──午前十一時ごろ。
エレたちが負傷して鬱屈だってのに、秋雨とはタイミングが悪すぎる。昨晩は軍議を終えて花姫たちと解散した後、城でマリアからの依頼をこなした。それから飯も食わずにベッドでくたばり、今に至る。あれから長くは寝たはずなのに、どうも疲れがほぐれない。
とはいえ、ずっと家にいるのも退屈だ。シャワーを浴びてから革のジャケットを羽織り、群青の傘を握り締める。それから通信機を取り出し、今も悩めるであろうあいつに信号を送る事にした。
「もしもし?」
「おはよう。昨夜は遅くまで仕事してたから、こんな時間に起きちまった」
「そ、そうでしたの!? もうアレックスさんったら、規則正しい生活を心掛けなきゃダメですよ?」
「あはは、貴重な休日だからつい爆睡しちまうんだ。なあ、今からお前の家に行って良いか? 昨日『胸騒ぎがする』って言ってたし、エレちゃんの事で気に病んでねえかってさ」
「……っ!」
……シェリーの声がどうも震えている。俺は敢えて笑ってみせるが、それでは胸中の不安を拭いようがない。やはり、あいつも落ち込んでいたのだろうか。
「もしかして、泣いてるか?」
「ち、違い……ますわ! これは、ただの欠伸ですもの!」
「……そっか。じゃあ、そっちに向かおう」
「待って! まだ私は何も──」
図星だと判ったところで、わざと彼女との通話を切る。彼女の事だ、俺が尋ねても変に強がるだけだろう。
結果、押し入って正解だった。予想通りシェリーは泣いていたし、一緒に昼飯を作る事もできた。飯を食う時は笑ってくれたけど、どこか寂し気でもある。俺たちは共に食器を片付けた後、ソファーに座って彼女の肩を抱く事にした。
淡色で可憐な世界は静寂に包まれ、雨が窓を叩く音だけが聞こえてくる。こうして寄り添うだけってのも悪くないが、今日はシェリーと話をするために訪れたんだ。俺がさりげなく促すと、彼女は覚悟を決めたように頷く。
「良かったら話してくれ。さっき泣いてた理由」
「……はい」
息を吸う音が、鼓膜をくすぐる。そして彼女が次に話した事は、俺の胸を強く締め付けるのだった。
「今日、エレさんからメッセージが届きました。彼女は既に私たちの関係を知っていたようで、こんな事が書かれてありました。『あなた様の恋人を好きになって、ごめんなさい』──と。それを読んだ時、『自分が情けない』と思ってしまいましたの。何故なら……素直に想いを述べられるエレさんが、羨ましかったから……。あの方は今、声を奪われて大変な思いをしているのに……あなたにきちんと伝えられない事が、悔しいの……!」
シェリーは肩を再び震わせ、両手で顔を覆う。ジャックは、彼女にこんな思いをさせるために呪いを掛けたのだろうか。だとすればあまりに自分本位で、“愛”と呼ぶには随分と卑劣だ。
例え銀月軍団が壊滅しようと、俺は永遠にジャックを恨む。呪いが消えても“不死の存在”という宿命から逃げらんねえなら、最期の最後まで生き続けるのみだ。
その決意を胸に、俺はシェリーを抱き寄せる。今もなお咽び泣く彼女は、胸の中で悲痛を叫び出した。
「もし、時を六年前に巻き戻せたら……。ジャックと出会わなければ、こんな呪いに掛かる事も無かったもの……!」
「……俺だって、『ジャックと肌を重ねてた』って事実から目を背けてぇさ。でもそれがあったからこそ、シェリーっていう良い女が存在するんだ」
「ああ、こんな悔しい思いは初めてですわ……。この呪いのせいで、私は思考ですら支配されるのですから……!」
「思考……?」
俺が聞き返すと、シェリーは頭を胸元から離して詳細を明かす。『手を胸に当てる』と云ういつもの仕草をする一方、彼女の涙が止まる気配は決して無かった。
「あなたの事を考えるたび、刻まれた箇所が痛むんです。ですが……その都度表に出しては、あなたを苦しめるだけ。笑顔で忘れようと思った日は、もはや数えきれませんわ」
「……俺のバカ、なんで気づけなかったんだ……」
ヴァルカと三人で出かけた時、シェリーは何らかの痛みを訴える様子だった。こうしている今も、きっと我慢しているのではないか? その痛みというのは、鎮痛剤でどうにかなる話ではない。根本的な解決策を取らねば、彼女を苦しめるだけだろう。
その解決策というのは────死んでも口にしたくない選択肢だ。俺が決断すれば、彼女の痛みが癒えるかもしれない。だが、それでは俺の心にずっと穴が空いたままなのだ。
俺は、また何世紀も空虚感を懐かねばならないのか?
その選択こそが、彼女にとっても幸せなのか?
