紫煙の香りと、ほろ苦き匂いが入り混じる部屋。ガラスのシャンデリアを吊るしたこの場所は、先生──じゃなくて、ジャックさんの寝室だ。
久しぶりの登校日だったにも関わらず、学校で嫌がらせを受けた私は霊力の暴走を引き起こしてしまう。……プールでの事件も含めてこれで二度目だけど、今度はどんな仕打ちが待っているのでしょう。
ううん、それよりも今はジャックさんの事を考えていたい。意外な形で彼と会った私は、そのまま家に連れて行かれて愛し合う。
行為に誘ったのは私だけど、彼が激しすぎて何も考えられなかった。ずっと掴んでいたせいか、この深紅のシーツがさざ波のように乱れている。本当は拒絶の意なんか全然無いのに、ずっと泣き叫んでたかも……。『うるさい』って思われてないかな?
こういうのは夜に誘うものと判っても、抑え切れなかったものはしょうがない。此処で逃せば、ずっともじもじしちゃいそうだから……。
今ベッドの上にいるのは私だけで、ジャックさんは大きな窓の前に立って一服している。既に黒のスキニーを穿く彼の背は、細身にして十分に鍛え抜かれていた。
疲れ切った身体を何とか起こし、窓を遠望してみる。快晴の下で広がるのは城下町の街並みでは無く、枯れた木々と青朽葉の芝生だけ。城の尖塔が垣間見える辺り、フィオーレまではそう遠くないはずだ。
ジャックさんは私の視線に気付いたのか、振り向きざまに此方を見つめる。例の鋭い眼差しにドキッとしたけど、さっきよりも少し柔和な気がした。
「なんだ」
「フィオーレの中に、こんな綺麗な場所があるんだなぁって」
「俺の庭だからな」
「やはりそうでしたのね」
こんな大きな家も、広い庭も、全部予想通りだ。加えて執事さんを雇っていたとしても、今更驚きはしない……はず。マリアのお城もそうだけど、一度くらいはこういう場所に住んでみたいなぁ。
彼は此方へ戻り、棚の上に置かれた灰皿に紙タバコを押し付ける。それからベッドに潜ると、私の真横で肘枕の姿勢になった。その厚い胸板に私の顔を埋めれば、余った片手で髪を撫でてくれる。場所こそ違えど、病室で添い寝してくれた事をふと思い出した。
……今日は特に甘えたい気分だ。この安らぎに身を任せて、「ジャックさん」と名前を呼んでみる。
「今日起きた出来事を……聞いてくれませんか?」
「断ると思うか」
彼の優しさが、胸に染みる……。これだけでまた泣いてしまうなんて、いつから涙腺が弱くなったのかな……。
「俺に隠し事をするな。気の済むまで泣け」
「……はい」
彼はこんな私を責めずに、囁いてくれる。だから私は枯れた声を何とか振り絞って、全てを打ち明けることにした。
その日の夜、私が家に帰るとお母さんが心配そうに見つめてきた。どうやら学校から停学処分の報せが届いたらしい。お父さんにも経緯を尋ねられたけど、その詳細を明かす事はできなかった。
霊力を制御できなかったこと。
主治医さんと付き合っていること。
それらを話して怒られたら、私の心は崩れてしまうかもしれない。だから、その場しのぎの嘘をついて誤魔化す事にしたの。
もう今日は──いや、しばらくは誰とも話したくない。いま私の全てを見せられるのはジャックさん唯一人。あの暴走を受け入れてくれた以上、彼がいればそれで良かった。
停学期間は約ひと月程。残るラピスの月は家で過ごさなければいけない。……でも、そんなルールを守り抜ける人はごく僅か。 夕方になると私は黒いフードを深く被り、ジャックさんとの逢瀬を繰り返していた。
通達を受けてから一週間ほどが経ったある日。忍ぶように街中を歩いていると、自分と誰かの肩がぶつかった。
「きゃっ!」
甲高い声と共に後ろへ倒れ、尻餅をつく女性。スレンダーな身体にボブカットのブロンズという特徴から、エレさんだと判った。彼女は紙袋を抱えていたようで、果物や野菜があちこちに散らばる。
どうしよう、よりによって知り合いとぶつかるなんて……。でも、『何もしないで逃げる』なんて勇気も無い。だから私は無言で落ちたものを拾い、顔を見られないように手渡した。
「も、もしかして……シェリー様!?」
「っ!!」
なんで判ったの……!? バレないようにしてたはずなのに!
