼は眉間にシワを寄せた。


「うがっ!!」

 ジャックから解放されるや、溝を蹴られ胃液が溢れそうになる。振りかかる踵は自身を踏み潰し、理性を確実に奪ってきた。


「ああ、ぐ……!」

「なぜ獣が人間と同じ言葉で喋る? 貴様もあの岩漿で溺れたいか?」


 畜生、ヤツの目が本気だ……。此処で言わなきゃ、本当にマグマへ突き落とされるだろう。ならば……プライドをかなぐり捨てるしかねえ。


「……ワン」

「く……ははははははは!!」


 耐えろ、アレクサンドラ。これも花姫フィオラたちともう一度会うためだ。ひとまずジャックに優越感を与え、脱出する隙を窺うんだ!


「俺が貴様を生かしてやったと云うのに、何だその情けない声は! まあいい、今宵はそこで眠っていろ。おい、この犬を見張れ。もし暴れたら片目でも刺すがいい」

「「はっ」」


 ただでさえ狭いのに、兵士を二人置くとはな。何から何まで俺の考えを見え透いているようで、兵士どもに再び猿轡さるぐつわをぶちこまれる。


「大人しくしてろ」

「いい加減首領様のご命令に従うんだ!」

「んぐぐぅ!」


 為す術も無く、唾液と鉄の臭いが鼻腔をくぐる。今の俺は、本当にペット同然の扱われ方だ。この状況を拒む唯一の表現として、ジャックを睨むしかなかった。彼はそれに気づいたのか、憐れむような目で見つめ返す。


「ほう、眠れないか。ならば、特別に昔話でもしよう。幾ら貴様でも、あの事は忘れていまい?」


 なんでそっちの方向になるんだ──


「ううっ! ごあぁ……!」

「すまんな。少しでも眠れるよう手加減したつもりなのだが」


 ジャックのヤツ、睨まれただけで殴るとか繊細すぎだろ……!

 無論殴るだけに留まらず、今度は鎖を具現化し何度も身体を叩いてくる。激痛の余り涙腺が緩みだすと、彼はようやく攻めの手を緩めてくれた。


「ふっ、その表情かおこそが貴様に相応しい。俺が如何に貴様を恨んでいるか、その腐った脳で汲み取るが良い」


 本能では安堵したのか、自身の視界が暗転する。そして最期を迎えるように、瞼の裏で再び過去が浮かび上がった──。








 アリスが死んで、もう二世紀もの時が経った頃だろう。マスターは防衛隊長を引退し、「やりたい事があるから」と俺に託す。国も三代目──すなわちマリアの父が統治。魔術機関がさらに発達し、人族と魔族は既に共存のみちを辿っていた。

 人間の命は儚いもので、百年も経たぬうちにこの世を去ってしまう。中には不老不死として生きる者もいたが、現在いまと比べてそんなに多くはなかった。


 この二百年もの間、俺に好意を寄せる女性はどれ程いただろう。どの女性も本気で愛したはずなのに、名前も顔も憶えているのはアリスとティアぐらいだ。時に目移りし、同時に付き合う事もあった。その度に俺が酷い仕打ちに遭っていたわけだが、今思えば当然の報いだろう。

 やがて浮気に懲りた俺は、ついに一人の魅力的な女性と巡り会った。……はずが、今度は他の男に取られ結局独り身に戻る。


 癖毛が目立ち始め、心機一転も兼ねて散髪したばかりの冬だ。白銀の満月は真っ暗なフィオーレを照らし、仕事帰りの俺を帰路へ導く。


「あー、風呂に入りてぇ」


 これが俺の口癖だった。当時の自宅は今と違って煙突があり、レンガ造りの家で独り暮らししていた。今日も果物の皮を湯船に染み込ませ、何もかもを忘れる──そんな日常を送れると思った矢先だ。


