メルキュール迷宮の二階でシェリーと共にひと休みした後、いよいよ三階に辿り着いた。
だが、これまでと違って異様な空間であり、天井がやけに高い。およそ十メートルはあるだろうか。天井には何故か空模様の絵画があり、どうやって描いたのか甚だ疑問である。上部には吹き抜けがあって、左奥には扉らしきモノが見えた。
それに、この階だけは一階分の広さを誇っているようだ。しかも両脇はバルコニーと繋がっているのか、アーチ型の出入り口が連なって存在する。だからこの迷宮において、三階が一番明るいと云えるだろう。また、実際の空は絵画と違って雲が一つもない。
それぞれの空が同時に存在する部屋で立ち尽くすと、黒い破片が密集し始める。目の前で形成されたのは、竜らしき存在だった。
「……やはりそうきたか」
姿を表したのは、紺藤色の鱗に身を包む巨竜アイヴィだ。そういや、邪神っていうのは場所──というか、元素の濃度──に応じて全長が変わるんだっけ。こいつの場合は『水中だと可変』という認識だが、陸地だと八メートルくらいなんだな。
シェリーはアイヴィを睨んだまま、虚空からマシンガンを召喚。何の躊躇いも無く、ただ銃口を巨竜に向けるのみだ。
「今度こそあいつを倒してみせますわ!」
彼女はこいつに苦しめられたんだ。この戦いで過去と決別できるなら俺も協力したい。
二人だけで戦うなら、まずは──。
「辛いと思うが、お前はアイヴィを引き付けてくれ。俺が援護する」
「はい!」
彼女が頷いてくれたところで、俺は背負っていたライフルを取り出す。アイヴィもおそらく臨戦態勢と云ったところだろう。咆哮を上げ、鋭い眼で真っ先にシェリーを捉えた。
ならば俺は入口付近に向かって走り、右側にある階段を昇る。それから吹き抜けへ駆けると、ライフルの銃口をアイヴィに向けた。
アイヴィの口元が白く光ると、大きな口から冷気の炎が噴き出す。シェリーはその炎をかわすように、奥の壁に向かって大きく跳躍した。
両足を壁に着けると、竜は案の定そこにも火を噴く。それも回避されて苛立っているのか、今度は爪を振り回し始めた。冷静に対処できるシェリーなら、あんな攻撃にも当たらないのが見て取れる。
一方で、シェリーが誘導した箇所を中心に次々と凍りつく。……室温が急激に下がると、少しやりづらいな。せっかく囮になってくれてるのに、手先がかじかんでやがる。
ここは、息を大きく吸って集中しろ。肩に銃床を置き、照準に眼を凝らす。円形の小窓に映り込むのは、清竜の手だ。
まずはブレぬよう、息を殺せ。
ピタリと止まった瞬間、このトリガーで不意を突いてやる──!
──バァァアン!!
見事に着弾。右手の甲を撃たれた神は赤子のように喚き散らした。
「シェリー、今だ!」
「はい!」
俺が声を上げると、彼女は清竜と同じ目線まで飛躍。それから両手を突き出し、青白い光の球を生じさせた。彼女が今から打ち出す霊術──おそらくは、雪男との戦いで使ったそれだろう。
「行きます!!」
極限まで膨らんだ光球は、前方に大きな閃光を放つ!
その霊術がアイヴィを焼き尽くすと、ヤツは後ろへ倒れ込んだ。
今度は俺の番だ。
吹き抜けの手すりに足を掛けつつ翼を展開。それから竜に向かって飛び降りると、鞘から長剣を取り出し距離を詰める!
「せいっ!!」
深く切り裂かれた腹部。その傷は下半身にまで及び、黒い血飛沫が放射状に舞った。
……って、何故だ!?
倒したはずなのに、傷口が地割れのように裂けて
「うあぁっ!?」
複数の、氷の手……!? いかにも硬そうなのに、何故こんなにぬるぬる動いてるんだ?
つか、身体を掴まれたせいで冷たいし苦しい……! あの力はルーシェと戦う時のために温存してたが、このままじゃ……!
