この日は、城の訓練場でいつものように鍛練をしてから帰るつもりだった。しかし廊下を歩いていると、バイオリンの美しい音色が鼓膜を震わせる。この音は、ティータイムでよく使う裏庭からだろう。一旦エントランスを抜け、荘厳な石造の裏側に回り込む。
まだ春――エメラルドの月初頭ということもあって、裏庭のバラ園は赤や黄色・桃色と美しく魅せていた。中には幻とされる青色もあるが、これは魔術によるものだろうか?
数歩先には優雅に弓を弾くマリアがいるが、なるべく音を立てずに向かおう。周りには誰もいない。バラだらけの庭で悠然と佇む姿は、まさに女王そのものだ。
ちょうど一曲が終わり、顔から静かに弓を離す。
そして幸か不幸か、俺と目が合った。
「いつからそこにいたの?」
「見惚れて悪いか?」
「見世物じゃないのよ」
「はいはい」
なんだよ、つまんなさそうな顔しやがって……。マリアはバイオリンを革製のケースに入れて去ろうとするが、衝動でこう吐き捨ててやった。
「お前ってさ、黙ってれば美人だよな」
「何とでも言いなさい」
はあ、こんなヤツが花姫なんてな。ずっと此処にいても虚しいだけだし、もう家に帰ろう。
複雑な気持ちで家に着いたあと、リビングのソファーに座って通信機を開く。そこで俺は液晶の中で文字盤を起こし、指先を素早く滑らせた。
<マリアちゃん、バイオリンすっげえ上手いのに睨まれちまったぜ。俺、何かしたか……?>
このメッセージの宛先は、ほかならぬシェリーだ。すると既読の印が速く点き、短めなメッセージが届く。しかしその返信内容は、決して俺の期待に添えたものではなかった。
<いいえ。>
真っ先に浮かんだ言葉は、“淡白”だ。この通信機は相手が打鍵すると『入力中』と小さく表示されるのだが、フォローする気配もない。
少し前に送ったときは、もっと丁寧な印象だったのに……。普段はこういうヤツかもしれないと思うと、ちょっと寂しい。
まあ、いいか。気を紛らすために、剣の手入れでもしてよう。
俺は棚から瓶と布切れを取り出し、作業を始めた。小さな布に油を染み込ませ、大剣の刃に丁寧に塗る。それから乾いた布で拭くと艶が増した。この作業を長剣でも行うのだが――。
通信機が短く震える。エレか? 他の女性たちが特に用も無いのに連絡をよこすとは思えない。まあ、今は手が汚れているのでひと段落したら。
<明後日はマリアとお茶しようと思いますが、アレックスさんもご一緒にどうですか?>
差出人はシェリーからだ。さっきは冷気のこもった文っぽかったのに、この文からはなんとなく彼女らしさが伝わってくる。どっちが本当の彼女なのだろう。勿論、この貴重な誘いを『断る』なんて選択肢はないけどさ。
<ありがとう。喜んで向かうよ>
躍る親指に答えを委ねたあと、端末をテーブルの上に静かに置く。高まる気分を抑えつつ、長剣の手入れを再開した。
普段は自炊だが、今晩は何となくピザを食べたい気分だった。この小さな建物は以前シェリーが紹介してくれた店で、(ピザの)耳の中までチーズが詰まっているという。窓から光が漏れているものの、薄暗いせいでどんな外観かはわからない。
玄関に辿り着いて入店しようとしたとき。ある人物とぶつかりそうになった。
「おおっと」
「悪い……って、ジェイミーじゃねえか。まさかこんなところで出会うとはな」
「ま、此処で会ったのも何かの縁って言うじゃん? 良かったら一緒に食おうぜ。そっちの進捗を聞かせてよ」
「良いぜ」
ジェイミーの誘いに流されて(まんざらでもないが)、俺はドアを開けてやった。彼が「どうも」と軽く会釈した後、賑やかな空間に踏み入れる。
そこはたったの六席で構成されている店だった。木材の壁とペンダントランプが、村にいるような安心感をもたらす。丸テーブルにはどれもチェック柄のテーブルクロスが敷かれてあり、良識を持つ魔物や獣人たちが楽しそうにピザを頬張っていた。
俺たちはウェイターである猫の獣人に案内され、赤い柄のテーブルに座る。それからウェイターに注文を頼んだあと、向かいに座るジェイミーが食い気味に尋ねてきた。
「ねえ、最近上手くいってるの?」
「わからん。お話できるっちゃできるし、ついさっき遊びに誘われた。……けど、どこか冷たい感じがするんだよな」
「うーーーん。それ、照れ隠しじゃね?」
「ああ、そうか! ……って思えたら良いんだがねぇ」
安心を求めるように、自分の身体を背板に預ける。
「ま、焦ったら失敗するからゆっくりね」
「そうだな」
「ちなみにさ、その彼氏って誰なの?」
「……ジャックだ」
「!!!」
ジェイミーの瞳孔が開く。喧騒が温もりをもたらす中、俺たちの空間だけが瞬時で凍り付いた。こいつ、ジャックと何かあったのか?