 当たり前をぶち壊したのは、高速で横切る一本の刃。それは戦闘で用いるダガーであり、足下に落ちては軽やかな金属音を立てた。

 次に聞こえたのは舌打ちだ。月光はそいつの影を映し、俺を後方へ振り向かせる。そこに立つのは、黒のマントに身を包み、フードを外す一人の男だった。



「ちっ、外したか……」



 蛇のような瞳は金色に輝き、短い銀髪が微風に揺られる。端整な顔と尖った耳は誰かに似るものの、その“誰か”を思い出す猶予は与えられなかった。


「アレクサンドラ、貴様は父上の仇だ」

「は!?」


 何故こいつが俺の名を? 当然彼が答えるはずも無く、次の攻撃に移ろうとする。

 彼は片手を掲げ、虚空から鎖を召喚。それを鞭のようにしならせるが、ここで簡単にやられる俺ではない。


「んだよさっきから!」


 腰に下げる長剣を急きょ引き抜き、交差させるように払う。俺を捉えんとする鎖は粉々になり、床に舞い散る前に灰となって消えた。


 男は三本のダガーを持ち、一斉に投げつける。水平に飛ぶダガーは俺の顔に迫るが、迷わず全てを一掃。火花を散らす最中さなかも、手を休める彼では無かった。

 今度は手中に黒い光を収束させ、闇の光球を数発放つ。その光球は、いずれも人間の頭ほどの大きさだ。隙間を縫うようにステップで躱し、時に無属性の剣で相殺させるが──。


「ぐはっ!!」


 運悪く、一発の光球が溝に入り込む。俺としたことが少し油断しちまったようだ。

 この禍々しい氣はもしやこく魔法か? 鈍い痛みが暫く続くせいで、謎の男に隙を許してしまう。


「──!?」


 瞬きした頃には既に押し倒され、背中が石畳に擦れる。鎧のおかげで痛みは軽減されたものの、脚で身体を押さえられ身動き取れずにいた。


「くたばれ」

 男が鬼気迫る形相でダガーを握り締め、俺の心臓に狙いを定める。


 だが、最後まで諦めねえ。この男、冷徹な声とは裏腹に俺を殺す事で精一杯のようだ。

 きっと彼は、俺がまだ手を動かせる事に気付いていないのだろう。いよいよ心臓に切先が迫る刹那、左手で刃を受け止める!


「な……っ!?」

「何だか知らねえが、隙だらけじゃねえか……!」


 皮膚が抉れる痛みを堪え、右手で彼の腹を殴る。彼は必然的に体勢を崩す形となり、唾液を吐いて横へ転がった。

 形勢が逆転し、今度は俺が立ち上がる。そのまま脇腹を蹴ろうとするが、どうやら勘づかれたようだ。


「なあ、俺が何したってんだ?」

「ふん……とぼけやがって」


 互いに睨み合い、間合いを取る。男は唾をもう一度吐き捨てた後、長柄の武器を握るように両手をかざした。

 虚空から現れたのは、剣を模る影。それはたちまち姿を成し、彼の手中に収まる。そして彼が片手で構えた時、頭の片隅で懐いていた疑問が一気に晴れた。


「あの戦争に貴様も関与したのだ。『忘れた』とは言わせない」


 蛇の彫刻が巻き付いたに、墨色の宝石を埋め込んだ鍔。それは、今は無きルーセ王国の君主アルフレードの剣だった。ティトルーズはへプケンと組んで──ティトルーズ連合軍と呼ばれる──ヤツを倒し、剣を奪ったはずだ。


「てめぇ、侵入したのか?」

「地下にいた連中を少しだけだ。……人間というのは、実に脆いものよ」


 どおりで声も似てると思ったら、そういう事かよ。しかも、あのティトルーズ城の地下に侵入するとは只者ではない。


 華やかな佇まいで有名なティトルーズ城だが、実は地下牢と繋がっている。そこに収まるのは、重罪を背負う不死の存在たちだ。

 文字通り、彼らには死の概念が存在しない。そのため執行人は、犯人の穢れた四肢をし、残る身体を永遠に閉じ込めるのだ。無論、特殊能力で抗う事も、近親者らと連絡を取る事も禁じられている。