「いま助けますわ!!」
中空から機関銃で乱射するシェリー。光弾が次々と撃ち込まれると、氷の表面に亀裂が走り出した。
魔手はシェリーにも手を伸ばすが、轟音と共に冷たい破片が飛び散る。俺が瞬きするうちにショットガンに切り替えたようで、彼女は次々と手の群れを粉砕した。
それは俺を掴む手も例外ではなく、無事銃弾に解放される。こうして俺は再びシェリーの近くへ向かい、アイヴィを見下ろした。
だが──肉壁に包まれていたのは、巨大な単眼だ。これこそが邪神の中枢であり、禍々しい声音で轟かす。
「人間ごときが世界を築き上げようなど、愚かな真似を……」
瞳孔をぎょろぎょろと動かし、俺たちを一瞥する。その青い瞳は酷く濁っており、血管が不気味なほどに浮き出ていた。
負傷したはずのアイヴィはゆっくりと起き上がり、双眼を紅く光らせる。──腹部に埋め込まれた単眼を、剥き出しにしながら。
「お前の目的はなんだ?」
「この世を原点に戻す。氷河こそが大地の源なり」
へえ、つまり昔が恋しいって事か。どおりでブリガの時はだいぶに派手にやったわけだな。でもな、
「悪いが、俺たちはお前の望みに応えるつもりはない。この場で安らかに眠ってもらうよ」
「戯けが……」
アイヴィの翼が光り、双方に魔法陣が展開される。
魔法陣が青く灯った刹那、無数の氷柱が水平に射出された!
「くっ!」
苛烈な攻撃に声を漏らしてしまう。翼で身を隠すも、掠めるせいで僅かに痛みが伴った。ただでさえ空気が冷えるのに、この魔法のせいでもっと寒くなるだろ……。
無論、アイヴィの反撃が止む様子はない。口元が再び光ると、今度は凍りついた炎が放たれた。
久々に邪神を相手にしたが、やっぱやべえヤツだな。そう感心しつつ、俺はシェリーと違う方向へ回避。壁や吹き抜けなど、着弾した箇所を中心に小さな氷山が形成され始める。
畜生、逃げ場が失われていく──。
焦りが脳裏を過ぎった瞬間、単眼の瞳孔がくわっと開かれた。
鋭角の部分が歪み出し、細長い筒に変形する。斜面は連なる立方体へと変わり、あるモノを想起させた。
それは、兵器として使われる砲台だ。ハリネズミのような砲口が一斉に此方を向くと、神の号令が掛かる。
「殺れ」
──ドガガガガガガガガガ!!!!
嵐のように飛び交う、氷の銃弾──! 己に迫る弾を、この剣で絶え間なく弾き飛ばしてみせた。
けど、これだけの数を弾くとなると……。さっきまでの戦いや寒気も相まって、振りが鈍くなってきている。
気を緩めるな、アレクサンドラ。
冷却の瞬間を狙
「うあっ!!」
脇腹に抉られるような激痛が走る。この銃弾、鎧も貫くのかよ! けど、此処で倒れるわけにはいかねえんだよ!!
「きゃあ!!」
まさかシェリーも……!? 一瞬だけ見遣ると、彼女の腕や脚からは大量の血が流れていた。
「シェリー!!」
突如、白い光が俺の身体を包み込む。
シェリーの力か……? いや、それにしては──
「うあぁぁぁぁあああぁあぁああ!!!!!」
焦がれるような痛みなのに、身体が冷えていく……!!
てが、あたまが……まったく……うご、かねえ……なにが、おきてるんだ…………
「アレックスさんを、助けに……うっ!」
シェリーまで、やられてんじゃねえか。
まさか……俺たちは、此処で終わるってのかよ。
……思えば、俺を純真な花の隊長に選んだのも、あのルドルフなんだよな。
でも今はシェリーと一緒にいるんだ。
もう、良いよな……? あいつのためにやれる事をやってきたんだし。いずれシェリーも……。
『……さっさと行けよ、この……バカ女……』
『言われなくても、わかってますわ……!』
シェリーに酷似した、銀髪の女。
あの古びた場所で別れを告げたはずなのに、最後に会ったのは──
『私は……もう、生きたって……』
『バカ野郎!! 俺を置いてったら一生恨むぞ!!!』
『知って、ますわ……。ですが……』
その手は冷え切っていて。
俺がきちんと想いを伝えるには、遅すぎたのだ。
『─────たら……────は……』
視界が、記憶が、どんどんぼやけていく。
目の前で巨竜が暴れてるってのに、不思議なくらい音が聞こえねえんだ。
ああ……この恋も、『好き』と言えずに終わるのか? マジで惚れた時に限って、その二文字が言えねえんだよな。
その時、聞き覚えのある声たちが否定するように響き渡る。
『シェリーを見守ってくれないかしら?』
『命を粗末にするなんて、ボクが許さないよ……。シェリー、お願いだから生きて帰ってきて! またキミと一緒に遊びたいし、手作りだって食べたい』
『アレックス様という存在はこの世でただ一人だけなのです! 今日を逃してしまえば、またいつお会いできるかわからないのですよっ!』
『ジャックを凌駕する男でありなさい。心・力ともにね』
『シェリーのこと、あいつからぶん取りな』
んだよ、皆して……。なんで、こんな時にお前らの声が……聞こえてくるんだよ……。
『お願い。私を……置いていかないで……』
……シェリー? こんな記憶あったか? それとも……。
いや、考えてる場合じゃねえ。あいつ、本当は笑顔の下で孤独を隠してるんだ。ずっとずっと見せてこなかったんだ。
だったら、尚更伝えなきゃダメだろ。
『お前の事が好きだ』と。
もし俺が死んで、シェリーが生きてたら?