誰か教えてくれよ。“愛”って──何なんだよ。
「アレックスさん……?」
「……お前は、俺と一緒にいて幸せか?」
まともに考えられず、柄にも無い事を訊いてしまった。シェリーも予想外だったのか、唖然とした表情で俺を見つめるままだ。
それでも、彼女は頷いてくれる。目尻に雫を浮かべ口角を上げる様は、どんな風景よりも美しく思えた。
「私ったら、本当に情けないわ。この気持ちは、あなたが生きているうちに伝えなきゃいけないのに……」
「良いんだ。俺こそ、らしくない事を訊いてごめんな」
俺はシェリーの右手を握り締め、甲に口づけを添える。ずっと涙を拭っていたのか、きめ細やかな肌は少し塩気のある味がした。
シェリーの言う通り、俺も生きているうちに想いを伝えねばならない。だから「お前は何も言わなくて良い」と前置きを入れた後、彼女の目を見て言葉を紡いだ。
「今もこの先も、シェリーだけを愛してる。これは隊長命令だ。どんな悲しみや苦しみも、必ず俺にも分けろ。お前を苦しめるものは、全部俺が消し去ってみせる」
「……わかりましたわ」
彼女に永遠の愛を告げるには、一度じゃ足りない。彼女が苦しい思いをしている時こそ、気持ちが届けばそれで良いんだ。
樹の神殿に赴くその日まで、俺は毎日彼女を抱き締めに行こう。そう、痛みなど忘れるくらいに──。
秋雨が止み、漆黒の空には三日月が浮かび上がる。彼女の家で夕食を取った後、単身でフィオーレの噴水広場を歩いていた。
その時、誰かの気配を上方から感じ取る。ふと顔を上げてみれば、東の屋根に大きな人影が在った。
俺は翼を翻し、人影へと近づいていく。屋根の上に誰かがいるのは日常茶飯事だが、今日に限って見過ごしてはいけない気がしたのだ。
月に照らされる大男。無造作な髪は冷風に揺られ、葉巻を片手に持つ。彼は口から紫煙をくゆらせると、俺の方を向いた。
「よう」
「ロジャーじゃねえか。こんなとこで一服か?」
瓦に腰掛けるロジャーは目線を外に移し、葉巻を咥える。それからもう一度息を吐くと、しんみりとするように言葉を返した。
せっかくなので、俺は彼の隣に座る。いつもは豪快に振舞うくせに、何があったのだろうか。
「この時期になると、昔の事を思い出しちまってさあ」
「それは……邪魔したな」
「気にすんなって。……オレさ、離婚してんだよ」
「……おう」
想像以上に重い内容で面食らったが、彼は話を続けるつもりでいるらしい。無精ひげで覆われたその横顔には、未練を秘めているようだ。
「昔の妻たぁよぉ、葉巻を吸うのと同じくらい『愛してる』つったよ。べっぴんさんで優しかったけどな、オレが旅に出るのだけは嫌がるんだ。だから『うるせえ』つって強ぇヤツを探し求めたよ。……そしたら、当たり前の存在が急にいなくなっちまったんだ。指に嵌めてたそれはただの飾りだ。葉巻だって川に捨てたはずが、結局こいつを選んじまうんだよ」
ロジャーが俺に見せたのは、赤いラベルが貼られた葉巻“Andrea=Oudney”だ。人名を冠したそれは三世紀も続く有名な銘柄であり、渋みのある味わいが特徴らしい。その葉巻に刷り込まれた秘伝のスパイスが、特に壮年の男性たちを惹きつけているようだ。なお俺は煙草を吸わないので、味については小耳を挟んだ程度の話に過ぎない。
オードネイは、クミンのように独特な匂いを漂わせる。あまり好みの香りではないが、少しばかり病みつきになりそうな何かがある気がする。
ロジャーはきっと、その女性と暮らす間に長く吸っていたのだろう。だからこそ、今もオードネイから離れられないのかもしれない。俺にもいつかは、煙草と思い出を語らう日が訪れるのだろうか。
「お前も、辛い経験をしたんだな」
「だから大げさだって。だが、その様子だとてめぇも悩んでそうだな?」
「まあな、お前になら尚更話せそうだよ」
彼がこんな話をしてくれたんだ。今なら気軽に話せる気がする。
ロジャーは脚を組み替え、興味ありげな視線を投げ掛ける。気恥ずかしさから、俺もただ空を見つめて疑問を話した。
「たまに、“愛”ってなんだか判らねえ時があるんだよ。お前はどう考える?」
「一緒に笑ってりゃあ、それで良いんじゃねえの? ……ふう、オレについてける女がいりゃあ、旅はもっと愉しいだろうがなぁ」
「お前らしい答えだ」
確かに、俺が良くてもシェリーが嫌なら成立しない。でも俺がいる事で彼女が喜ぶなら、それが“愛”なんだろうな。
靄が晴れたところで、そろそろ離れるとしよう。屋根に張り付きそうな腰を上げ、白く光る三日月──の前にいるロジャーを見下ろす。
「ありがとな。おかげで少し気が晴れたぜ」
「おう。いつかてめぇと出かけてぇもんだ」
「ひと段落したらな」
俺はもう一度翼を広げ、ロジャーの元を離れる。彼の視線が羽根に突き刺さるが、『振り返る』なんて事は敢えてしなかった。
神殿に向かう日は近い。クロエ曰く『エレの声を持つ亡霊がいる』との事だが、本当に取り返せるのだろうか。
いや、そんな事を考えてはダメだ。アイリーンやアンナらの呪いだって、エレメントの女神の力を借りて解決したじゃないか。
だから──今回も、シェリーの呪いだって必ず消える。
その確信を胸に、翌日はシェリーと一緒に準備を行った。
(第十八章へ)
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