──清の都ウンディーネ。
夜の帳が降り、空を覆う雲はあっという間に姿を消した。澄んだ空気の中で星々が色彩豊かに輝くけど、今はそれどころじゃない。
『俺を構うな! 早く逃げろ!!』
『でも、あなたを置いていくわけには……!!』
『行け!! 必ずお前の元へ戻る!!』
アレックスさん達は、都の住民たちと私を助けるために此処へ来てくれた。……でも、彼は清の神殿に潜む魔物に捕らわれ、私と離ればなれになってしまった。あれはクラーケンの類でしょう。書物でしか見た事無かったけど、あんなにも不気味とは思えなかった。
ルーシェの子であるアリアが斃れ、氷は殆ど溶けている。疎らな灯りの中、抱き合って涙する人々から、黙々と復興に取り掛かる人達まで様々だ。
それらを尻目に、私はひとり街の中を駆け抜ける。行き先は馬車の停留所。今の私はジャックに霊石を封印されたせいで、空を飛ぶ事ができない。だから、何としてでも馬車でフィオーレに行かなきゃいけないの……!
「あれは……!」
向かいから一両の幌馬車が来る。方向からして、きっとフィオーレへ進んでいる最中かも?
肺が圧迫して、白い息が空へ昇る。ひとまず両膝を抑え息を吐き出すと、もう一度走──
「きゃああ!!」
もう、私ったら何してるの!?
未だ湿る床に足を滑らせ、身体が石畳へ打ち付けられる。手足に擦り切れたような痛みが生じても、今はどうだって良い。
早く立たなきゃ、馬車が去ってしまう……!
周囲の目線は私に集中し、誰もが口を結ぶ。笑い者になる覚悟を決め、身体を起こそうとした時だった。
「大丈夫ですか!?」
え……?
目の前で差し伸べられた手に、スーツに身を包む男性──ふと右斜め前に視線を移すと、そこには二頭の馬と客車が取り残されていた。
まさか、気に掛けてくれるなんて……。
私は彼の手を取り立ち上がった後、穏やかそうな瞳を見て話し掛けた。
「……お願い、です。私を……フィオーレへ連れてってください! 今すぐ花姫たちのところへ向かわなきゃいけないんです」
「『もしや』と思いましたが、やはり純真な花の方だったんですね。ちょうど向かうところでしたので、どうぞこちらへ」
良かった、こんな形で乗せてもらえるとは思ってもみなかったよ。
通してもらう際に運賃とチップを御者に差し出すのだけど、彼は『非常時ですから』と断る。罪悪感を抱えながら客車へ乗り込むと、五人の住民が向きあう形で座り込んでいた。誰もが物憂げな表情を浮かべ、手荷物を握り締める。
ジャック、皆を苦しめてまで私を……許せないわ。
彼への憎悪は、今に始まった事じゃない。だけど、この重苦しい空気を肌で感じるほど悲しみが増していく。
御者は馬たちに合図を出し、発進する。いつもは気にならないのに、この時ばかりは馬車の遅さに苛立ちを覚えていた。
私のバカ……あの時に霊術を使ってれば、こんな事には……。
アレックスさんは、こんな情けない私にキスしてくれた。ちょっと強引だけど、私が切り出した別れを帳消しにしてくれたの。
せっかくまた逢えて、よりを取り戻せると思ったのに……どうして、私は……!
人前だと云うのに、涙が止まらない。爪を膝に喰い込ませても、唇を噛んでも、後悔がスカートの上で零れ落ちるばかり……。
ベレさんから貰ったハンカチで涙を拭っていると、隣に座る婦人が声を掛けてくれた。「大丈夫?」と──。
「ずっとご飯を食べてこなかったのね。さっきからお腹が鳴ってるわよ?」
「えっ!?」
自分を責める事に夢中で、胃袋が鳴っている事に全く気付かなかった。どうしよう、皆が私を見てくる。でも思ったよりも温かな視線で、向かいに座る紳士も微笑んでくれている。
辺りを見て呆然としていると、婦人が横から何かを差し出してきた。
「こちらは……?」
「地元のパン屋が配っていたものよ。私は食事を済ませたところだから、遠慮なくお食べ」
彼女の手のひらに収まるのは、表面にヒビが入ったようなパン。きつね色に焼かれたそれは、確か清の都で有名なパンだっけ。一瞬『変なものが入ってないか』と戸惑ったけど、彼女の優しい笑みは猜疑心を掻き消してくれた。
「ありがとうございます。頂きます」
普段は千切って食べるけど、これぐらいのサイズならそのまま齧ろう。落とさないよう両手でパンを持ち、呑み込めるように小さく頬張る。軽やかな音と共にパンくずが落ちるけど、構わず噛み砕く事にした。
す、凄くもちもちしてる……! その食感を味わいたくてもう一度齧れば、今度は豚肉の弾力と卵の甘味、チーズ特有のとろみが一気に襲ってきた。
「はは、私の娘にそっくりだ」
「ふええ!?」