おそらく彼女はジャックに捕われ──それだけはダメだ。
俺が死ねば、あいつの心にまた傷が残る。
最悪、恋人になれなくても良い。国のために戦い、彼女のために尽くせたらそれで良いんだ!
「都合よく死んで、あいつを一人にできるかよ!!」
神が何だってんだ。運命が何だってんだ。
霞んだ視界と聴覚の中で足を動かし、彼女の前で立てば良いんだ!
「ダメよ! そんなに、動いたら……」
「自分の身体を、癒せ。あいつは……俺が殺っておく」
大丈夫だ、まだまだ動ける。
単眼が光を収束させる──次に狙うのはシェリーだ。それまでに俺が阻止すれば良い!
翼はボロボロだが、バランスを崩すこと無く飛べる。
俺が単眼に近づいて剣を構えると、自身の周囲に四つの光球が密集していることに気づく。
「あなたの魔力をそこに注いでください。そうすれば、自ずと攻めてくれますわ」
彼女はもう傷を癒やしたのか、先ほどと比べてはきはきと話す。俺は言葉通り意識を集中させ、魔力を球体に送り込むと……不思議な事が起こった。
球体が黒い光に包まれたと思いきや、光の槍が一斉に眼球を貫く。そのまま肉体が焼かれると、収束した光はあっさりと消えた。
攻めるなら今しかねえ!
俺の剣舞をお見舞いしてやらぁ!!
──ズバグシャバシュッズシュブシャッ!!!!
「ぐあぁぁぁぁぁぁああぁぁあ!!!!!!」
「意外と大したことねえな。これぐらいで、倒れるなよっ!」
網膜と肉体の双方に走る複数の傷。しかし、とどめを刺すのは俺じゃない。
この邪神を最も恨んでいるであろう人物に向かって、こう言い放った。
「シェリー、ガキの頃の恨みを思い切りぶつけな」
「はい!!」
シェリーがレールガンを召喚し、二つに分かれた細長い銃口を竜に向ける。
そして彼女は神を睨み、指先に力を込めた。
──復讐を果たすかの如く!
「《我が力を以って、汝を浄化する》!!」
光の刀が、稲妻と共に放出!
瞬く間に竜の肉体を貫き──
黒い靄を鮮血のように撒き散らした。
「おのれ、ミュール……我を、よくも、ぉ……」
ついに邪神が消えると、氷も白銀に煌めき儚く散った。氷山の地と化した広間は元に戻り、嵐の前の静けさが生まれる。
俺は最後の力を振り絞り、硬く冷えた床に着地。片膝をつき平静さを装ったつもりだが、荒くなった呼吸を整えるのは困難だ。それどころか、視界が真っ白でもはや何も見えねえ。
「……此処は私が……」
背中に当てられた温もり──それが愛しい女の腕である事が判ると、こんなにも安心できるものだな。戦いはまだ終わってないと云うのに、まるで、平和が訪れたような──
「絶対に死んではダメ。それは……私が許さないから……!」
これで何度目だろう。またシェリーに助けられちまうなんてな。
温かい風が、傷を埋めていく。
閉ざされようとした五感も、血の巡りも……全部元に戻っていくのだ。
瞳を覆う霧が消え去り、優しくて美しい少女の顔が映り込む。
介抱される俺は、なんて幸せなんだ。
「お前のおかげで命拾いしたよ。ありがとな」
ようやく動いてくれたこの手で、彼女の頬に触れてみる。その透き通るような頬は、今まで触れた中で一番温かかった。
彼女は微笑を浮かべて静かに頷くと、「アレックスさん」とやや強かな声音で呼び掛ける。
「扉が……開きましたわ」
「……だったら、いつまでもこうしてられねえな」
シェリーの言う通り、吹き抜けの奥にあった扉が確かに開いている。俺たちは飛んで移動すると、その中をくぐった。
「この階段がそうか」
入った矢先に飛び込んだのは、螺旋状に続く鉄製の階段だ。見上げれば途方もなく続いていて、『一生辿り着けないんじゃないか』と錯覚する。
視線を水平に戻してみれば、シェリーが既に一段目に踏み入れようとしていた。だから俺は、少し弱気な背中に敢えて問い掛ける。
「本当に良いのか?」
「はい。私には、皆さんやアレックスさんがいますから」
彼女は決して振り向かない。
けれど──手すりに手を掛け、一段ずつ昇る足取りは覚悟を決めたように重々しかった。
(第七節へ)
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