「ご無沙汰しております、お嬢様。夜分遅くのご訪問で恐れ入りますが、今すぐ馬車にお乗り頂けますでしょうか」
二十四のラピスラズリ──八歳になる直前の、冬の夜。霊力の暴走を機にマリアと疎遠になっていたけど、アイリーンさんが突如私の家を訪れた。深刻な表情で私を見つめる彼女。碧眼が注ぐ強い眼差しから、『断ってはいけない』と悟る。
「はい……行きます」
もう人との接し方を忘れてしまったせいで、この頃には(両親以外の相手に対し)敬語が口癖になっていた。私が首を縦に振ると、アイリーンさんは「感謝致します」と淡々と礼を述べた。
両親からの承諾を得たあと、リビングにあるコートスタンドから自分の上着を取る。土色のコートに袖を通し、トグルボタンを全て掛けてから外に出た。
寒気に包まれた矢先、ストーブに慣れた身体が震えだす。降り注ぐ白い粉はコートに付着するも、繊維の中にすぐ溶けていった。
「さあ、こちらへ」
アイリーンさんが慣れた手付きで手を差し伸べる。急速にかじかんだ手を添えると、黒のコットンに包まれた手が優しく握りしめてくれた。
一軒家の玄関に停まる一輪の馬車。半円で小さな客車の表面は黒いけど、扉部分はワインのように紅い。天辺の荷台に積もった若干の雪が、家にたどり着くまでの経過を物語る。アイリーンさんと一緒に客車の前に着くと、彼女は丁寧に扉を開けてくれた。
この高級皮革のソファーにはもう乗り慣れているけど、初めて乗った頃とは違う緊張感が漂う。アイリーンさんが私の向かいに座って扉を閉めると、御者が発進の号令を掛けた。
緩やかに横切る景色は、何処もかしこも精霊祭前夜で賑わっている。精霊を盛大に祀る催しは、ちょうど私の誕生日とその前夜に行われる。去年までならマリアや両親と一緒に過ごしていたけれど、今年はそんな気になれない。
特に城下町は、先月末──すなわち、トパーズの月末──からお祭りムードだ。夜になれば街灯や建物は黄金の輝きを放ち、恋人たちや家族が楽しそうに街中を歩き出す。前夜である今日はいつもより人が多く、ワゴンを介して御馳走を振る舞う店舗も散見された。無論、隙間風がローストチキンの香りを運んでも、食欲が湧くことは無い。これ以上見ても無駄と判断した私は、向かいのアイリーンさんに目線を移した。
「姫様……どうして、あのような真似を……」
彼女は今、顔を下に向けて両手を握り締めている。唇を噛む様子からは、マリアの役に立てない悔しさが伝わってきた。
「何かあったんですか……?」
「……詳細を、申し上げかねます。それが姫様の命ですから」
……声が震えていたのは、決して気の所為なんかじゃない。彼女の目からは涙が零れている。マリアが私に話せない事をするなんて余程の事だ。彼女は癖毛に落ちた雪を気に留める事なく、嗚咽を漏らし始めた。
「アイリーンさん」
私がポケットからハンカチを取り出すと、彼女が顔を上げる。ハンカチを受け取る手は小刻みに震えていて、『握りたい』という衝動に駆られた。
「見苦しいところをお見せしてしまい、申し訳ありません。本来でしたら、自分がお嬢様や姫様を──」
「ううん、気にしないで。お姉さんも、辛かったんでしょ?」
「──!」
きょうだいがいない私にとって、アイリーンさんはもはや姉のような存在だ。もし私の事がどうでも良ければ、夜に『馬車に乗って』なんて頼むはずが無いんだから。
彼女は息を呑んだ直後、私の身体を強く抱き締めて号泣した。
「……っ……あぁぁああぁぁあああ!!!!」
目の前にいるのは、冷徹で物知りなメイドさんではない。一人の女の子だ。十五歳と云う成人の歳を迎えた彼女が、幼き頃に戻ったような瞬間でもある。
そしてアイリーンさんは、涙に身を任せて声を荒げた。
「自分が彼を引っ叩いていればっ! お嬢様も姫様もずっと一人で過ごす事が無かったのに!! もっと自分がしっかりしていれば、姫様があんなモノに手を出す事は無かったのに!! 御仕えする事がこんなにも辛いなんて、聞いてないわよぉぉお!!!」
悲痛の、叫び。