問おうか迷っていると、この空気に不釣り合いな肉球が香ばしい匂いと共に近づいてきた。
「あ……その、なんでもねえんだ! ちょうど来たし、食おうぜ!」
「えっ、ああ……」
明らかに誤魔化しているのがわかるが、言いたくない事情でもあるのだろう。
それはさておき、テーブルには二枚のピザが並んだわけだ。キツネ色のそれはいずれも一人分で、耳の部分が異様に膨らんでいる。俺が頼んだのは、トマトソース一面にチーズと葉を載せたもの。ジェイミーのほうは、チーズの上でトマトやオリーブの切り身が散らばっていた。切れ込みは既にある。まずは前者を持ち上げ、食べやすいように織り込んだ。
早速かじってみると……チーズが糸を引いた。その柔らかな生地を噛めば噛むほど、小麦の味が口の中を満たしていく。トマトソースの酸味も丁度いい。こんなピザを食ったのは初めてだ。
そうして一切れ目の終わり際へ辿り着く。いよいよ噂の耳を噛み砕くと、ドロッとした食感が一気に押し寄せてきた。これは……やみつきになりそうだ。ずっと噛んでいたいし、喉に通すのが惜しいとさえ思える。ジェイミーも、さっきの動揺が嘘のように上機嫌だ。
「ここのピザ、すっげえ好きなんだよ! あんたはどうやって此処を知ったの?」
「例の彼女が紹介してくれたんだ。次一緒に出掛けるときはまた寄るよ」
「さっき言ってた『遊び』?」
「それとは違う」
俺が首を横に振ると、彼は軽く笑ってからかってきた。
「……やっぱ照れ隠しじゃん」
「ごちそうさま。他人の奢りで食うピザは格別だねー」
「今回だけだぞ」
食事を終え、ピザ屋を後にする俺ら。美味い飯を食ったおかげで朗らかな空気が流れる。
だが俺が戻ろうとしたとき、彼の視線が此方を向いているのがわかった。その目つきは『ジャック』という単語を聞いたときに似ている。
「シェリーのこと、あいつからぶん取りな」
真剣な声音が空気を変えるも、唖然とする俺を気に掛けることなくそのまま去るのだった――。
……いったいどうしたと言うんだ。
〜§〜
茶会当日のバラ園。マリアとシェリー、俺の三人で紅茶とティースタンドに手を伸ばしていた。これらを提供してくれたアイリーンは、丸トレーを持ったまま側面で佇んでいる。
「せっかくだから、あなたを混ぜてやらないことはないわ」
左側に座るマリアは相変わらず偉そうに言うが、どこか嬉しそうだ。
その時、右側のシェリーが俺に近寄って耳打ちする。
「演奏を聴いてくれたお礼に、だそうですよ」
なんだよ、素直にそう言えばいいのに。
「お前のバイオリン、また聴かせてくれよ」
「何のことだかさっぱり」
わざと言い放っても、マリアが平静を装って紅茶を飲む。
まだ湯気が立っている。そのうちにティーカップを持ち上げ口に含むと、桃の味が口の中で広がっていく。へプケンでもピーチティーを飲んだことはあるが、そこのとは違う味わいだ。王室御用達といったところで、優しい舌ざわりが俺の心を癒す。
「あとであなたに茶葉を贈ってあげる。ありがたく受け取りなさい」
「私からも茶菓子をお渡ししますね。先日の御礼です」
「ありがとう。楽しみにさせてもらうよ」
まったく、二人の女神からプレゼントをもらえるなんて光栄なことだ。その辺の野郎にこんな話をしたら、間違いなく刺されるだろう。
俺は彼女らに笑顔を見せたあと、マリアに話題を振ってみた。
「ところで、いつからバイオリンを始めたんだ?」
「三歳からよ。確か、シェリーもそれぐらいからピアノを始めたのよね?」
「うん! 初めてセッションしたときが懐かしいねー」
シェリーの幸せそうな笑顔は、ランヘルでも見たことのない表情だ。いつか、俺にも直接……。
それにしてもセッションか。マリアの演奏に心打たれたんだ。シェリーも加われば感動が増すに違いない。加えて目の保養にもなるし、つい期待しちまうぜ。
しかし、マリアは俺の想像を察知するようにキッと睨んできた。
「何か変なこと考えてない?」
「んなわけねえだろ。お前だってシェリーに色々ちょっかい出してるんだろ?」
「なっ!?」
「おっ、図星か?」
「もう! せっかくのお茶会なのにどうしてこんな話になるんですか……」
「まあ、何もかもこの男が原因だし」
「ふふ、楽しそうで何よりですね……」
「おい、アイリーンちゃん! 人を見て笑うなって!」
一見優雅なお茶会は、女王のせいで妙な空間のまま時が過ぎていく――。
あ、あたしのせいなの!?
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