うう、もう知られたら仕方ないよね……。
「エレさん……ぶつかってしまい、申し訳ございません」
「いいえ、気にしないでください。わたくしもきちんと前を見てなかったので」
派手に転んだにも拘わらず、すぐに立ち上がって物を回収し始める。あの身のこなし、もしかして戦闘経験があるのかな。
いや、今は例の遊歩道へ向かおう。少し早いけど、待っていればそのうち来てくれるはず。
「では、私はこれで……」
「待ってください! シェリー様、少しだけお時間を頂けますか?」
ああ、やっぱりそうだよね……。
断る勇気すら無い私は思わず頷き、エレさんの後を着いて行ってしまう──。
彼女が連れて行った場所は、噴水広場から少し離れた所にある公園だ。いつもは子ども達が遊んでいるけど、夕方だからか誰も居ない。二人で白いベンチに腰掛けると、エレさんは無念そうに俯いた。
「わたくしは、これまでの過ちを謝罪しなければなりません。妹があなた様を傷つけた事、そしてわたくしも加担していた事。あの日からお見舞いに行けなかったのは、『彼女らに狙われたくなかったから』なのです。彼女らはわたくしとベレに話し掛けてきますが、その狙いはシェリー様を孤立させる事。ただ、ベレもあなた様を『許せなかった』と云う理由から、自ら加担していたのです」
「……どうして、ベレさんは私を許せなかったんですか?」
「理由まではわからないのです。でも、それについてもあなた様が気に留める必要は無いのです」
「そう、ですか……」
どうして『許せない』んだろう。エレさんがはぐらかしているとは思えないけど、それはそれで胸に突き刺さってしまう……。
でも彼女は顔を上げ、思いもよらぬことを打ち明ける。
その時の眼差しは強かなもので、瞳に涙を浮かべている気がした。
「あの日、あなた様を盗撮したのは……わたくしなのです。お願いです、シェリー様。この愚かなわたくしを、打って頂けませんか?」
……『すぐに許せる』と言えば嘘になる。もしあの盗撮が無ければ、また違う学校生活を送れたかもしれないから。
でも、霊力を制御できなかったのは私の責任だ。そこにベレさんも他の子たちも非は無くて、あの措置は妥当だと思っている。身内を殺したせいで、初恋の人にひどく嫌われた事と比べれば──。
だから私は立ち上がって、彼女に次の言葉を掛ける。その時に足が勝手に動いて、彼女に背を向けていた。
「殴れません。例えあなたを傷つけようと、それはきっと解決策にならないから。……ですが、しばらくは一人でいさせてください」
「……わかりましたです。でも、お話したい時はいつでも頼ってくださいね」
もはや同級生の言葉に応える気力なんて、これっぽっちも無かった。重くなった足取りはそのまま公園を離れ、遊歩道へと向かっていく。
今は頬を叩く冷風すら、とても心地よかった。
エレさんと会った日の夜も、ジャックさんの家で愛し合った。それまでは手料理を振る舞ったりピアノを弾いたりもしたし、お酒だって二年早く飲ませてくれた。彼が用意してくれたワインは百年近く熟成させたもので、言葉にできない程の味わいだった。勢いに任せて押し倒したのに、結局彼の思うままにされちゃって……。
そんな日もあれば、この年の誕生日──二十五のラピス──は彼がディナーに連れて行ってくれた。私のような庶民じゃ一生行けるかわからない場所で、ステーキがとても美味しかったの。ずっと着けていた花柄のピアスも、その日に彼が贈ってくれたもの。
あの人は高級品をたくさん知っているけど、それよりも傍にいてくれる方が嬉しかった。いつも表情を変えないからこそ、ふと見せた笑顔がとても眩しくて……ドキドキしてしまう。いつもは激しい夜も、時には優しかったり……ね。
ガーネットの月末まで学校には行けなかった代わりに、彼との距離が一気に縮んだと思う。
でも──。
この話を聞いたあの子は、とても憂鬱そうだった。
