・陸屋根:平面上の屋根。
・片廊下:現実世界において、主に日本のマンションやアパートで見かける廊下。此処では、外気に開放されているタイプを指す。
夕暮れ時の景色が此処まで美しいと思えた事はあっただろうか。
赤く染まる陽が、視界に広がる石造の街並みを鮮明に描き出す。紺の水平線が垣間見える中、風の町では淡い光が疎らに灯っていた。
斜面に沿って直方体の建物が所狭しと並ぶこの場所は、いずれも緑色がふんだんに使われている。しかし森林のような深い色ではなく、白みがかったような建物ばかりだ。浅い青緑で構成された陸屋根がアクセントになるおかげで、(決して初めてでは無いが)この景色は俺の心に長く刻まれる事だろう。
俺たち純真な花とヒイラギは、樹の神殿を離れウェンティーヌの高台に降り立つ。此処から見ても違う森に迷い込んだような色彩だが、もう過去の世界に引きずり込まれる事は無いと思いたい。
「すっごい綺麗……!」
「あうう、カメラでも持って来ればよかったぁ」
初めて訪れたであろうアンナとシェリーは、息を呑んで立ち尽くす。アイリーンが「では、行きますよ」と促すと、高台を降りていよいよ街中を歩く事に。
建物と建物の隙間はかなり狭く、成人二人分が精一杯だ。壁には、異国情緒溢れる織物が沢山掛けられている。あらゆる柄を繋ぎ合わせた織物は一見ちぐはぐだが、全体を見れば何故か統一感があるのだ。鮮やかな織物は薄緑色の世界で際立ち、好奇心を煽ってくる。ハーブとスパイスの香りが漂う方を見れば、独特な見た目をした惣菜が屋台に陳列されていた。
「どれも美味そうじゃないか。なあロリータ、あれ奢ってくれよ」
「あいにく今日のメニューは決まってるの。いかにもあなたが好きそうなモノもあるから安心なさい」
「ひゅー! あんたにしては気が利くじゃん!」
「何よ! いつも割って入る身の分際で文句言うつもり!?」
「喧嘩している場合では無いでしょう、陛下にベレ」
「だ、だって!」
ヒイラギに乗せられ、頬を膨らますマリア。特にここ最近は緊迫していた以上、他愛ない会話もなんだか久しぶりに思える。
一方俺の隣を歩くエレは、先程から無言に徹しているようだ。声を取り戻したというのに、儚げな眼差しで前を歩くのみ。他のメンバーと違って町を見回す事は一切ない。
その様子に少し不安を懐いてしまった俺は、「大丈夫か?」と話しかけてみた。
「あ……気に、しないでください。ちょっと……考え事をしてて」
「良かったら俺に話してくれないか。何か解決できるかもしれない」
「いいえ、こればかりは……」
「判った。もうすぐで宿に着くから、ヒイラギちゃん達と一緒に休むと良い」
「ありがとう……なのです」
エレは俺の方を向いて口角を上げるが、どうも目が笑っていない。むしろその作り笑いが俺の胸を締め付けたのは言うまでもなかった。
込み上がる切なさを忘れるように、緩やかな階段を昇っていく。道沿いに半円型の扉が並ぶ辺り、此処が民家なのかもしれないな。
そんな風に誤魔化しながら、マリアが確保してくれた宿屋を見つけ出す。比較的質素な印象を受けるが、片廊下の手すりに装飾が施してある。もしそこに気づかなければ、俺は素通りしていただろう。
受付で手続きをした後、各々が部屋で少し身体を休めた。廊下に出て手前の部屋にはエレ・ヒイラギ・アンナ、中央には俺とシェリー、そして最奥にはマリアとアイリーンがいる。それから屋上で一同と夕食を取るが、エレは依然として口数が少ないままだった。
皆で部屋に戻ると、俺とシェリーはソファーに腰掛け夜空を眺める。バルコニーへと繋がるガラス戸を開け放った事で、少しひんやりとした風が流れ込んできた。暦の上ではもうじきラピスラズリの月だが、ウェンティーヌ特有の気候のおかげで酷く寒さを感じる事は無い。むしろ心地良いくらいで、願わくばずっと此処で身体を休めていたいものだ。