そう話しかけてきたのは、正面に腰掛ける細身の紳士。帽子から覗く白髪を見る限り、お年を召してるのかも。彼は動揺する私に構わず、言葉を続ける。
「突然笑ってすまないね。娘が幼い頃、私に影響されてピアノを弾いてたんだ。子どもの頃からそのパンが大好きで、毎朝頬張ってた事を思い出すよ。でも……」
「でも?」
紳士の表情に影が差す。少しの沈黙を経た末、私にこう話してくれた。
「彼女は実家を離れ、フィオーレ──そして、空へ越した。銀月軍団に音楽家の夢を絶たれてね」
「……そんな……」
「『パパの背中を追いかける』──それが彼女の口癖だったよ。あれから、私は憑りつかれるように何度も城下町へ足を運んでしまうんだ」
……此処の人たちはきっと、温かな笑みの下に悲しみを隠している。パンの味は空虚に呑まれ、ただ冷えた何かを食す感覚だった。
「ああ、気を悪くしてしまったね。今の事は忘れて、食事に集中すると良い」
「いいえ。むしろ、貴重なお話を聞かせてくださり感謝いたします」
「貴女を見ると、女神様を思い出すわね。もしかして、生まれ変わり?」
「っ!!」
隣の婦人が私の顔を覗き込むせいで、反射的に肩が跳ね上がる。心臓が口から飛び出そうになったけど、此処はひとまず「違います」と嘘をつく事にした。
「ぐ、偶然ですわ! 確かに『似てる』と言われますけど……」
「世の中そういう奇跡もあるのね。フィオーレに着くまでもう少し時間が掛かるから、食べたらゆっくり休むのよ」
「は……はい!」
ビックリした、私がアリスである事を悟られるかと思ったよ……。
客車に座る人々は、私たちの会話を皮切りにぽつぽつと言葉を交わす。彼らの会話には敢えて耳を入れず、引き続きパンを食した。
夜が更けた頃、ようやくフィオーレに着いた。辺りは精霊祭の飾りつけがあるけど、暗いせいでゴーストタウンのように見える。
私は人々に御礼を述べた後、すぐさま城へと駆ける。この時間帯ならみんな寝てるだろうし、裏通りに回って近道しよう。
辿り着いた先は、古い建物が並ぶスラム街。道沿いには貧しい人たちがあちこちで横たわるも、幸い夢の中にいるようだ。
このまま一気に突破しよう。そうすれば彼らに捕まらないはず──!!
だけど、そう簡単には上手くいかなかった。
角を左へ曲がった刹那、ぐにゃりとした感触を足の裏が捉える。同時に男が怒鳴りだし、私をその場で硬直させた。
「ってえぇな!! あ!? 女!?」
「おお!? もしかして襲われに来たってかぁ?」
「ご、ごめんなさい! そういう、つもりでは……!」
どうしよう! 男性の手を踏んでしまったせいで、彼らに囲まれてしまった……! ひとまずこの場を離れなきゃ!
「おいおい何処に行くんだよぉ?」
「ちょっと……離してください!!」
後ろから腕を掴まれた矢先、壁へ投げ飛ばされる。想像以上の腕力に逆らえない私は、汚れた床で尻餅をついてしまう。むせ返る臭いに咳き込むと、うち一人の男が顎を掴んできた。
「精霊たちがこんな可愛い子を贈ってくれるたぁねぇ……絶対に帰さないかんな?」
「…………!」
『よお姉ちゃん、そんなとこで何してんだい?』
この流れ、五年前とそっくりだ。
あの頃の私は霊力が暴走して、気が付けば街の外れへ逃げ込んでいた。
そんな私を助けてくれたのは、皮肉にも元恋人だ。
もちろん彼に助けを乞おうなんて微塵も思ってないし、アレックスさんだって駆けつける事はできない。
……ならば、今こそ力を使うべきよ。
大丈夫、あの頃と違ってきちんと制御できるから!
「わぁっはははははは!!!! 今夜は長いぞぉ!」
「大人しくしてねぇと、痛ぇ目見るからなぁ」
ああ、魔の手が忍び寄る……!
瞼を固く閉ざし、強く念じたその時──。
「あーあ、これだから陰キャは」
魔手を止めたのは、男性の軽やかな声音。ふと見上げれば、向かいの屋根の上にはジェイミーさんの姿が在った。
「誰だてめぇはぁ!!」
「ちっ、良いとこだってのに……」
「おれたちの縄張りから出てけぇ!!」
男たちは、ジェイミーさんに向かって一斉に石やゴミを投げ飛ばす。しかしいずれも当たる事無く、彼は一回転しながら地上へ舞い降りた。
その時、複数の赤い刃が弧を描き男たちに迫る。彼らが構わずジェイミーさんに殴りかかろうとした瞬間、人間だった存在はただの肉片へと変わり果てた。
「ぐ、え……」
「嘘、だろ……」
「はいはい、安らかにー」
ジェイミーさんの黒いコートや顔に幾つもの血が付着する。涼しい顔で肉塊を見下ろす様は、物語で見るような悪者を彷彿させた。……助けてくれたというのに、どうして身体が動かないの?
