もし平穏と愛の何れかを選ぶなら──悪魔騎士は愛を採るだろう。しかし、本来の彼にとってその選択は苦痛を伴うものである。
翌日の午前七時ごろ。俺はシェリーを追うべく、単独でメルキュール迷宮へと飛び立つ。そこは清神ウンディーネが宿る場所のはずだが、前回のヴェステル同様銀月軍団に乗っ取られたのかもな。
メルキュールは、城下町から少し離れた先にある丘“マリーニ”の近くに位置する。あまり魔物が寄り付かない事から観光地とされているが、流石にこの状況下で足を運ぶヤツはいまい。
目的地に辿り着くと、その迷宮はやや広い沼の先に在った。本来は石材のタイルが敷かれていたのだろうか。その痕跡を物語るように大きな破片が沼の上に点在。橋が見当たらないため、タイルとタイルの間を跳んで移動しなければならないだろう。
幸い翼を持つ俺は、そのような手間を掛けずに移動できる。辺りを見回し、魔物が居ないことを今一度確認すると、迷宮の入り口付近まで飛行した。
いま俺の眼前にあるのは、浅葱鼠色の石で造られた横長の建物だ。扉のない入口からは冷風が流れ込む。
早速中に入ってみると、寒色の石材によって青々とした空間が広がった。両脇に設置された石柱は奥まで続いており、天井と床を支える部分には波の模りがある。所々で亀裂が走る壁は、触れただけで崩れてしまいそうだ。また、既に穴が開いた箇所もあり、そこから漏れる光が灯りの代わりとなる。
ここ数日は湿気が肌に張り付いていたせいか、この冷えた乾風が心地良い。まあ一応の避暑地としては申し分ないだろうが、迷宮である以上あまり長居したくない。
入口から数歩進んでみると、遠くで女性のような人影が右に曲がったのが見えた。長い髪を揺らしたあいつは、もしかしてシェリーか?
しかし、神は俺がそのまま追うことを赦さないようだ。
左手から現れた一頭の海山羊が、道を阻むように睨みつける。
山羊のような頭と、魚のような下半身を持つ魔物。
尾を上げるのと同時に、地面から波を召喚しだした!
「ふっ!」
俺は咄嗟に長剣を取り出し、剣身で波を遮断。海山羊が僅かに硬直する瞬間、距離を詰めて剣を振り下ろす!
──ズバァッ。
山羊の頭がずるりと落ち、赤黒い断面が露となる。身体を浮かせていたその魔物はあっさりと落下。身体が地面に叩きつけられると、大きな血溜まりを広げて鉄の臭いを充満させた。
……まだ魔物がいそうだな。
漆黒の粒子が、前方と後方でそれぞれ二体ずつ形成。姿を表したのはセイレーンだ。手の部分に翼を生やし、裸で飛行する女どもが俺を囲む。一瞬『どうしたものか』と躊躇したが、ダメ元である事を実行してみる。
彼女らが一斉に口を開き、喉を震わそうとする刹那。
俺は右手前のヤツに向かって長剣を投げ放ち──左手でマグナムを構える。頼りない感触だが、構わず左後方に向かってトリガーを引いた。
──ズシュ、ドォォン!!
右手前から肉の裂ける音が、左後方からは風穴の開く音が同時に聞こえてきた。もはやここまでの動作で一秒も無いだろう。
残りのセイレーンたちは、驚く余り何もできないようだ。俺はそのままマグナムを両手で構え、各々の頭を確実に撃ち抜く。
何故俺が頭部を狙う事にこだわったのか。それは、『こいつらの歌声は地を揺るがす』と云っても過言ではないからだ。囲まれた時は流石にヒヤッとしたが、銃を貸してもらって正解だった。静寂が戻ると、セイレーンの顔に突き刺さった長剣をただちに引き抜く。
さて、シェリーは右の角に曲がってたな。また魔物が現れないうちに移動しねえと。
俺は速歩きで曲がった後、目を瞑って気配を確かめてみる。……けど、さっきの包囲網で見失っちまったようだ。
「くそ……」
辿り着いた光景を見て、思わず毒づいてしまう。迷宮というだけあって、途端に道が枝分かれし出したからだ。
これじゃあ、あいつが何処に行ったかわからねえだろ。仮に魔物を倒したとしても、銀月軍団が生み出した魔物なら跡形も無く消えてしまう。
騎士たるもの、そんな焦燥を抑えつつ道なりに歩いてみる。その時、嗅覚はある匂いを逃さなかった。
初めて会った時に嗅いだ、甘い花の香り。それは微々たるものにせよ、今の俺にとっては大きな証拠だ。
残り香が漂う方へ進んでみると、小さな部屋に辿り着く。しかし、中央には粘性の強い焦げ茶の液が広がっているだけだ。おそらく酸でミメーシスを溶かし、何らかの必需品を拾ったのかもしれない。
証拠が徐々に薄れていく。本当に掻き消えるまでに見つけねえと──
「きゃぁああ!!!!」
って、思った矢先にあいつの悲鳴かよ! ああ、『やっぱり一人じゃ心許ねえ』って思ったんだよな!