街並みが薄緑の建物で構成されているのに対し、この部屋の壁やソファー・ダブルベッドは真っ白だ。壁掛けのランタンが優しく部屋を照らし、副交感神経を優位にさせる。ブラウンが基調のラグには縞やさざ波をあしらったような模様が不規則に連なり、ベッドには見慣れない模様のクッションが置かれている。付近に掛けられた風景画は、おそらく元来の国を描いたものだろう。
ほんのりと漂う木の薫りは、天井や扉から来るもの。右隣に座るシェリーは背をクッションに預け、薫りを堪能している様子。時に伸びをする仕草がとても可愛らしく、思わず口づけしてしまいそうだ。
「身体の方はどうだ?」
「色々ご迷惑をお掛けしましたが、おおかた回復していますわ」
シェリーは、まるで呪いを忘れたような笑みを見せる。彼女とはしょっちゅう会っているのに、この光景も久しぶりに思えてくるよ。
俺は手を伸ばし、彼女の柔らかな髪を撫でる。今は肌を重ねる事より、このまま抱き締めて眠りにつきたい気分だ。
だが、安らぎのひとときは短い振動によって破られる。
その犯人は、ベッド手前の丸テーブルに置かれた通信機。正方形に折り畳まれた薄い機械は、この瞬間を阻んだ事に罪悪感を懐いていないだろう。
やむなく腰を上げると、シェリーがはっとするように離れる。俺は彼女に対し後ろめたい気持ちを抱えながら、空気の読まぬ端末を開かねばならなかった。
メッセージが一通──ある差出人より届いたそれに、思わず声を漏らしてしまう。
「え……っ」
「ど、どうしましたの?」
内容が内容なだけに、シェリーにはどうしても言えない。そこで「ちょっと待っててくれ」と一言添えた後、もう一度本文に目を向けた。
〈突然メッセージを送ってしまい、すみません。お話したい事があるので、屋上に来てくれませんか?〉
この差出人は、他ならぬエレだ。少し前、彼女はシェリーに『彼氏様を好きになってごめんなさい』と明かした。エレへの応えは決して明るいモノでは無いが、女性を外で放置するのは気が引ける。
だから急遽ローブを脱ぎ捨て、念のため鎧に身を包む。シェリーが俺の元へ近づくと、ひとまず用件を伝えた。
「悪い、ちょっとエレちゃんと話をしてくる」
「……承知しましたわ。いってらっしゃいませ」
シェリーは俺を疑う事なく、屈託のない笑顔で見送ってくれる。今日は用事が用事だからこそ、胸がとても苦しくなってしまうのだ。
それでも彼女は俺の手を持ち上げ、甲に口づけを添える。皮膚を伝う温もりは、後ろめたさに満ちた俺の心に癒しをもたらした。
「すぐ終わるから」
「はい。それでは、お気をつけて」
こうして俺は部屋を離れ、屋上へと足を運ぶ。部屋から屋上までの距離は決して遠くは無く、ただ近くの階段を昇るだけで辿り着いてしまう。だがこの時だけは、緊張のあまり少し遠いように感じたのだ。
「……大丈夫、わたくしならきっと……」
階段を昇る中、エレの独り言が聞こえてきた。ずっと待ってくれていた事だろう。もし俺がジャケットを持ち込んでいれば、貸してやる事ぐらいはできたかもしれない。
いや、それではダメなんだ。本心に反するアクションは、却って彼女を傷つけてしまう。苦しいが、この時こそ心を悪魔にして俺も伝えなきゃいけないんだ。
いよいよ最後の段を超え、ひとり扉の前に立つ。
俺は一旦息を吸った後、静かに扉を開け──緊張を解すように挨拶を交わした。
「すまん、待たせたな」
「あ……っ!」
慌てるように振り向くエレ。いつもはすぐ俺の腕にしがみつくのに、今日ばかりは何もしてこない。この塀に囲われた屋上の中で、ずっと夜空を眺めていたのだろうか。
ここ暫くは曇りの日が続いていたのに、今では嘘のように星が瞬いている。だからこそ、今の状況に相応しくないと思ってしまう。
それはさておき……本題に入る前に、お互い話しやすい雰囲気に持ち込もう。先程からエレは吃音気味なので、引き続き俺から話しかけてみる。
「ゆっくり休めたか?」
「は、はい! えっと……」
「慌てる必要は無い。落ち着くまで深呼吸するんだ」
うっかりエレの背を支えそうになったが、此処は堪えて両手をズボンのポケットに入れる。彼女は小さな口を開けて呼吸を整えると、「ふう」と溜息をついた。
