清の都に張り巡らされた氷は、徐々に解け始めている。此処アングレス領家も例に漏れず、シャンデリアや吹き抜けからは水が滴り落ちた。光沢のある床上にはいくつもの水溜りがあり、下手に踏み込めば靴が濡れてしまうだろう。
正面に目を向ければ、先ほどまで囚われていたシェリーが前に倒れ込む。長いこと氷の枷に嵌められていたと思うと、居ても立っても居られなかった。
「シェリー!!」
爪先で前を駆け、水溜まりを跳び越える。
そして両手で恋人の身体を起こすと、彼女は虚ろな目で見上げてきた。
「アレッ……クスさん……?」
「ああ! 救出が遅れてごめんな……」
最後に逢った時の事も、撃たれた事も、何もかもどうだって良い。
とにかく彼女の意識がある事を嬉しく思えた。
彼女を固く抱き締める瞬間、自身の涙腺が緩みそうになる。仲間たちは後からシェリーに近づき、俺と同じく声を掛けてきた。
「やっぱりね。あんたはそこで捕まってると思ったよ」
「ジェイミーさん……!」
「ったく、ビックリさせんなよ。うちらはあんたの偽者と相手してたんだ」
「え!?」
もしや、鏡映しの事を知らない? まずは彼女を放し、片膝をついて蒼い瞳と目線を合わせる。この驚くような表情から、何か気掛かりな事を抱えているようだ。
「偽者って、どういう事ですの?」
「お前と会った後、俺は防衛部隊員に保護され城で治療を受けた。その時、お前にそっくりの女が城内に侵入したんだよ。花姫たちは開花しようと通信機を使ったが、霊石を封じられたせいでそれどころじゃなかった」
「──っ!!」
シェリーが息を呑み、瞳に濁りを映し出す。俺の説明に何らかのショックを受けたのか、彼女は首を振るや憤りを露呈させた。
「……嘘つき……ジャックの嘘つき!!!」
鼓膜が破れん程の怒声は、俺の身体を必然的に硬直させる。
シェリーは手先を床に喰い込ませると、嗚咽を上げながら床に染みを落としていく。俺は凍った身体を何とか動かし手を差し伸べるが、勢いよく振り払われてしまった。
「どうして私に優しくするの!? 私とあなたはもう恋人関係なんかじゃない……あなたを、この手で殺そうとしたのよ!!」
「落ち着いてくれ。今は、お前が最後に取った行動の理由が知りたいんだ。どんな理由があろうと、俺がお前を嫌いになる事はない」
「ですが……!!」
「てめぇのやった事ぁいけ好かねえが、その感じだと『誰かにそそのかされた』って感じだな」
「分析の要項につき、開示を求めます」
涙で顔を濡らすシェリーだが、ロジャーとヴァルカの後押しにより俺らを呆然と見据えるのみ。そこへヒイラギが純白の手拭いをシェリーの顔へ投げつけると、シェリーはようやく我に返ったようだ。
「いちいち手の掛かる女だ」
「ベレ、さん……」
手拭いを握り締め、静かに涙を拭くシェリー。嗚咽が止むと、彼女はこれまでの経緯について話してくれた。
今からトパーズの月末へと遡りますわ。私たち純真な花は、樹の神殿に赴いた帰りに樹の町の宿泊所で身体を休めていました。アレックスさんが『エレさんと話がある』と部屋を去った後、ジャックが侵入してきたんです。
私は助けを求めようとしましたが、後ろから首を絞められ通信機を落としてしまいました。彼は短剣を私の首に当て、こう脅してきたのです。
「アレクサンドラと別れろ。さもなくば、花姫の霊石を封じるぞ」
……私だって、『大切な人と別れる』なんて手段を選びたくなかった。でも、一度あの男に苦しめられたせいもあり、声が出なかったんです。そこでジャックは付け加えました。
「“無理”──か。ふっ……ならば殺せ。純真な花など、開花せねば魔法一つ操れない弱小の魔術戦隊だ。断る分には構わん。“シーヴ少女監禁事件”の真似事をすれば良いだけだからな」