 城では今ごろ大騒ぎになってる事だろう。此処でこいつを仕留め、監獄アウレッタに行ってもらうしかねえ。


「あいにく、俺は防衛部隊長なんだ。国を荒らすヤツには容赦しねえよ」


 相手が動かぬうちに前進し、剣を振り下ろす。最初に聞こえたのは肉を断つ音──では無く、刃が衝突する音だ。


 隙を見ては切りつけ、迫る剣を躱す。相手は俺より僅かに速く、瞬きした頃には切先が目の前に在る。

 だが、俺も伊達に戦闘経験を重ねているわけではない。剣のみならず、相手の状態にも注視すべきだ。動きは速いものの、長期戦には乏しいのだろう。精度が落ちる今、懐に迫るっ!!


 鍔迫り合いが生じ、互いの距離が一気に縮む。このまま力を込めれば、畳み掛けられるか?


「くっ……魔族の分際で何故俺に刃向かう?」

「種族なんざ関係ねえだろ。それより、いい加減名乗ったらどうだ?」

「……ふん」


 油断禁物。不利な状況にもかかわらず、男は口角を上げ鼻を鳴らす。そして相手の圧力が増すと共に、俺を後方へ押しやった。


「名乗る程でもない。貴様は此処で果てるからだ」

「随分と自信満々なこった」


 体勢を立て直した矢先、男は目の前から姿を消す。

 ──否、頭上だ。彗星の如く飛び降り、切先を下に向けて刺突を図る。俺がすぐさまバックステップを取ると、彼が片膝をついて着地。舌打ちするや、目にも留まらぬ速さで再び間合いを詰めてきた。


 鋼は絶え間なく交わり、甲高い音を響かす。向こうも話す余裕がないのか、今は息遣いと挙動で次の手を予測する他ない。

 やがて疲弊した俺たちは、互いに向き合い呼吸を整える。無論、それも束の間。彼は余る右手を突き出し、俺の足下から無数の鎖を召喚した。


「よっ……と!」


 俺は捕まる前に地面を蹴り、前方へと転回。身体を丸める事で逃れ、着地した瞬間に鎖が生まれた方へ向き直る。

 鉄の縄は一斉に襲い掛かるが、俺からすれば低速にしか見えない。全てを裂いた末、再び男の元へ急接近した!


「バカな!? あの攻撃を破る者など──」


 どうやら焦っているらしい。彼は再び手を突き出し、どす黒い波動を放つ。しかし、その攻撃もローリングで避けてしまえばこちらのモノ。


 とどめだ。

 彼の眼下へと迫った俺は、剣を水平に持ち──顔面を裂く!



「があぁっ!!!」



 刃で皮膚をなぞり、悲鳴が耳をつんざく。

 顔を狙った割には浅い感触だ。けれど、相手にはもう剣を握る余裕など無いらしい。


 亡国の剣は手中から滑り落ち、乾いた空気が敗北の音を呑み込む。勝利を悟った俺は思わず頬が緩み、眼前で跪く男を煽ってみせた。


「おいおい、本当はその程度じゃねえんだろ?」

「貴様ぁ……!!」


 男は左目を掌で押さえ、歯を軋ませる。こいつの剣幕も当時は快感でしかなかったが、現在もヤツと対峙するなんざ予想できやしない。

 月光は刃にこびりつく血糊を照らし、赤い雫が石畳へ滴り落ちる。血を払い落とすように剣を横へ振ると、男は目を押さえたまま立ち上がった。


「で、どうすんだ?」

「この……悪魔が……!」


 顔を傷つけられた以上、彼が何をするか判らない。一応は剣を構えるが、俺の予想は次の言葉によって裏切られた。



「今に見てろ! 貴様の全てをいずれ奪ってやる!」



 結局男は反撃する事無く、黒い霧に包まれて姿をくらます。ちょうど遠方から騎士団たちが駆けつけるが、彼を捕縛するには至らなかったのである──。




 ~§~




 男と対峙してから数日の時が流れた。フィオーレの噴水広場から数メートル離れた場所で、憩いの場が誕生する。かねてより無人だった建物に、『RANGELランヘル』という看板が掲げられた。

