ロジャーとルナが一戦を交えてから更に数日後、シェリーに誘われて映画を見に行く約束をした。ただ、その映画は劇場ではなく、ある場所で放映されるという。俺が場所を尋ねても、彼女は『行ってみればわかる』の一点張り。とりあえずアルタ川行きの路面電車に乗り、目的地へ向かうこととなった。
足場の少ないホームで待っていると、赤く塗られた長方形の車両がやってくる。てっぺんから伸びた金具は上部の電車線と繋がっていて、その線から魔力を取り込むという仕組みだ。車内の亜人が扉を開けると、彼を始めとした乗客が次々と降りていった。
降りる客がいないことを確認したあと、俺はシェリーの手を繋いだまま段差を昇る。繋いだ手を一旦離し、彼女の伸びた背を支えることで先に行かせた。俺らと後続の客が車両に乗り込んだあと、最後尾の獣人が静かに扉を閉める。運賃を払って空席に向かう中、車掌は既にハンドルを握って車両を動かし始めていた。
両脇に配置された横並びの席。俺たちから見て左側の席がちょうど空いていたのでそこに座る。シェリーは窓際、俺は通路側という形で席に着くと、ふと通信機を懐から取り出した。
液晶に映る数字が十三時頃を指す。現在時刻を把握したところでしまった後、流れる景色に視線を移してみた。
建物のドアに掛けられたリース、近くにそびえ立つ大きなモミの木など──これらが象徴するものは、翌月に訪れる精霊祭だろう。赤や青を基調とした、煌びやかな飾りつけが何よりも証拠だ。
俺の視線を窓から手前のシェリーへと移す。ベレー帽とひざ丈のプリーツスカートは共に黒く、灰色のコートはボタンが横に二つずつ並ぶ。彼女もまた景色に夢中のようで、横顔から何らかの期待が窺えた。
彼女は何に想いを馳せているのだろう。俺のことか、それともこの国の平穏か。……あるいは、そのどちらでもないか。少し上がった桃色の口角からは答えが見えず、しかしそれが想像を無性に掻き立てる。ここで尋ねれば良いはずが、微かに冷える空間が真意への問いを奪うのである。
ようやく目線に気づいたのか、恋人は微笑を此方に向ける。その時、意外な質問を俺に投げかけてくれた。
「精霊祭の時期、どちらへ向かいましょうか?」
月のオーブ回収後、花姫たちの間で“精霊祭での過ごし方”が話題になった。その際俺とシェリーは『二人きりで遠出しよう』という話をしたのだ。俺は勿論シェリーも変わらず楽しみにしているようで、自然と頬が緩んでしまう。
「冬で思い浮かぶのはコズミシアだな。そこはどうだ?」
「ああ、北西にある夜の国ですか?」
「そうそう。この季節なら“奇跡の極光”が見えるはずだし、一時間限りの夜明けだって拝めるはずだ。それに、あそこの魚料理だって美味い」
「アレックスさん、詳しいのですね! 確か子どもの頃、両親に連れて行ってもらったそうなのですが、まるっきり憶えていなくて」
「それなら尚更楽しめそうだな」
シェリーの柔らかな手を握ると、彼女が指を絡めてくる。その頬はほんのり赤く、さりげない上目遣いが俺の心を捕えた。右隣から感じる温もりが、白檀とジャスミンの香りと共に運ばれる。そのせいで此処が公衆の場であることを忘れそうになった。
さて、そろそろ到着のようだ。車両が止まって俺たちが立ち上がる頃には、既に疎らな人だかりが列を成している。ちょうど最後尾となった俺たちは、先ほど降りてきた乗客のように扉を閉める。去り行く電車をよそに、次の景色に目を向けてみた。
そこはフィオーレのように鋼鉄の館や石造の家々が立ち並ぶが、比較的静かな街だ。静寂はアルテミーデのように不気味なものではなく、鳥のさえずりが聞こえる優しいもの。