声が聞こえたのは南の方からだ。長年の経験を頼りに角を次々と曲がり、湧きそうな魔物を片っ端から撃ち落とす。幻影の魔物に骸骨と、幸い在り来たりの奴らばかりで何よりだ。
直感に身を任せて辿り着いた場所は小広間だ。蒼い髪をなびかせた後ろ姿は、間違いなくシェリーである。彼女はただ立ち尽くしているのではなく──縛られているのだ。四肢と首に括り付けられた白銀の細い紐は、もしや……。
──キヒヒヒヒ……。
屍のような青白の肌に、血のように赤い鼻と唇──その醜悪な顔を持つ男は、間違いなく蜘蛛男だ。道化師のような身体の左右には長い脚が各四本組み込まれている。黄色と黒の縞模様はタランチュラのようで、ひと目見ただけで嫌悪感をもたらした。
「う……がぁ……っ」
肝心のシェリーは首を締められて苦しそうだ。一方で、蜘蛛は彼女の前に立ったまま微動だにしない。
『シェリーが身を投げ出さないよう見張ってちょうだい。ただし、人質がいる以上バレないようにね』
マリア。あの時も話したが、最後の約束は守れねえようだ。
俺は柱の後ろにまわり、背負っていたライフルを取り出す。それから静かに構えると、小さな照準に目を凝らした。
照準の中央には、不気味な男の頭部が収まっている。僅かに震える指先を抑えるべく、息を殺し、今一度敵を見据える。
そして引鉄を引いたとき──
鼓膜を破る程の銃声が鳴り響き、
蜘蛛男の顔半分が砕け散る。
ヤツが後ろへ倒れる間、俺は長剣に持ち替えてシェリーに接近。
彼女に当たらぬよう、しかし素早く糸だけを切り裂いた。解放された彼女は前屈し、激しく咳き込む。気になるところだが、今は蜘蛛の撃破に集中だ。
蜘蛛男が再び起き上がる。顔の右半分が大きく欠けても、ヤツにとって致命傷には至らなかったようだ。
──ガァァァアァアァ!!!
道化師の大きな口が開かれ、牙が垣間見える。左右の脚から放たれた糸は蜘蛛の巣を形成し、俺に迫ろうとする。
「……それがどうした?」
左手で再びマグナムを構え、中央に向けて発射。銃弾は巣を裂き、縞模様のタキシードを紅く染め上げる。
身体に開いた穴から湧き出したのは、大量の子蜘蛛だ。
小走りで俺たちに迫る中、背後から連なる銃声が聞こえてきた。
光の連弾が蜘蛛を貫くと、小さな体が次々とひっくり返る。俺はその身体を踏みつけつつ、魔物本体へと距離を詰める。露出した銀の心臓めがけて、切先を振り下ろした!
──オォォォオオオォ……。
蜘蛛男が呻き声を上げて、子蜘蛛と共にその場から掻き消える。もうシェリーに知られた以上、身を隠す必要など無かろう。
「あの……アレックスさん……」
「気にするな。俺の気まぐれだ」
礼なんて要らない。彼女が生きていればそれで良いのだから。
俺はマグナムを懐にしまい、ゆっくりとシェリーの方を向く。彼女の肩に手を添えると、大きな目を見開いて吃り始めた。
「こんな事があっては……人質が……!」
「すまん。俺は、国を守るヤツ一人喪う方が辛い」
「でも……どうして、私なんかを……」
黙らせるために、彼女を自身の胸の中へ引き寄せる。……生きている事が当たり前と思えなくて、思わず細い身体を抱き締めてしまうのだ。
「本当はお前が思うほど温情な男じゃない。お前に何かあれば、どんな手を使ってでも必ず助ける。……それが、隊長という役目を失うことになってもだ」
「…………っ!」
シェリーの肩が上がる。本音を言えばこのままキスしたいところだが、此処だといつ殺られてもおかしくない。
感極まりそうなところで腕を離し、彼女に背を向ける。俺が「行くぞ」と切り替えを告げたあと、シェリーは黙ってついて行った。
(第四節へ)
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