 当時は鉄製の建物など無く、殆どがレンガで造られていた時代だ。何の変哲もない土色の壁に、玄関をも覆う黒い屋根。正面から見て右側にある長方形の窓ガラスは、師匠だった存在をはっきりと映し出す。面倒を見られた以上多少の恥じらいは否めないが、ドアノブに手を掛けない理由には決してならなかった。


 防衛部隊員らで大賑わいだったのはこの頃からだ。誰もが開店を祝い、豪快に食べ物を頬張る。勿論俺もその一人だが、マスターに話したい事があってカウンター席に着いた。右から二番目の丸椅子──何となく座った場所が定位置になる事も知らずに。


Benvenutoベンヴェヌート! 何にしますかな?」


 カウンター越しでマスターに話し掛けようとした矢先、横から大きな圧と太い声が入り込む。俺の傍に立つのは、カールした髭が特徴的な中年男性だ。タイトな制服は厚い胸板を見せ、袖口からは鍛え抜かれた筋肉が露わになる。トレーが小さく見える程の肉体は、オークが見れば泣いて逃げ出すだろう。

 これまで見てきたウェイターの大半は女性だが、此処は辺りを見回しても男性店員しかいない。その理由について疑問を懐いた矢先、今度こそマスターが話し掛けてきた。


「がっかりしたか?」

「まさか」

 からかうように笑うマスター。正直落胆は否めないものの、敢えて涼しい顔で首を振ってみせる。


「まだ開けたばっかだからよぉ。儂が慣れるまでは男に任せてんだ」

「さあ、飲んで飲んでぇ! 酔い潰れたら、わたくしめがご自宅までお送りしますぞ!」

「あ……おう……」


 ウェイターは自信満々に自分の胸を叩き、ウィンクしてくる。あいにくは無いし、酒は適度に済ませておこう……。

 マスターは「ほらよ」と丸まった羊皮紙を俺に投げ込む。受け取って開いてみると、それはのメニューである事が判った。


「連中は皆ふかし芋を食ってやがる。あんたもどうだ?」

「よし、俺もそれを頼もう!」


「おぉ~~~~~~い、此処に可愛い子ちゃんいねえのかよ~~~~!」


 色々あって肉は遠慮していたので丁度良い──と思って頼むや、後ろから野郎のだらしない声が聞こえてくる。あまりに大きい声量だったので一斉に振り向くが、当の本人はふてぶてしくテーブル席に居座るのみだ。


「どいつもこいつも野郎ばっかで、汗くせえったらありゃしねえ! おい店主! 今すぐその辺の女を連れてこいや!」


「はあ……たまに湧くんだよな、ああいうバカが」

「マスター、ここは俺が行──」


「この私めが、貴方に相応しい場所をご紹介しましょう!」

「え、ええええ!!?」


 先程のウェイターが負けじと野太い声で客を圧し、大股で近づいていく。男は立ち上がるも、腰を抜かして巧く逃げられないようだ。

 ウェイターは容赦なく男の首根っこを掴み、玄関まで身体を引きずり出す。それからドアを勢いよく開け放つと、両手で脚を掴んで身体を何度も回転させた。速度は一周ごとに増し、やがて残像が見える程の速さへと変化する。


「いやぁああ~~~~~~~!!!! らめぇ~~~~~~~~!!!!!」

「目指すは東! さあ、イッてらっしゃい!!」

「あぎゃああ~~~~~~~~!!!!!!」


 男はウェイターに投げ飛ばされ、まさに東の空へ飛び立つ。星になって間もない頃、ウェイターは笑顔を絶やさぬまま此方へと戻っていった。


「これはこれは失礼いたしました。それでは皆さん、宴会を再開しますぞ!」

「「は……はい!!!」」


 こいつは、下手に酔っぱらえば俺も同じ目に遭う。底知れぬ恐怖を覚えた俺はマスターの方へ向き直り、一杯のグラスを受け取る事にした。徐々に賑やかな空気に戻る頃、マスターは溜息をついてウェイターに話し掛ける。


