※この節には過激な描写が含まれます。また、作中における反倫理的行為を肯定するものではございません。
「ベレちゃん、おはよ〜!」
「あれ、どうしたの?」
教室に二人の男子が入ってくる。その頃には黒板に写真なんてものは無くて、目の前で何気ない学校生活が繰り広げられていた。
……私が事実を叫ばない限りは。
無人の教室で見たもの──それは、私と先生の後ろ姿を写した写真。『昨日のデートは盗撮されていた』という事実を認識する暇など無いまま、ベレさんに脅された。
『あの名医と何処まで行ったんだよ?』
何度も聞いた低い声に憎悪を込め、頬にナイフを突きつけた彼女。私は『何も無かった』とありのままに話したけれど、それが彼女を逆上させる事となる。
この右頬に走る細い痛みが、その証だ。
彼女は私に着席させた後、ハンカチを頬に押し当てる。後から来た女子たちは写真を取り除き、黒板拭きで事実をも消した。
いま私を介抱するベレさんの表情は、とても慈愛に満ちている。その一方で、ハンカチを持つ手には血が溢れんばかりの力が込められていた。
彼女は男子たちの方を振り向き、笑顔を見せたまま朗らかに答える。
「おはようございます、皆様! 実はシェリー様が登校中にお怪我をされてしまったそうなので、お手当をしているところなのですっ」
「ベレちゃんはホントに優しいよね。お姉さんにそっくりだ」
「このクラスの女神って感じだな!」
「そんなことはありません。あたくしは、皆様が健やかに過ごしてくださればそれで良いんです」
ねえ、ベレさん。今までそんな風に話した事は無かったよね? 私と初めて会ったときは、『どいつもこいつも群れてやがる』って言ってたじゃない。
でも、男子たちがそんな事に目を向けるわけも無くて。彼らはただ彼女に好意の目線を送るだけだ。
ベレさんはハンカチを持って離れようとした刹那、私の耳元で釘を刺してきた。
「話したら承知しないぞ」
脅迫を残した矢先、彼らに近づき輪の中に入っていく。後から来た生徒たちも次々と加わることで、その輪は大きくなっていった。無論、私が入る余地なんて何処にも無い。
私は誰も見ないうちに席を立ち、おぼつかない足取りのままある場所へと向かった──。
此処は、壁がけに鏡と流し台が設置された場所──休所だ。今の状態をわざわざ鏡で確認する人なんていない。私は誰とも目を合わさぬまま此処に辿り着き、顔を上げる事も無いまま個室の中へ入った。
薄い壁に寄り掛かり、何の変哲もない天井を見上げる。決して綺麗な場所ではないけど、今だけは安らぎの場だと感じた。心が乱れぬようにと、胸に両手を当てて強く握りしめる。それでも涙腺は緩み、雫が右頬の傷を刺激するばかりだ。
これじゃあ、先生に顔向けできない……。こんな私を見れば、あの人もきっと私から離れていく。
『いずれ貴様が去ろうとも、俺は永遠に見放すまい』
お願い。こんな私を見ても、変わらず傍にいて。病院にいた頃のように、優しく私を抱き締めて。
あなたに見放されたら、私は──。
ぐしゃぐしゃになった顔を両手で覆い隠したとき。
両手が温かな光に包まれた。
驚愕の声を必死に押し殺し、その両手をまじまじと見つめてみる。
「…………っ!!」
金色に輝く粒子は私の右頬に集まり、細い傷口を徐々に塞いでいく。やがて痛みが嘘のように消えたとき、私は初めて自覚した。
これが──霊術なんだ、と。
私には、傷を癒やす力があるのかもしれない。もしそれが本当なら、他人の傷も治せるかもしれない。
今はまだ使いこなす自信が無いけど、『私にも生きる価値がある』と思えた瞬間でもあった。
鐘を鳴らす音が、窓から聞こえてくる。
個室を解錠し、扉を開ける動作には手応えがあった。
それから出入り口付近の鏡に近づき、自身の顔を眺めてみる。
「本当に……無い……!」
──私が感じた事は、全部間違いでは無かった。
嫌がらせは昼休みまでに絶え間なく続いた。物を隠されたり、悪口を言われたり、足を引っ掛けられたり。
でも、転ばされたときは霊術で傷と痛みを癒やした。痛みを引きずりながら違う階(の休所)に向かうのは大変だったけど、自分の身を守るためなら厭わない。その階は顔見知りが訪れないので、私の数少ない居場所と
──なったはずだった。
人知れぬ場所で昼食を終え、個室で天井を眺めていた時。複数の足音が響き渡る。ただ近くを通っているだけだと思ったけど、その予測はすぐに裏切られた。
蛇口をひねる音に、何らかの道具を取り出す音。
ひそひそと話す声が聞こえるのと同時に、頭から冷たいものが降り注がれた。
「きゃあぁぁあ!!!」
「あっはははははは!! ねえ、今の声聞いた?」
「聞いた聞いた! すっごい可愛いよね〜!」
「おい、シェリー。そこにいるんだろ? さっさと出ないと蹴破るぞ」
やめて……水だけは、嫌……! どんなに身を屈めても頭を守っても冷たいのが入ってくる……! 身体の芯まで冷える恐怖は、あのプールでの出来事を想起させた。
『触るな、化け物め!! お前のせいで、私の妹が死んだんだっ!!!』
入ってこないで! もう思い出したくないの!!