それは二十二のガーネットに遡る。毎年のようにマリアの誕生会に招待された私は、お気に入りであるターコイズのドレスを着て城に向かった。
大広間の中心に立つのは、無論この国のお姫様だ。彼女は乙女色の髪を一つに纏め上げ、扇情的な赤いドレスを身に纏っている。ダイアモンドを散りばめた小さな冠は、光が反射して燦々と煌めく。その隣にいるのは、タキシードを着たルドルフ兄さん。金色の長髪を靡かせる彼は、持ち前の美貌で周囲の女性たちを釘付けにした。
食事を終えてしばらくすると、マリアはルドルフ兄さんと分かれて私をバルコニーに呼び出す。私達はワイングラスを片手に、夜空の下で互いに見つめ合った。
改めて間近で見ると、マリアはしばらく見ないうちに色っぽくなっている。こんなに綺麗だと沢山の人に言い寄られそうだし、ルドルフ兄さんもきっと大変だと思う。
久しぶりに会ったからか、喧騒の中でしんみりとした沈黙が流れる。少し緊張しちゃうけど、思い切って私から話し掛けてみた。
「マリア、雰囲気変わったよね」
「そう?」
「うん。とても大人っぽくなってる」
「もう、誰かに甘えてはいられないからね……」
私から顔を逸らし、景色を一望するマリア。はきはきとした声音からは、幼い頃の弱気さが感じられない。むしろ堂々とした振る舞いだ。
そんな彼女は此方に向き直り、「それはそうと」と話題を変えてきた。
「最近、全然会ってくれないじゃない。……もしかして、あたしが嫌になったの?」
「ううん、違うの。その……」
どうしよう。話すべき、かな……。でも、マリアが今も私を本気で想っているなら、打ち明けるべきかもしれない。
私は息を大きく吸って、彼女の瞳から逸らさず話した。
「好きな人ができたの」
──その時のことを、今でも憶えている。
マリアは大きな目を見開かせ、細やかな手からワイングラスが滑り落ちる。
濁りのない薄緑の液がグラスの口から零れ、彼女の足元に飛び散る。
そしてグラスは硬い床に叩きつけられ──
粉々に砕け散った。
それは、幼馴染の心が打ち砕かれた刹那の比喩かもしれない。
ガラスの割れた音は静寂を──否、混乱を呼び寄せた。
『な、何事だ!?』
『まさか……事件!?』
「姫様! お嬢様!」
張りのある女声が広間から響く。
颯爽と駆けつけたのは、給仕姿のアイリーンさんだった。
「あ、アイリーン! 別に、事件でも何でもないの!」
マリアはようやく我に返ったのか、慌ててアイリーンさんに説明する。同時に現れたのは、緑色に光る黒髪のメイド。彼女の手には既に箒と塵取りがあり、粛々と後片付けに移った。
駆けつけてきたのは彼女らのみならず──
「マリアッ!」
ルドルフ兄さんもだ。彼はマリアの元へ駆けつけると、ハンカチを取り出して片膝をつく。そのままドレスの裾を拭こうとするのだけど、マリアは「結構よ」と冷淡に言い放った。
「まさか、彼女がまた……」
「シェリーは何も悪くないわ。こっちの事は気にしなくて良いから、さっさと戻って頂戴」
「……すまない。また後で」
マリアの言葉の端々から、苛立ちが感じられる。ルドルフ兄さんは彼女の前だと穏やかに振る舞うけど、やはり私への視線は憎悪そのものだ。そう、御令妹を喪ったあの日と全く同じ。
『いつまでも“化け物”と呼ぶ男に媚びるつもりか?』
確かに、ジャックさんの言う通りではあるけど……マリアと関わる以上、必然的にこんな扱いを受けなくてはいけない。
慣れるわけが、ない。
だからって、マリアと袂を分かつわけにもいかない。
「……気にしちゃダメよ。あたしは、いつでもあなたの味方だから」
その言葉に喜ぶべきなのに。
私の肩に載せる温もりを、感じるべきなのに。
私は──全ての事から逃げるように目を瞑り、黙って頷くしかなかった。
(第九節へ)
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