「追っ払ってくれるのは嬉しいが、次からは金を取ってからな」

「申し訳ありませぬ、マスター!」


「ああ、それに関しては俺が払うから良いよ。ちょうど祝い金って事で」

「なんとかたじけない……。では、すぐに肴をお持ちしますね!」

「どうも」


 それから程無くして、ウェイターがマッシュポテトを運んでくる。彼はその品を俺の前に置くと、「では失敬」と言って颯爽と離れた。

 だいぶ逸れたが、そろそろマスターにあの事を話そう。彼なら何か判るかもしれない。


「そういやさ、こないだ銀髪の男に目を付けられたよ」

「ん? フードを被ってたか?」


「おう。どうやら城の地下に侵入して、ヨルムンガンドの剣を奪ったって話だ。『貴様は父上の仇だ』つって、俺を殺そうとしてきたよ」


「……やはりそうか……」

「どういう事だ?」

 マスターは意味深そうに指を顎に添え、こんな事を話してくれた。


“ジャック・ルーセ”──あの蛇のせがれという線が濃厚だ。あんたも知っての通り、ここ数か月は連続殺戮が起きてやがる。それもターゲットはみんな魔族だ。目撃者によれば、満月になるとそいつが屋根を跳び越えるってね」


「なんであいつって判るんだ?」

「被害者と王家の情報だよ。ほら」


 マスターがカウンター裏に手を伸ばすと、紙を擦る音が鼓膜を掠める。それから折り畳まれた鼠色の紙を受け取り、見出しに目を通してみた。


『フード男、再び現る。犯人はヨルムンガンドの息子か』


 モノクロームの写真に写るのは、まさに屋根を跳び越える男。小さく印刷された文章には、怪我人の証言がしかと記されていた。


「蛇の目に銀色の髪、そして声もあいつとそっくりとな。だから満月の日は騎士団が巡回するようになった」


「じゃあ俺が帰る頃、あいつは騎士らの目を盗んで襲ったって事か」

「だろうね。随分と頭が良いとは聞くよ」


 あまりそんな印象は無いが、まあ人間よりは知性に優れているのだろう。

 新聞をまじまじと見つめれば、マスターは次の情報を付け加える。


「それから、たまに金髪野郎が湧くってね。こいつがジャックと関わってるかは知らんが、この男を疑うヤツもいる」


「こいつもフードを被ってるのか?」

「んや、そうでもねえ。以前新聞で見かけたのは後ろ姿だけだ。それも髪は随分と長い」


「実際に見たことは?」

「無い」


 ──そういや、ジェイミーは過去にジャックと関わってたっけ。当時はその金髪野郎の存在が薄くて気付かなかったが、のちに本人から話を聞いていれば納得いく。とはいえ、後ろ姿だけなら現在のマスターも知るはずが無かろう。ジェイミーのヤツ、本当にラッキーな男だ。

 俺は新聞をマスターに返すと、冷める前にフォークをポテトに突き刺す。ホクホクした食感とチーズのまろやかな風味を噛み締める中、彼は俺を案じてくれた。


「気ぃ付けろよ、今はあんたが防衛隊長だ。女にうつつ抜かして刺されるんじゃねえぞ」

「判ってるよ」








 あのジャックって男も、新聞に書かれたら居た堪れないのだろう。以降は酒場でマスターと話題にするも、結局犯人の足取りを掴めずにいた。


 俺からすれば、二世紀なんてあっという間だ。人間たちの世代は次々と移り変わり、他国へ移住する魔族も多く見かけた。それもあってか、魔族を狙った事件を知る者は殆どいなくなった。

 とはいえ、それまで俺の身に何も起きなかったわけではない。何だかんだでジャックは俺に仕掛けるが、いつも妙なタイミングで離れてしまうのだ。まあようやく懲りたのか、気付けば面倒なヤツが現れなくなったよ。