「ありがとう、なのです。どうして、わたくしに優しくするのですか……?」
「……お前も大切な隊員だからだ」
これが、彼女に対する答えだ。向かいに立つ彼女は喚く事も無ければ、無理に盛り上げる様子もない。ただ在りのままの言葉に耳を傾けてくれているのだ。
……例え彼女の目から涙が零れようと、決して気に留めてはならない。俺は敢えて笑顔を見せ、『いつまでも友として傍にいる』と伝えるしか術が無いんだ。
「…………わたくしは、いつもいつもシェリー様を傷つけてばかり……。あなた様が思うほど、決して綺麗な心では……!」
エレはついに泣き崩れ、両手で顔を覆い隠す。俺がそんな彼女を見つめていると、嗚咽を上げながら言葉を続けた。
わたくしも、シェリー様の笑顔を壊した人間の一人なのです。多くの女子は、可愛らしいあの子に嫉妬して、毎日悪口を言ってばかりでした。……特にベレは、我儘なところがありますから……なおさらあの子を許せなかったのです。
ベレの姉なのに、独りになるのが怖くて……シェリー様がジャックと一緒にいるところを、盗撮してしまいました。ですから……あの子も花姫と知った時、どうお顔を合わせれば良いのか、判らなかったのです……。
それに加え、あなた方はお付き合いをしている……。アンナ様から電話で聞いた時、わたくしの胸は張り裂けそうになりました。悔しくて、腹の底からシェリー様を恨んでしまったのですよ。
でも……同じ過ちを繰り返せば、今度こそアレックス様に嫌われてしまいます。どうせ嫌われるのでしたら、此処ではっきり申し上げた方がスッキリするのです。
ですから、アレックス様……あなた様の本心を、聞かせてください。どんな事でも構いませんから……!
「……本当にお前の心が穢れてるなら、とっくの昔に突き放してたよ」
「え……?」
予想外の答えと思ったのか、エレが顔を上げる。涙で濡れた顔は、元々の美しさと相まって揺さぶりを掛けてくる。だが俺はエレをしかと見つめ、改めて自分の言葉で応える事にした。
「エレちゃんの言う通り、俺はシェリーの彼氏だ。けどな、どんな過去を持とうが仲間の一人である事に変わりは無い。これからもお前とヒイラギちゃんに何かあれば、皆と一緒に必ず駆けつけるさ。……安心しろ、俺より良い男との出会いは必ずある」
「…………アレックス様……!!」
これで、わだかまりが生じる事は無いだろう。アンナが如何にして俺らの関係を知ったのか判らないが、決して大きな問題ではない。それよりも、エレ達との関係を健全に進めていく事の方がずっと大切だ。
エレの寂し気な笑顔は、少しばかりアリスとのやり取りを思い出させる。……どれ程の女の子と付き合っても、振る事に慣れねえもんだ。
少しの間互いが無言になると、エレはハンカチを取り出して涙を拭く。想いの丈を話せてすっきりしたのか、先程よりもどこか晴れやかな様子だ。
「ありがとうございました。あなた様とお話できて、良かったのです」
「俺も安心したよ。……お前は、先に部屋に戻っててくれ。俺はもう少し此処にいる」
「判りました。それでは、おやすみなのです」
「ああ……おやすみ」
俺に背を向け、屋内への扉に手を掛けるエレ。彼女がそのまま消え去ると、俺は空を見上げて彼女との思い出を振り返った。
『こちらを是非召し上がってください。張り切って多めに作っちゃったのです』
『これは?』
『リヴィのクッキーなのです。あの場所にはあまり良い思い出が無いのですが、このクッキーと林檎だけは大好きなのです。よくベレと一緒に作っていたのですよ』
真っ先に思い出したのは、エレの家を訪れたときの出来事。その時に喰わせてくれたリヴィのクッキーは、柔らかな食感とスライスアーモンドの歯応えが調和してて美味かったなぁ。
でも、その後に投げ掛けた彼女の問いは、今思えば自分の事のように悲しく感じるものだ。
『アレックス様から見て、わたくしはどのように見えますか? きちんと……生きているように見えますか?』
『あの国では“死者”のような扱いなのです』
