セレスティーン大聖堂での戦いから数日間、俺はティトルーズ城に足繁く通っていた。その理由は、他ならぬシェリーを見舞うため。しかし、俺が彼女のいる部屋へ向かっても、あの日から瞼は閉じたままだ。時に仲間たちも足を運ぶものの、当の本人は気づかない。そのため、俺たちの間で良からぬ推測が持ち上がる事もあった。
ペリドットの下旬。今日も例の部屋へ向かい、ドアを三度叩く。その重厚なドアが開くたび僅かな希望が芽生えるのだが、出迎えるのは浮かない表情のメイドだ。
ところが、今日はいつもと様子が違うらしい。彼女の表情には翳りが無く、嬉しい予兆である事を悟った。
「お待ちしておりました、隊長様。どうぞこちらへ」
彼女は指先を揃え、部屋を指し示す。俺は「サンキュ」と一言告げると、ローズピンクで彩った空間に入った。
部屋の構造は、以前俺が仮眠を取った所とほぼ変わらない。天蓋付きベッドも健在で、レースカーテンが一人の姫を守っていた。
メイドが「失礼致します」と退室し、二人きりになる。俺がいつも通りカーテンの中に入ると、彼女は上体を起こしたまま息を呑んだ。
「アレックスさん……!」
長袖のネグリジェに身を包む恋人は、瞳を潤ませながらこちらを見つめる。奇跡に等しいこの瞬間が、俺の胸を激しく打ち付けた。
「シェリー……」
俺がベッドに腰掛けた後、互いに固く抱き合う。するとシェリーは胸の中で大声を上げ、涙で俺の服を濡らした。
彼女が涙する理由など訊くまでもない。ミュール宮殿で連れ去られてから今まで、ずっと苦しい思いをしてきたのだから。
「待たせてごめんな……。もう離しはしない」
「お願い、私を置いていかないで……。あなたがいなくなったら、私は……!」
シェリーが俺の背に爪を立てる。その痛みなど、ジャックに傷めつけられた時と比べれば可愛いものだ。
ただでさえ細いのに、随分と衰弱してるじゃねえか……。長くひもじい思いをしてきたのだろう。回復した暁には、好きなモノを食わせてやりたい。
「アレックスさん……私、あなたにお話しなくてはならない事が……」
「どうした?」
俺と向き合うシェリー。その目は酷く腫れており、顔もかなりやつれている。
彼女は小さな口を開けて俺に打ち明けようとするのだが、勇気が持てないのか上手く話せないようだ。
「…………えっと……」
「無理に話す必要はない。それに、今は目覚めたばかりなんだ」
俺は自身の手でシェリーを寝かし、布団を掛けてやる。それから額を優しく撫でると、彼女は静かに微笑んだ。
「私、ずっとこうされていたいです……此処で離れたら、二度と会えなくなる気がして」
「此処にはアイリーンちゃんもクロエちゃんもいるんだ。もうお前を苦しめるヤツはいねえよ」
「ですが、ジャックはまだ──」
「今は考えるな。それに、あの日から銀月軍団が攻めてくる事はない」
城下町を防衛していたジェイミーとヒイラギ曰く、魔物たちが突如撤退したらしい。それは、俺と花姫たちがジャックを撃退してからすぐ後の事だった。首領が倒れれば一時休戦になるのは、どの国も組織も同じ事だ。
だがジャックが生きている以上、いつ再戦してもおかしくはない。それまでにこの街を復興し、俺たちの力も蓄えておく必要があるのだ。
「あの様子だと、一ヶ月は襲ってこないだろう。とはいえ、復興は魔術を使っても二ヶ月は掛かるんだよな……」
「私にできる事はございますか? 花姫である以上、皆さんのお役に立ちたくて……!」
「そうだな……」
仮にシェリーが今ここでベッドから下りても、疲労で倒れてしまうのが目に見える。気持ちは嬉しいが、彼女には安静を優先すべきだ。
「まずは身体を休めろ。それからリハビリテーションを行っても遅くはない。……安心しろ、必ずお前に会いに行く」
「…………はい……!」
俺も、恋人の顔を見ない日なんか考えられないんだ。こうして会う事で少しでも元気を取り戻してくれたら、男冥利に尽きるよ。
「すまん、俺はそろそろお暇する。ゆっくり休めよ?」