このままじゃ、凍えて死んでしまう……! 早く逃げないと!
「『さっさと出ろ』っつってんだよこのぶりっ子が!!」
ベレさんが、ドアを蹴ってくる。そのドアが開くことは決してないけれど、強い衝撃は私に恐怖を与えた。
「ちっ、こうなったらアレをやるか……」
何か仕込んでる……!?
それまでに出ないと、今度は何されるかわからない!
此処は……運に身を任せて!
私は解錠するのと同時に、勢いよくドアを開ける。
女子たちがそれに驚く中、全速力で逃げ
「ねえ、どこに行くつもりなの?」
なんて速さなの……!? 私の両腕は既に彼女らに絡み取られ、脚が必然的に棒立ちになってしまう。
加えて正面には、バケツを持ったベレさんがいて──
「うぅっ!!」
大きな波が押し寄せてきた。反射的に目を瞑っても波から逃れる事はできず、心臓が止まりそうな危機感を覚える。隙間から入る寒気は私を追い込み、歯をガタガタと震わせた。
ベレさんがバケツを投げ捨てたのか、鉄の音が断続的に響く。彼女は親指で私の顎を持ち上げ、翠色の眼で覗き込んできた。
「なあ。さっきから傷が消えてるって事は……神族なんだろ?」
「嘘でしょ!? こんな女が霊術使えるとかウケるんですけどー!」
心臓が、口から飛び出そうになる。神族の血を引く者は多く存在するけど、私の家系はその事実を隠す習わしがあった。
本当の種族、そして本当の姓を知られることは──すなわち、死を意味する。
その習わしは、存在しないはずの記憶を鮮明に呼び起こす──。
『もうじきで、幕が開かれる』
それは、冷酷な男の囁き。
身動きが取れぬ私は、屈辱と享楽の狭間で生を保つ事しか赦されなかった。……時に、想い人の顔を思い浮かべながら。
まっすぐな瞳に、亜麻色の髪を持った想い人。
例え彼が人間じゃなくても、私を大事にしてくれるあの人が大好きだった。その恋は終わりを迎えたけど、まるで恋人同士のような関係だった。
けれど。世界を牛耳らんとする蛇は……想い出を、自尊心を、次々と穢していく。
やがて心の何処かで、主への忠誠心が芽生えていた。
口元に髭を生やした男こそが、私の主。
互いの遺伝が一つとなった現在、新しい命が生まれようとしていた。
『あぁぁああぁぁあ……!!!』
全身に行き渡る激痛。私が声を枯らしても、男はただ嗤うだけ。
その痛みが頂点に達した刹那。
“私”という存在はついに壊れ────
「そういや神族ってさ、人間よりもずっと息が長いんだってね」
「あたしらは早く死んで、こいつがのうのうと生きるって思うとマジでムカつく」
「ねえねえベレ様。今度は思いっきり抉ってみようよー」
「これで霊術がどこまで効くか試せるね! きゃっははははは!!」
もうやめて。それ以上やられたら、私の心が保たなくなる……!