 時はティトルーズ暦329年、コーラルの月。セティア王妃は、ある事に苦労されていた。

 それは、彼女のお身体に魂が宿らない事だ。『このままでは滅亡の途を辿る』と危惧する両陛下は、不測の事態に備え不老の薬を投与したと云う。故に王妃様の美しさは決して衰えぬもので、色々飢えていた俺は隙あらば口説いたのである。


 勅命で城を訪れたある日、挨拶がてら王妃を探していた。防衛隊長を務める以上城に足を運ぶ機会は沢山あれど、この日だけは何処と無く違和感があった。

 だから当時の俺はその靄を晴らすべく、彼女を口説こうとしたのだろう。王座の間から少し離れた場所にあるバルコニーにて、王妃は手すりに重心を掛けていた。


「……本当に、未来は訪れるのでしょうか」


 桃色の波打つ髪を背まで伸ばした、赤いドレス姿の女性。その後ろ姿に胸を弾ませながらも、平静を装って傍へ入り込んだ。


「如何なさいました、王妃様」

「これはヴァンツォ様……」


 色白な肌と膨らむ深紅の唇は、美しいコントラストを生み出す。豊満な肉体はドレスからでもはっきりと判るせいで、時に陛下が羨ましく思う事もあった。つり上がった乙女色の瞳は、強気な印象を与えるだろう。だが、彼女は見た目に反して戦争を常に憂う。その証拠として、せっかくの細い眉が(あずまの国で言う)ハの字を描いているのだ。

 このまま外へ連れ出し、不安と唇を奪えないものか。一目見ただけで昂る欲望を隠しきれず、結局こんな事を言ってしまう。


「王妃様には笑顔がお似合いですよ。私で良ければ、朝までお付き合いできると云うのに」

「うふふ、相変わらずお上手ですこと。そんな貴方に誘われたい女性はさぞ多くいるでしょうね」


 巧くあしらわれた気がするが、笑ってくれたし良いか。このように彼女には陛下がいながら、俺とのやり取りに付き合ってくれるのだ。どんなに断られても悪い気はしない。

 王妃は唇を三日月のように曲げ、小鳥のように首を傾げる。その美しい仕草に思わずにやけていると、穏やかな声音で現実を引き戻した。


「さあ、早くお行き。貴方には大事な使命がございますから」

「でしたら、ぜひご一緒に向かいましょう。王妃様の背は私がお守りします」

「いつも気に掛けて頂き、感謝します」


 ちょうどそこへ、一人の執事がバルコニーから顔を出してきた。俺はさっそく王妃の背後に立つと、執事は一礼して王座の間へ案内してくれた。


 この部屋を訪れる時はいつも緊張するものだ。王妃はある程度のジョークを流してくれるが、陛下相手にはそんな事できやしない。真っ赤な二枚扉を執事が開けると、俺を黄金の世界へといざなった。

 白い石柱が等間隔でそびえ立ち、複雑な模様を描く金色の天井は昔と変わらない。中央に吊るされた巨大なシャンデリアは、ある男性の存在を際立たせた。


 正面奥の椅子に腰掛ける彼こそが、ティトルーズ三代目国王だ。顎に髭を生やす彼は青年のように若々しく、凛然たる佇まいは初代国王を想起させる。陛下のお目に掛かる以上、先程までの情欲を捨てて跪く他なかった。


「よくぞ参った、ヴァンツォ殿」

「はっ。勅命を受け、陛下の元へ馳せ参じました」

「よろしい。では早速本題に移ろう」


 この時、どんな事を言い渡されるのか全く見当もつかなかった。思い当たる節があるとすれば、常々王妃に手を出した事だろうか。もしそんな事が発覚すれば、解雇どころか追放されるかもしれない。

 いよいよ陛下が口を開き、静かに息を吸う。そして俺に下した命令は、頭の中にある雑念を全て奪い去ったのだ。



「同盟国へプケンを救援し、シーヴを鎮圧せよ。滞在期間は、329年ダイヤの月から三十年間とする」




(第八節へ)






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