「また来てくださいね。絶対、ですよ?」
「ああ」
約束の証として互いの小指を絡める。指先の柔らかな感触を噛み締めた後、俺はいつもの廊下に出た。
「本当に来たのね」
少女の高い声が背に刺さり、俺の足が立ち止まる。その台詞も今となれば懐かしいが、あの頃と違って柔らかな声音だ。
声の主は俺の隣に立ち、小さな声で話し掛ける。幼馴染を思ってか、彼女の横顔は少し寂しげだった。
「マリアちゃんか。さっきの会話、聞いてたのか?」
「ええ。もう諦めたはずなのに、気が気じゃなくてね……」
「無理もねえさ。それで、俺に話したい事があるんだろ?」
マリアは軽く頷くも、暫し無言になる。その空白が長くなるにつれ、俺の緊張は高まっていった。
そして彼女は覚悟が決まったのか、赤く膨らんだ唇をようやく開ける。
「あの子の心身は、見た目以上にダメージが大きいものよ。一見傷が無いけど、あまり想像したくない事をされたはず。だから、復興作業が終わるまでは此処で療養してもらうの」
「病院には連れて行かねえのか?」
「それも考えたけど、(今のあの子にとって)知り合いのいない場所に身を置くのは危険よ。それにお医者さんなら此処にもいるし、守りも堅いから安全なの」
「そうだな。俺もこっちの方が行きやすいし」
思えば、俺やマリアが傷を負った時も此処で治療したよな。何かあればメイド達がいるし、順調に回復していくだろう。
それでも、“想像したくない事”をされた以上は俺もケアしてやりたい。それがジェイミーとの約束でもあるし、国を護るための行動でもあるのだから。
「そうとなれば、早速俺に指示をくれ。一刻も早くこの街の活気を取り戻していきたい」
「あら、ちょうどあなたに伝えたい事があってよ」
マリアは腕を組み、力強い眼差しで俺を見つめる。
彼女が次に放った言葉は、俺にとって重みのあるものだった。
「あの子は、あなたと天国に行けない事を悔やんでるわ。だから、くだらない事で死ぬんじゃないわよ」
……このとき俺は、安易に頷く事などできなかった。戦争は常に死と隣り合わせ。どんな強者であろうと、容易く絶つ事は有り得るのだから。
その代わり、俺には一つ考えがある。もしそれを実行すれば、シェリーの望みもマリアの命令も全て受け入れられるだろう。
今は敢えて誰にも明かさず、己の言葉でこう答えた。
「俺は簡単に死ぬ男じゃない。……いや、死なねえさ」
「まさかあなた……ううん、気にしないで」
感づかれたか? 少しドキッとしたが、マリアは手を軽く上げて首を横に振る。
これ以上会話は続かなかったので、俺たちは廊下で解散する事となった。
「じゃあな。また明日もよろしく頼む」
「ええ。その時は作業をお願いね」
それから二ヶ月の時が経ち、暦はトルマリンの初頭を迎える。暑さは和らぎ、復興作業も順調に進んでいた。
だが、俺はある事でヤケになっていた。行き場のない怒りを覚える晩、日常を取り戻したシェリーから発信信号が掛かる。その内容は、ランヘルの見舞いに関する誘いだった。
翌日に辿り着いたのは、城下町で最も大きい病院だ。そこはかつてルナも入院していた場所であり、現在はランヘルが安静にしていると云う。
暫く廊下を歩いた末、ある一室の扉の前に辿り着く。『Rangel』と刻まれたドアプレートを確認すると、俺はその扉をノックした。
「おう、入れよ」
扉の奥から中年男の声がする。それは何百年も聞いた男の声であり、一気に安堵感を覚えた。
隣に立つのは、可憐な秋服を身に纏うシェリーだ。彼女は目覚めてから今までの間ノースリーブを着ることは決して無く、長袖か七分袖を通していた。キスをする事はあれど、肌を重ねる機会もご無沙汰だ。
そんな彼女に変化を感じなくは無いが、まずはこの扉を開ける事にする。
木製の扉を開けると、寝台で上体を起こす狼男の姿が視界に飛び込んだ。
「久しぶりじゃねえか、アレックスにシェリー。元気にしてたか?」
「は、はい……! あの、お身体の方は?」
「心配いらねえ。まだ痛むが、そのうち治まるだろ」