長生きされる皆さんでしたら、事件の内容をご存知のはずです。シーヴで暮らしていた少女は見知らぬ男に連れ去られ、劣悪な環境で永遠のような時を過ごしました。想い人に会うための五感も手足も奪われた被害者の存在は、とても他人事とは思えませんの。
悔しかったわ。我が身可愛さの余り、私の口からは最低な言葉が出てきましたもの……。
「……そこまで仰るなら、あの人と別れますわ。だから、花姫たちの霊石を封印しないで。私をこれ以上、傷めつけないで……!」
「良い返事だ。これで、俺と貴様はもう一度やり直せる。……だが、忘れるな。貴様には俺の目があるという事を」
それからジャックは私を解放し、部屋を去りました。ですが、そんな状況下でアレックスさんと向き合う勇気なんて無くて、思わず抜け出してしまったんです。
判っていました。花姫の皆さんも、マスターも、アレックスさんも……誰もが、私を気に掛けてくださった事に……。ずっとずっと部屋に閉じこもって、気が狂いそうでしたわ! 向日葵畑の写真だって燃やしたはずなのに、何度も思い出してしまうのですから……。
「……そういう、事だったのかよ……」
俺がエレと話し終えた頃、発信信号に乱れが生じていた。だけど、その裏でこんな酷ぇ事が起きてるなんて予想できるかよ!?
ああ、畜生! ジャックのクソっぷりと己の非力さで苛立ちが収まらねえ!! そもそも俺が彼女の傍にいれば、こんな事にゃならんかったのによ!!
「なんであいつは……いっつも俺らの邪魔をすんだよ!!」
「よせアレク! まだシェリーは話し終わって──」
「落ち着いてられっかよ!! お前には……判んねえくせに……」
どんなに壁を殴ろうと、どんなに友に宥められようと……目頭が言う事聞いてくれちゃいねえ……。ああ知ってる、こんな事したって何にも解決しねえってさ。
だけど、何もかもが手遅れだ。
友だったヤツは、こんな言葉を残して風のように消えちまうのだから。
「……あんたに言われるの、一番萎えるんだよね。もういいや」
俺のバカ野郎……ずっと支えてくれたヤツを引き留める勇気すら無えなんてな……。
街中の氷は全て解けたはずなのに、心は凍てついたままだ。
激情は嘘のように消え、拳に痛みがじんわりと広がっていく。そんな俺の肩に手を添えたのは友でも恋人でもなく、剣筋の良い好敵手だった。
「今は彼女さんの言葉を聞いてやりな」
「……ああ」
何故ジェイミーにあんな事を言っちまったのか。自責の念が募る一方だが、時間が惜しいのも事実だ。
シェリーの方に向き直ると、ヒイラギが代弁するように続きを求める。
「で、あんたはリタ平原でヴァンツォを撃った──と。どういう流れで此処で捕まったんだ?」
「それが……」
俺がシェリーに撃たれた後、ジャックが現れてこんなやり取りをしたようだ。
「これで、良いんでしょう?」
「何だその口振りは」
「霊石を封印しないって約束なんでしょう!? 『そうだ』って答えてよ!」
「まず、貴様を黙らせるところからだな」
俺は意識を失ってたから気が付かなかったが、ジャックは俺たちの会話を終始盗聴していたらしい。
『これで寄りを戻せる』と息巻いていたジャックは、シェリーの反発的な態度に逆上。魔術で一時的に眠らされ、アリアが占拠するアングレス領家へと連れて行かれたようだ。
「この女が……!!」
「こいつは俺の女だ。貴様の力で頭を冷やしてやれ」
「……承知いたしました」
「私に何する気ですの!? 離してったら!!!」
「──それから私は枷を嵌められ、身体を凍らされました。アレックスさん達が助けに来て頂くまでの間も意識を失っていましたから、花姫たちの安否は判らなくて……」
「マリア達は無事だ。それに、俺も胸の傷はとうに回復してる」