マリアに何があったのかは判らない。でも、彼女の涙は私の涙腺を刺激し、決壊した貯水槽のように溢れさせた。
今日が私の誕生日前夜であることも、精霊祭前夜であることもどうだっていい。
ただ義姉に寄り添えれば、それで良かったの──。
城に着くまでの時間はとても長く感じた。雪に包まれた尖塔の群れは幻想的な印象を与える一方、マリアの心境を象徴しているようにも見える。
彼女の心も、あの城のように凍てついているのではないか。アイリーンさんが扉を開けた瞬間、歩調が速まって先んじてマリアの部屋へと突き進む。
奥まで続く深紅の絨毯に、白の足跡を残していく。私が来たという証を刻むかのように。今ですら広いと思える城内がより広く感じるのだ。等間隔のシャンデリアは全体を照らしてくれるけど、あの子の闇までは照らしてくれない。すれ違うお手伝いさんもアイリーンさんも、前を歩く私を止めようとしなかった。
しばらく歩けば、螺旋階段が見えてくる。花模様の手すりを滑り台にした事は何度あっただろう。偶然居合わせた女王陛下からお叱りを受けた記憶も、今では懐かしく思える。彼女の部屋へ続く階段は、こんなにも長かったでしょうか。城内で走ることを許されない私の中で、焦りと苛立ちが募っていく一方だ。
「はぁ……やっと……」
いつもはこれぐらいで息切れしないのに、この日ばかりは呼吸が乱れやすかった。知らぬ間に全速力で動いていたらしい。
さて、私とアイリーンさんはようやく部屋の前に辿り着いた。薔薇模様を刻む巨大な扉の前に着くと、両脇に立つメイドさんはすぐさま開けてくれる。踏み込んだ先は華やかで広い部屋だったけど──物々しい空気だった。
天蓋付きベッドの隣にある棚は、今日も私とのツーショットが飾られている。金で装飾した写真立ての隣には、私にそっくりの人形──これもマリアがメイドさんに作ってもらった物──が置いてあった。
「姫様、お嬢様をお連れしました!」
隣に立つアイリーンさんは、仰向けで目を瞑るマリアに向かって声を張り上げる。白の毛布に包むマリアは徐々に瞼を開けて私と目が合うと、勢いよく上体を起こした。
「お姉様! 『呼ばないで』ってお願いしたのに、なんで……!?」
「……ごめんなさい。こればかりは、貴女の言葉に従えなかった」
「じゃあ、さっきの事もシェリーに……」
「それは『貴女の口から話すべき』と思ったから、伝えていないわ。……では二人共、自分はこれで──」
「待って」
背を向けるアイリーンに対し、私は反射的に引き留めた。
「マリアに何があったかは聞かないけど、今日はお姉さんも一緒にいてください。お姉さんもマリアも、私のお友達だから」
「お嬢様……」
私の不安が杞憂かのように、マリアが颯爽とベッドから飛び降りる。それから彼女が私とアイリーンさんの手を掴むと、優しい笑みを浮かべた。
「あたしは、大丈夫。だから……今日は、三人で此処で過ごそ?」
「……姫様がそう仰るなら、仕方ないわね」
アイリーンさんもマリアにつられて綻ぶ。二人の笑顔はとても素敵だけど、彼女らの頬には涙の跡がはっきりと残っていた。でもそれは私も同じこと。……この際だから、彼女に今までの無礼を謝ろう。
「マリア」
「どうした、の?」
「今までお返事書いてなくて……ごめんね」
「……気にしないで。シェリーが、元気でいてくれればそれで良いから」
どうして彼女はこんなにも真っ直ぐなんだろう。私が霞む程に眩しくて、自分が惨めに思えてくる。
少しのあいだ手を握っていると、アイリーンさんはやんわりとマリアから離れてソファー……の近くにあるテーブルへと向かう。ガラスの卓上に置かれた空の小瓶を手に取り、懐にしまっているようだ。
でも、それが何なのかは今も判らずにいた──。
私とマリア・アイリーンさんの三人はソファーに腰掛け、アップルティーを飲みながらお喋りをした。時刻はちょうど零時を回った頃。誰もが年季の入った掛け時計を見つめ、私の誕生日について口にする。
「お誕生日おめでとうござます、お嬢様」
「シェリー、お誕生日おめでとう。一足早く、八歳になるのね」