包帯で覆われた右の眼球は、昔と違って存在しない。痛みは未だ残っているようで、彼は事あるごとに顔を歪ませた。
彼の目を潰したのは俺であり、シェリーもその事実を知っている。仕方ない事と判っていても、彼との戦いが脳裏を過ぎるたびに胸が痛みだした。
俺の存在に気づいたのか、マスターの視線がこちらを向く。
「どうした? くたびれた顔をしてよ」
「他人の目を奪ったヤツが平然としてるのもおかしいだろ」
「わしが頼んだのだからもう良いさ。改めて礼を言う」
あれで礼を言われるのも何だか複雑な気分だが、素直に受け取ろう。
マスターは視線を落とし、自身の拳を見つめる。彼はその大きな手を見つめながら、今は亡き娘の事を思い返していた。
「この片目を前からぶち抜いてりゃ、娘が死ぬ事は無かった。あれ以来、シェリーがわしの娘に見えてくるんだよ。中身がそっくりで、生まれ変わったのかともな」
実際はアリスの生まれ変わりだが、それは公で話さないでおこう。同じくシェリーも、無言のままマスターを静かに見つめるだけだ。
……せっかくしんみりした空気になったかと思いきや、マスターの次の言葉で台無しになる。
「大丈夫か? アレックスに妙な事されてねえか?」
「おいおい、俺を何だと思ってるんだよ」
「ええ、いつも妙な事をされていますわ」
「そこ乗っちゃう!?」
勘弁してくれよ、これじゃあ俺が『変態』って言われてるようなもんじゃねえか。
マスターはそんな俺の名誉に気にも留めず、「はっはっはっ」と大口を開けて笑い出す。
「やっぱあんたらはお似合いだ。さ、わしのことはもう良いからさっさと行け」
「そんな。まだ五分程しか話していませんのに……」
「店であんたの演奏を聴かせてくれりゃ十分だ」
「……わかりましたわ。それでは、ごきげんよう」
シェリーはマスターの前でお辞儀をすると、彼のいる部屋を後にする。
俺がついて行こうとしたとき、彼が俺の腕を掴んできた。
「彼女を頼んだぞ」
「わかってるって」
振り向きざまに笑顔を見せると、安心したのか腕を離す。
今度こそこの質素な部屋を去り、静かに扉を閉めた。
病院を後にした俺とシェリーは、庭で待つ馬車──マリアが用意してくれた──に近づく。御者が扉を開けたあと、俺はシェリーの手を取って一緒に乗り込んだ。
緩やかに流れる景色を見つめ、彼女の細い手を握り締める。その一時は、生死を超えた今ではより貴重なものだ。
「あれだけ暑かったのに、今は秋の季節……。なんだかんだであっという間ですわね」
「そうだな」
ペリドットの中旬に起きた動乱は、この街に大きな爪痕を残した。幸い俺や知人らの家は巻き込まれなかったものの、心身に傷を負った者は数多くいる。
初戦のような奇跡が起きればあのような事にはならなかったが……シェリーが誘拐された以上、流石の俺たちもどうすることができない。
だから花姫は勿論、ジェイミーやヒイラギも共に手伝ってくれた。アンナとアイリーンは住民たちの生活をサポートし、エレは演奏を通じて娯楽を与える。マリアは視察を行いつつ、あらゆる財政の活動を行っていた。
この間に銀月軍団が攻めてこなかったのは不幸中の幸いだ。後はシェリーの霊力を転移装置に注げば、いつでも反撃しに行けるだろう。
「俺のせいでいっぱい迷惑をかけたな」
「いいえ、私たちは前を進むしかありませんから。それに、隊員の皆さんもますます凛としていらっしゃいますわね」
「ああ。より美人になった気がするさ」
「もう!」
「いてっ!」
シェリーが頬を膨らまし、肘で俺の脇腹を小突く。彼女も昨晩の事を知っている以上、気を遣ってくれているのかもしれない。
「そうは言ったが、お前が一番だよ」
「本当ですか?」
「マジだ」
ふと互いが無言になった時、彼女は俺に微笑む。それは、初めて会った時のような慈しみのある笑顔だった。
「どうか、ご自身を責めないで」
「…………ああ」
今は彼女の言葉に甘えよう。手を握りつつ、空いた片手で髪をそっと撫でる。