左胸に手を当て、既に無傷である事をシェリーに報せる。彼女は罪悪感からか俺と目を合わせる事は無いが、此処は『安心してくれている』と思おう。
「そーいやぁシェリーさんよぉ。清の神殿が海底にあるの知ってるよなぁ? でもさっき、オレらであの亀さんを倒しちまったんだよね」
「ど、どうしてですの!?」
「幻獣がジャックに改造されたんだ。そこでもあんたの偽者が湧いたけど、こっちがガニメデって亀を締めたら尻尾巻いて逃げたってわけ」
「だけど、相手は神様だ。俺たちに殴られたぐらいじゃそう簡単に滅ばねえだろう」
ロジャーとヒイラギの説明に誤りは無い。シェリーは俺たちの話を聞くと、意志を固めたように片手を胸に当てた。
「でしたら、私一人で向かいますわ」
「おいおい、さっき苦労を話してくれたばっかじゃねーか! てめぇ一人で行ったら、また蛇に喰われちまうぞ?」
「はあ……」
強がりなシェリーに苛立ちを覚えたのか、ヒイラギが大きな溜息をつく。一方で俺は思う事があって口を開くが、長らく無口だったヴァルカがこんな提案をしてくる。
「ジェイミーは、御主人様との不和により編隊から離脱。このメンバーでガニメデと交渉する事を推奨します」
「いや、俺とシェリーの二人で行こう。少し彼女と話がしたい」
「承知。これ以上の長居は疲労の更なる蓄積を予測。脱出を強く提案します」
「うちもそうしたい。モヤモヤも消えてすっきりしたし」
こうして俺たちはアングレス領家を後にし、ガニメデと戦った西海岸へ向かう。住民たちは既に復興と救出作業に取り掛かっている様子で、壕の避難民たちは俺らを見つけるとすぐに幌馬車を手配してくれた。
──夕暮れ時、海岸沿い。
未だ晴れぬ空の下。俺とシェリーが幌馬車から降りると、冷風が潮の薫りを運んできた。あれだけ荒れていた波も今は穏やかで、カモメたちは仲間同士で言葉を交わす。
俺たちは御者に礼を述べた後、彼は「またお迎えに参ります」と言ってロジャーとヒイラギ・ヴァルカを都の境まで送っていった。
シェリーは青の地平線に身体を向け、祈りを捧げる。潮風によって乱れる髪はいつもながら艶やかな印象を与えるが、どこか心の距離に隔たりを覚えてしまう。
そして彼女は俺の心境を気に留める事無く、海底に棲む清神に願いを述べた。
「我が名はアリス・ミュール。ガニメデ様……どうか、私たちを神殿へお導き下さい」
そう告げてから暫くすると、先程も感じた激しい縦揺れが起こる。遠くの方から住民たちの悲鳴が聞こえてくるが、俺らを責めようとする者は誰一人いなかった。
青緑を基調とする、二段の甲羅。水中から這い上がるガニメデの全身には、もう艤装など存在していない。
青白い頭部を露出するガニメデは、先の戦いを忘れたかのように口角を上げる。それから目を丸くしてクジラのような声を上げるが、俺には彼の言葉が理解できなかった。
「何て言ってんだ?」
「自分を解放してくれた御礼として、導いて下さるそうですわ」
「そうか……なら、早速乗せてもらうか」
長い事シェリーと話をしてたはずなのに、今になって気まずさが込み上がる。緊張を忘れるように俺が先んじて下段の甲羅に腰を下ろすと、彼女も隣に座ってくれた。
こうして座ると、やっぱこの亀のでかさを実感できる。ガニメデがそのまま水中へと潜る事で大きな水飛沫が生じるが、不思議と衣服や髪が濡れる事は無かった。
様々な魚が悠々と泳ぐも、誰も俺たちを気に留めない。神の力を借りて水底に行くなんざ初めてだし、こうして回れるのは新鮮だ。
「すげえな……まるで東の童話だぜ」
「ガニメデ様のお近くに在る限り、私たちは水中でも呼吸できますわ。神殿は今までと比べて小規模ですから、多少離れていてもご加護はございますよ」
……やはり、シェリーは何処か他人行儀だ。せっかく二人きりの状態に持ち込んだのだし、俺から話題を振らねばなるまい。