彼は「ほら」と私の前に手を差し伸べる。
「……ここまで、しなくても……」
魔族の狂気ぶりに逆らえず、思わずジェイミーさんから目を背けてしまう。彼は困ったかのように溜息をつくと、静かなトーンでこう言った。
「マリアちゃんですら、ここの連中を救えない。だから俺様がこいつらに見合った救済をしただけ。……それとも、お邪魔だった?」
「そ、そんなワケありませんわ!」
棘のある言葉にカチンと来た私は、彼の手を払い除けて立ち上がる。これまで彼とは二人きりで会って来た──彼の恋愛相談に乗るために──けど、その頃と違ってどこか虫の居所が悪い様子だ。
ただ自身も気づいたのか、一瞬目を見開かせ視線を落とす。彼は片手をポケットに入れ、頭を掻きながら謝ってくれた。
「……あんたに当たっても意味ないね。悪かったよ」
「いったい何が?」
「俺様の事は気にすんな。それより、行くんでしょ城に」
「はい。あなたも城へ?」
「ちと野暮用でね。とりまあんたに魔法掛けとくから、さっさと此処を去りな」
ジェイミーさんが指を振り上げた時、翡翠色のオーラが私の身体を包み込む。そのオーラは樹によるものと判断した頃、涼しい風が私の髪を靡かせ、錘を外されたように身体が軽くなる。今なら空も飛べそうだけど、多分そういう効果はきっと無いでしょう。
「ジェイミーさん、助けて下さってありがとう」
「良いって。じゃ、失敬」
彼は私に手を振り、颯爽と高く跳躍。次々と屋根を跳び越えるにつれ、彼の姿は既に見えなくなっていた。
……あの立ち振る舞い、何となくジャックに似ているわ。『あいつと知り合い』と話してくれた時は信じられなかったけど、今だったらちょっと納得いく。
それよりも、せっかく私に付与魔法を掛けてくれたんだ。効果が消える前に、城へ行かないと!
つま先で地を踏み、翼をイメージして両腕を後ろへ突き出す。風は私の背を強く押し、景色は高速で流れ始めた。
今の私は、過去と比べ物にならないほど速く走れている。これなら、人間どころか魔物にも捕まらないわ!
「早くマリアに伝えなきゃ……!」
幸い、通信機は手元にある。でもアレックスさん達に助けられてから今までの間、花姫たちに連絡する余裕など無かった。
だから直接マリアの部屋に出向くしかない。きっと彼女はビックリするだろうけど、これしか方法は──!
「シェリーですわ、開けてください!」
「はっ!」
城に辿り着いた末、衛兵さん達に門を開けてもらう。それから全速力で廊下を駆け、螺旋階段を昇っていった。
速く向かったつもりなのに、ここまでの道のりが長く感じる。ようやく薔薇が刻まれた扉に着いた時、魔法の効果が切れて立つ事も儘ならかった。視界が霞み、身体が後ろへ倒れ込む。
「はあ……はあ……」
ちょうど扉を開け放つ音が聞こえ、誰かがこの身体を受け止める。それは、私をよく知る人のひとり──アイリーンさんだった。
「お嬢様!」
彼女が私の身体を揺さぶる事で、意識が徐々に戻っていく。私の元へ駆けつけたのは数名のメイドさんだけじゃない。ネグリジェ姿のマリアもいた。
「シェリー! 戻ったのね……!」
「マリ……ア……」
「お嬢様をベッドまで運ぶわよ!」
「「はい!!」」
せっかくマリアたちに会えたと云うのに、ロクに言葉も交わせない。私はメイドさん達に担がれ、マリアの部屋へと運ばれた。
そして天蓋が付いたベッドの上で下ろされ、マリアが手を添える。この手を強く握られた時、温かい雫が甲に当たった気がした。
「嘘よ……シェリーに何かあったら、あたしは……!」
……マリアが、泣いてる。こんな姿を見たのはいつぶりだろう。
私と彼女は、ただの友達関係なんかじゃない。今のマリアは昔と違うけど、このベッドの上で肌を重ねたという事実は──どう頑張っても覆せない。
久しぶりのベッドは苦い過去を追想させるけど、今は状況を伝える方が先決だ。
乱れた呼吸が次第に落ち着き、私もマリアの手を握り返す。それから彼女の泣き顔に目を向け、きちんと用件を伝えた。
「皆を……すぐに呼んで……。アレックスさんが魔物に……連れ去られたの……」
(第三節へ)
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