こうして寄り添っていると、馬車はある場所に辿り着いた。
見慣れた白いアパルトマン──すなわち俺の家だ。今日は作業から離れ、恋人と過ごす約束をしている。
俺たちは馬車を降りて御者に礼を告げた後、ゆっくりと階段を昇っていった。
家に上がってお茶を飲んだ俺たちは、ベッドの上で静かな時を過ごしていた。
端に腰掛け、シェリーの頭を膝上に載せる。彼女は足を伸ばし、じーっと俺の顔を見つめるだけだ。心なしか、ミュール島に行く前と比べて人懐っこくなった気がする。
「アレックスさん……」
「ん?」
シェリーは何か言おうとして口を開くが、目を泳がせている。二ヶ月前に言っていた、『話さねばならない事』だろうか。それとも──
「やっぱり、何でもありません」
「……そうか」
残念な気持ちを隠すように、俺は笑顔を見せる。催促しても彼女を嫌な気分にさせるだけだ。話したいときに話せば良い。
髪をずっと撫でていると、シェリーがゆっくりと起き上がる。それから両腕を伸ばし、俺の身体を包み込んでくれた。
バニラのような香りが鼻腔をくぐり、俺を高揚させる。そして彼女は、艶めく声で甘えてきた。
「あの、もうしばらく抱き締めてくれませんか? ……私の心が落ち着くまで」
「良いぜ」
このやり取り、メルキュール迷宮でのひと休みを思い出すな。
ただ、その頃と違うのは──俺たちが“恋人同士”であること。
だからって、今は特別なことをする必要もない。
俺とシェリーは見つめ合い、そっと唇を近づけた。
災いも、宿命も、全て忘れる一心で──。
『騎士系悪魔と銀月軍団』第一部 【完】
※この後書きにはネタバレが含まれておりますので、先読みしたい方はご注意くださいませ。
この度は拙作をお読み頂き、ありがとうございます! 今回も星くれ星人……ではなく、真面目に第一部を振り返ります!
本作は別媒体に投稿していたものですが、『納得がいかない』という思いから昨年の10月中旬より改訂版を執筆し始めました。
改訂版アップ当初は非常に緊張しましたが、現在に至るまで好評価を頂き非常に嬉しく思います。また、ピックアップに選出して頂いたり、日間総合で首位を獲得できたりと身に余る事を経験できて光栄に存じます。
ノベリズムは既存に囚われないデザインだからこそ、ブロックや太字といった装飾を行えるのは強みですね。こちらでしか行えない表現を目一杯やらせて頂きましたが、その作業も心から楽しめました。
読者の方々のコメントも凄く嬉しくて、興奮する余りネタバレを書きそうになった事もございました。
その中で内心驚いたのが、アレックスの人気ぶりです。特に多かったのが、第一章第七節に対するリアクションでしょうか。『とうとう尾行してしまった』──これは従来版の初稿から引っ張ってきたもので、私も気に入っている冒頭です。
皆様のアレックスに対する所感を要約しますと、『変態だけどイケメン』。これは私が表現したかった彼そのものであり、物語の展開にも大きな影響を与えて下さいました。それが第十二章第一節です。
従来版ではマシンガンを持つ彼が本当に使用人たちを蹂躙していましたが、本作ではエレが引き止める形で免れています。
当初のプロットでは途中から従来版と同様の流れを検討しましたが、皆様のアレックスに対するイメージを尊重すべく、あのような流れに至ります。これは『読者たちのおかげ』と言っても過言ではなく、私にとっても心から納得の行く物語を描けました。
本当はもっともっと書き散らしたいところですが、1,000字という制約の中で纏めるのはすごく難しいですね。そろそろ字数超えそうなので締めさせて頂きます!
従来版ともに本作に関わって下さった皆様には、改めまして心から感謝申し上げます。今後もナイシルを続けていきますので、温かく見守って頂けたら幸いです。いえいっ
2021年7月7日 つきかげ御影
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