「さっきの事だが、取り乱してすまなかった」
「ジェイミーさんとは……その……」
「後で俺から謝る。あいつの事はどうでも良いワケじゃねえが、今はお前ときちんと話がしたいんだ」
「よしてください……私から振った事ですわ。『無かった事にして』なんて今更──」
「今さらとか関係ねえ。それにジャックは約束を反故したが、お前は正しい選択を取ったよ」
「でしたら、アレックスさんも同じですわ。もし私の傍にいれば、エレさんの身に何が起きてもおかしくありませんもの」
「……お前、怖かったんだろ。もっと素直になれよ」
「な、何を言ってますの!? 私はいつだって素直に──って、ちょっと……!」
俺はシェリーの腰に腕を回し、華奢な身体を抱き締める。それから彼女の腕へゆっくりと手を滑らせ、甲に口づけを添えた。彼女は細い眉を下げ、今にも潤みそうな瞳でこちらを見つめてくる。
「これであの時の事は白紙だ。写真だってまた撮れば良い」
「…………」
俺と手を重ね、物憂げに目を瞑るシェリー。その唇が開かれる事は決して無いが、皮膚を伝う確かな温もりが答えを意味しているようだ。
俺たちの間に沈黙が流れる一方、幾つもの石柱が奥から見えてくる。シェリーもそれに気づいたようで、慌てて手を振り払い視線を戻した。
「此処がそうか?」
「ええ。……清の神殿も、かつては広かったのですけどね」
無数にそびえ立つ石柱は、天井を支えていた証か。しかし肝心の天井は何処にも無く、半円型の門が随所に存在するのみだ。水位が上がるまでは、他の迷宮のような造りだったのだろう。それに、女神を模った門も見当たらないのだ。魔物の気配どころか魚が住み着いているし、ある意味最も安全なのかもしれない。
しばらく遺跡の中を進むと、シェリーは最奥にある石像を指差す。その石像は女神ウンディーネを彫刻したものであり、胸元には瑠璃色の光を放つオーブが埋め込まれていた。
しかし、ゆらゆらと泳いでいたガニメデは突如停まり、物怖じするように頭部を隠してしまう。
「なあ、ガニメデのヤツどうしたんだ?」
「ウンディーネ様との不仲は有名ですから……。争いごとは苦手ゆえ、魔法も持ち合わせていませんし」
「判らなくもねえ」
最初の出会いと云い、先の接吻と云い、あの女神は常に一方的だもんなぁ。……救出するまで、シェリーの意識が無かったのが幸いだ。
シェリーは軽々と着地した後、先んじて女神像へと歩を進める。俺も後を追うように降り立つが、地上にいるような感覚でスムーズに歩くことができた。
俺は彼女に背を向け、念のため長剣を取り出す。辺りを見回すも、特に異変は無い様子だ。……女神像を前に縮こまるガニメデを除けば。
ふとシェリーの方を向いた時、オーブがちょうど浮遊して彼女の手元に渡るとこだ。淡い光はゆっくりと消え、しばらくシェリーの胸中に留まり続ける。
「何か判ったか?」
「……前世の仲間を思い出しましたの。ソフィーさんは、人魚の血を引く清の花姫でした。月の花姫であるセリーナさんとは仲良しでしたが……」
「その感じだと、嫌な事があったようだな。無理に話さなくて良い」
「ありがとう」
シェリーが振り向き、哀愁を懐きながら微笑む。この笑顔もずっと見てきたはずなのに、久しく感じるのは気のせいだろうか。
もう一度抱き締め、この胸の中で存分に泣かせてやりたい。
「……忘れるな。俺はいつまでもお前を──」
美しい姿に手を伸ばし、片足を踏み入れた刹那。
不気味な感触は音も無く、俺だけをしかと引き留める。
「なっ!?」
「アレックスさん!!?」
その正体を見るべく視線を落とすと──吸盤のついた黒い触手が、俺の全身に絡みついていたのだ。
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