「ありがとう、二人とも」
テーブルの上にあるのは紅茶だけで、ケーキやサンドイッチといった御馳走も、プレゼントも置かれていない。
それでも嬉しかった。だって、私の誕生日プレゼントは傍にいてくれる二人なのだから。
「昼頃にケーキを焼きましょう。姫様、プレゼントを忘れないようにね」
「わかってるわ」
「えっ、あるの!? どんなどんな?」
「それは……後のお楽しみ」
「はーい」
「今日はもう遅いから、二人共そろそろ寝なさい。それじゃあ、またね」
「「おやすみなさい」」
アイリーンさんがティーセットを取り下げて部屋を後にすると、マリアがベッドに駆け寄る。彼女はベッドの上にちょこんと座ってから両足をぶらつかせた。
「早く、はやく」
「うん!」
私の方を向いて手招きするマリア。私も彼女の隣に座ると、『これでもか』と強く抱き締めてきた。石鹸と薔薇の混じった香りが彼女から漂うおかげで、心が溶けそうになる……。
「シェリー、やっぱり良い匂い」
「君もね。ところで、最近ルドルフ兄さんと会ってるの?」
「あんなヤツ、もう会いたくない……。でも、パパとママが決めた事だから……」
「……聞いちゃってごめんね。じゃ、明日も一緒に遊ぼ?」
マリアが私に抱きついたまま頷く。もう私にはあの頃のような羨望なんて無くて、むしろ彼女への同情が募った。
彼女が「寝よう」と声を掛けてきたので、一緒に毛布の中に身体を埋める。
でも、悪夢は突如訪れた。
脇腹の中で何かが蠢くような、不気味な感覚。
激痛に耐えられない私はシーツを掴んで苦鳴を上げるしか無かった。
「いっ……痛い……いたい……っ!!」
「シェリー! どうしたの!?」
マリアが私を気に掛けてくれるけど、視界が滲んでロクに見えない。
わかっていた。右の脇腹には、清竜に噛まれた痕がある事を。でも事件があった五ヶ月前、その事を誰にも話せなかった。私の身体よりも、ルーシェが亡くなった事の方が大事だから。
勿論、この時に至るまでも秘密のまま。両親と温泉に行けなかった理由のもう一つは──肌に残ってしまった紋章の存在なんだ。
赤黒く残る棘のような形──それは、清の邪神アイヴィによる接吻の痕だった。そのようなモノを誰かに見せれば、住む場所すら失うかもしれない。両親もマリアもアイリーンさんも、みんな大好きだから話せずにいた。
「待ってて! 今からお医者さん呼ぶから!」
「それは、やめて! 皆に嫌われちゃう……!」
「え……っ!?」
「お願い、だから……誰も、呼ばないでっ!」
「いや……シェリーが辛いままだなんて……嫌よ……」
苦しいけど、耐えるしかなかった。
痛みが治まるまで、我慢するしかなかった。
此処で私の霊力を使ったら、どうなる……?
ううん。これぐらいで『危ない』って思ったら──
「うあぁぁあああ!!!」
大丈夫……必ず、痛みが消える……!
だから早く鎮まって! 誰かが、来る前に!
「…………はぁ……はぁ……」
まるで望みが叶ったかのように、その痛みはピタリと止まった。異物感は拭えないけれど、痛みが引いただけマシだ。私は乱れた呼吸を整えるために深呼吸をする。
「落ち着いた、の……?」
「うん……。もう、大丈夫だから……」
「良かった……」
その日の昼、私はマリアらと一緒に誕生会を楽しんだ。夕方は家まで送ってもらった後、家族とも有意義な時間を過ごせた。
……でも、傷跡も痛みも一人で向き合わなければいけない。
毎日鏡を見ても痕が消えるどころか、痛む頻度が増えていく一方だ。時に両親にバレそうになったけど、鎮痛剤を飲んで凌いできた。
マリアとはよく会っていたけど、流石に学校までは一緒じゃない。教室に向かうまでがとても憂鬱なのに、何事も無いように見せなきゃいけない。もし彼女も普通の学生だったら、間違いなく楽しい日々を送れたでしょう。
虚勢を張り続けてから五年後の事。
私の人生がまた大きく変わろうとしていた。
(第四節へ)
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