ベレさん、お願いだから来ないで! ナイフを持ってこっちに来ないで!!
「黙ってないと、もっと傷だらけにするからな」
誰か助けて……!
ナイフが近づいて、また私の顔を──!
──ナラバ、ミンナ殺セバ良イ。
……え?
今の、私の声?
──コンナ狭イ世界、私ニハ不要ナモノ。アノ人サエイレバ、ソレデ良イ。
違う、違う!
こんなの私じゃない!!
──サア、今コソ目覚メル時。私ヲ止メラレル者ナド、誰一人イナイ!!
「いやぁぁぁあぁぁあぁあぁぁ!!!!!!」
心が、蝕マれていク。
身体ガ光に包まレ、
お願い!!! やめてってばぁあああ!!!
「「きゃぁぁああ!!!」」
「あ、あア……」
ベレさんが、女子たちガ、いつの間にカ吹き飛バされて……。
デも、今のウちに……逃ゲないと
「何だ、今の光は!」
「ほっといたらヤバいよ、先生を呼ばなきゃ!!」
私の身体ハ勝手に休所を抜け出シ、玄関へト向かっていク。
全速力で走ッテも、
走ってモ、
走ッてモ。
呼吸ガ乱れる事はナい。
ソれどコろか、
背中かラ蒼イ羽が、生えテ。
心ヲ全能感で支配シテイク。
こんなの、私じゃない。
コレガ、私。
「あは、ハハハはハハ、アハハハハハハハハッ!!!」
もうどうにでもなれば良いわ!
この翼があれば、私はどんな所にでも行ける!
そうね、この窓ガラスをぶち破れば──!
「シェリー様! 早まらないでっ!!」
地上へ飛び降りる中、聞こえてくる。忌々しきエルフの声が。
エレ? ……ええ、この女も嘘つきよ。
飛び散るガラスの破片。それはもう、天使の羽根のようで美しいわ……!
『ええ!? 窓から飛び降りたぞ!?』
皆が、見ている。
『あいつ、天使だったのか!?』
ようやく皆が、見てくれる。
散々私を小馬鹿にした連中が、この力に慄いているっ!!
なんて素晴らしい力なの!? こんなモノがあれば何処へでも走れるし、もう誰にも頼らなくても良いじゃない!
そう。本当の私は、走ることも身体を動かすことも大好き。
この城下町を駆け抜けて、あの人に会いに行けば良いの……!
ねえ先生、あなたは今どこにいるの?
この情欲に飢えた身体を、早く潤して……!
あああっ、もう、我慢できないのにっ!!
もう耐えきれなくて、このまま路地裏で──
「よお姉ちゃん、そんなとこで何してんだい?」
……え?
此処は何処? どうして、こんな薄暗い場所にいるの? さっきまで学校の休所にいたよね……?
目の前にいるのは、私より一回り大きい男。壁に寄り掛かる私は、その奇妙な男をこの目で捉えた。
霊力を、解き放たなきゃ。
頭の中でそう言い聞かせても、力が湧き上がる事は決して無い。
もしかして、此処に来るまでの間に使い果たしてしまった……?
「せっかく此処にいるんだ。良いことしようじゃねえか」
「は、放しっ……」
「おっと、あまり騒がれると面倒なんでな」
男に片腕を掴まれ、口元を塞がれてしまった。恐怖のあまり脚が震えて、全く集中できない……っ!
『戦争は、貴様が生まれた時から始まっている事に気づけ』
ああ、先生──。
心無き者に力を狙われ、見知らぬ男の慰み物になってしまうのでしょうか。
「やっと大人しくなったようだな」
「きゃあっ!」
口を塞いでいた手は、余る片腕をも押さえる。そのまま追い込まれた私は、男の顔を直視せざるを得なかった。
お母さん、お父さん。
マリア、アイリーンさん。
そして──
「ぐふ……っ!」
男が、倒れ……た……? それも口から血を吐いて、私を押さえる力が一気に失われる。
彼の背には一本の短剣。
その数歩先には、見覚えのある男性が立っていた。
でも、私には立つ力など残っていなくて──
「何処までも面倒な女だ」
衣服に染み付いたタバコの香りに、黒いスーツ。顔を見る余力すら無いけど、私を抱きかかえる人が誰かはすぐに判った。
身体が姫のように持ち上げられ、浮遊と着地が繰り返される。建物の壁を蹴って進むその様子は暗殺者そのものだ。
先生は、ただのお医者さんじゃ無かったってこと……?