エレ達が大変な思いをしたと云うのに、リヴィの連中はどこまで性根腐っているんだ。あいつらを受け止める男が早く現れてくれたら──これは隊長としてではなく、友としての願いだ。それに、エレとは『皆で東の国に行く』っていう約束もしたしな。
『……わたくしは、あの子を信じたいのです。“魔族に転身しても、姉への気持ちは変わらない”と』
きっと彼女は……いや、彼女らはこれからも未来を切り拓ける。姉妹揃って酒癖悪いが、実際はその辺の男より逞しい存在だ。
それにしても、会うたび彼女が俺に懐いてきたもんだから不思議な気分だ。絡まれなくてせいぜいするというより、僅かに空虚感を覚える。
でも、これで良いんだ。うやむやにするのは好きじゃないし、向こうもこれ以上時間を無駄にしなくて済む。
「……よし」
気持ちを整理できたところで、帰るとしよう。
俺も歩を進め、少し半開きの扉に手を掛ける。木の軋む音は、今の俺にとって心地良いものだ。
シェリーは今頃何しているんだろう? だいぶ時間が経っちまったし、信号を送ってみるか。
階段を降りつつ、ズボンから通信機を取り出す。それからシェリーに発信信号を送った時──背筋が凍る程のノイズが足を止めた。
砂塵が吹き荒れるような轟音。
このような音が聞こえてきた事はあっただろうか?
俺はすぐに信号を切り、急いでシェリーのいる部屋へ駆けつける。誰かが侵入しているかもしれないと察し、敢えて足音を殺すようにした。
「はあ……はあ……」
4-B08──此処が俺たちの部屋だ。すぐに鍵を取り出し、穴に挿し込もうとするが──。
「ぐあっ!!」
ドアノブから稲妻が迸り、鞭で打たれたような痛みが左手を襲う。それは静電気と括れない程の衝撃であり、思わず硬質な床に鍵を落としてしまった。
「うっ……何だってんだ?」
「アレックス!」
奥の部屋の扉が開き、マリアが俺の元へ駆けつける。同時に現れたアイリーンは俺たちを横切ると、手前の部屋の扉を三度ノック。彼女が扉の向こうに放った言葉は、俺を更に混乱に陥れた。
「お嬢様の部屋から、銀月軍団の瘴気を察知したわ! 早く来て!」
やはり、この宿屋に誰かが入ったのか!? 並大抵の魔族じゃ、通信の妨害などできやしないだろう。まさか──。
「どいてくれ!」
俺はマリアの手を払い除け、もう一度鍵を穴に近づける。この際、手を焼かれても構いやしねえ!
しかしその直後、覚悟を無意味にする瞬間が訪れる。
「こ、今度は入った……!?」
「何があったの!?」
もはやアンナの問いに答える余裕もない。俺の予想は見事裏切られ、今度はすんなりと差し込めたのだ。
何とか思考を切り替え、鍵を右方向に回してみる。すると解錠の音が聞こえ、ドアノブを手にしても電撃が宿る事は無かった。
俺は勢いよく扉を開け、先まで寛いでいた部屋に入り込む。
待ち受けていたのは、傷だらけの彼女でも侵入者でも無く──最も考えたくない結末だった。
「そんな……シェリー様、どこにいるのです!?」
エレの言葉通り、恋人の姿は何処にも無い。
バルコニーの戸は開け放たれ、秋風がレースカーテンを靡かせるだけだ。血の匂いは勿論、荒れた形跡だって無い。
眼前の光景に思考の一切を奪われ、足が棒のように止まってしまう。背後から聞こえる仲間たちの声も、今では右から左へ流れるだけだ。
「嘘……だろ……?」
この時、ある確信が俺の脳裏をよぎった。
彼女と愛し合い、温かな家庭を築く未来など決して訪れはしない──と。
「くく……実に愉快だ」
「可哀想ににゃぁ~。大人しく僕と付き合えば良かったのにぃ」
「…………」
「どうした? 仇を討つための手筈は整ったはずだ」
「はい。後は、この手で彼の悪魔を倒すのみ……!」
「あの男から未来を奪えば、もはや雑魚も同然。……行け、アリア」
「はっ」
「ふっふ~ん、僕に振り向かにゃかった罰にゃん♪」
「…………丁度良い、今こそ兵器を投下する時……くくくく、はははははははははははは!!!!!」
(第十九章へ)
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