今はそんな事もどうだって良い。私を助けてくれたなら、それで良いんだ。
まだ逃げ切れてないというのに、安堵感が一気に押し寄せる。
私の視界はだんだん白くなり、胸の中で瞳が勝手に閉ざされていった──。
あれからどれくらいの時間が経ったのでしょう。
その瞼は自然と開かれ、意識がだんだんと戻ってくる。
とてもふかふかな何かの上。腹部に被さるのは、白檀の香りがする深紅の布だ。天井には、ガラス製の大きなシャンデリア。灯りは当然ついていない。右横から差し込む陽の光は、レースカーテンを通して部屋を優しく照らす。
マリアのとこと違って天蓋が無いし、私の部屋もここまでお洒落なんかじゃない。取り戻した意識は、此処を『先生の家』と判断した。
このベッド、私一人で使うにはとても広すぎる。部屋だって閉塞感がまるで無いし、宮殿か何かという勘違いすら覚える。
私は思い切って上体を起こし、辺りを見渡した。
広い部屋を彩る壁は、乳白色の大理石だ。隣には木材の棚、正面には額縁に飾られた刃物たち。あまりに上品すぎて、この部屋を『寝室』と断定するのに少し時間が掛かってしまった。
……って、よく見れば私、バスローブ姿だ! じゃあ、先生は私の身体を見たってこと!? いやだいやだ! 心の準備がまだなのに、こんな形で見られるなんて聞いてないよ……。
「気がついたか」
ええええ!? 先生がいつの間に!? それもワイシャツ姿だし、胸元が開いてるしで、目のやり場に困っちゃうよ……!
いろんな恥ずかしい事が起きて、私は胸を隠したまま彼から顔を逸らした。
「先生……見たんですね……」
「ジャックと呼べ。それに、女の裸は仕事で見ている」
思えば、そうだったよね……。いちいちこんな事を避けていたら務まらないわけだし……。しかも平然としているんだから、やっぱり私を子どもとしか見ていないんだ。
悲しい事実なのは判っていても、『見られた』という事実だけで脚が勝手に動く。……媚薬を仕込んでいたとか、そんな事はきっと無いよね?
「霊力が癒えたら家に帰れ。俺が送ってやる」
そんな……私を家に招いたのは仕事の一環って事……?
ううん、それはきっと無い。あれだけ私にキスしてくれたし、抱き締めてくれたんだ。
ここは──勇気を振り絞らなきゃ!
「……なんだ」
「帰りたく、ありません」
背を向ける彼に対し、思い切って袖を掴む。
顔を見る余裕なんて無い。胸を片手で押さえたまま、私はただ下を向いて今の表情をごまかした。
せっかくの、機会だというのに……なんで、涙が……。
純白の絨毯の上で、小さな染みが次々と生まれていく。掴んだ手に力を込め、血が吹き出そうな程に唇を噛み締めた。
「顔を上げろ」
「……嫌です」
彼の命令に逆らった刹那、指先で顎を持ち上げられ──舌が入り込んだ。舌を絡め取る細いそれは、蛇であることを物語る。
彼は私をそのまま押し倒し、切なさと快楽で理性を溶かしていく。私の身体はたちまち火照り、自分とは思えない声が絶え間なく漏れた。温もりが次々と弄るせいで、雷に打たれたような刺激が幾度も訪れる。
しばらく口づけを交わしたあと、私達は見つめ合う。獲物を捉える眼差しは心を釘付けにし、瞳をも蕩かした。
……此処までしておいて、終わりなんて絶対に嫌。私は彼の背に手を回し、声を振り絞る。
「ジャックさん……。このまま、私を──」
「……痛がってもやめないからな」
ずっと『先生』と慕っていた彼が男になり、ローブに手を掛け始める。
そして──
牙で愛を刻まれ、秘める花を激しく散らした。
(第八節へ)
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