此方では白い壁とダークブルーの屋根の組み合わせがずらりと並ぶ。黒い尖塔と灰色の屋根はおそらく教会だろう。壁に刻まれた太陽のような紋章から、ミュール教の活動拠点であることも判る。
少し歩くと、深緑の屋根の下に並ぶ本の塊が見えてきた。その近くで木の椅子に座る中年の男は、足を組んで新聞紙を広げている。眉間にシワを寄せる様子はどこか気難しそうで、流石の俺も話し掛けづらい。
しかし、シェリーからすればそうでもないようで、足首までの黒いブーツを鳴らしながら駆け寄った。
「こんにちは!」
「おや、可愛らしいお嬢ちゃんじゃないか。此処は古い本ばかりだが、どれもオススメだぞ」
その声音は、強面な外見からは全く想像がつかないほど温かい。シェリーは言葉に甘えて、乱雑に並んだ本をじっくり眺め始めた。
背筋を伸ばし、後ろで手を組む彼女。ポラロイドカメラに収まりそうなワンシーンだが、持ち忘れたのが何とも惜しい。
「どれにしようかな……」
彼女が見つめる先にあるのは、どうやら恋愛小説のようだ。店主であろう男は再び新聞を読むも、先ほどより柔和な雰囲気が伝わってきた。
シェリーはしばらくの熟考の末、お気に入りを見つけたらしい。普通の文庫本よりも一際厚いそれは、小さな手で持つにははち切れそうである。ただ、読書が好きな彼女からしたらそんな事は全く気にならないのだろう。紙幣と硬貨を男に手渡すと、斜め掛けの革バッグに大事そうにしまった。
「おじさん、ありがとう!」
「いいさ、また来てくれよ!」
あたかも親しい間柄のように話す二人。シェリーは俺のところへ戻ると、「そろそろお昼にしましょ!」と元気よく話し掛けてきた。
俺らは近くの食堂に立ち寄り、二人でリゾットを頼んだ。それはトマトスープが染み込む米の上に魚介類を載せたもので、トマトの香りが食欲を煽る。海鮮類はおそらくエク島近くの海辺から採ったのだろう。あそこで採れるヤツはどれも美味いからなぁ。
ウェイターが次に置いてくれたのは、オーブンで焼かれた野菜だ。パプリカやズッキーニなど皮についた焦げ目は却ってアクセントになる。でも、その上に掛かっている緑色のソースって……まさか……。
いや、とりあえず今はリゾットに目を向けよう。スプーンでイカの肉片と米を掬い、ふうふうと息を吹き掛ける。湯気が消える間に口の中に入れると、もっちりした食感が真っ先に来た。酸っぱさも程好いし、噛めば噛むほど確かな歯応えが伝わってくる。
ふと正面を見ると、シェリーも幸せそうに頬張っていた。こいつはいつも美味そうに食べていて、見るだけで癒しになる。ちょうど目が合ったとき、彼女はまたスプーンでよそうと、具と共に俺の口元へ寄せてきた。
「はい、あーん!」
「えっ……!」
その奉仕は、家でしかやらないと思っていただけに意外だった。だからこそドキッとするわけだが、表でやられると恥ずかしくなる……。此処は勇気を振り絞って、口を少し開けよう。
味はさっきと変わらないはずなのに、こっちの方がより美味しく思える。彼女の唾液が入ってるからとか、そういうわけじゃないと思うんだが。
シェリーは満足したのか、俺が噛みしめる間にスプーンを離してフォークに持ち替える。それからピーマンに突き刺し、謎のソースと絡ませてから食べた。彼女は一瞬だけ目を見開いたが、直後は笑顔に戻って頬を動かしている。
この光景に喜ぶべきなのに、俺は素直に喜べなかった。なぜなら、さっきの見開いた表情がある味覚を物語るからである。そんな俺に気づいてるのか知らんが、彼女は俺を見つめつつ再びフォークを動かした。
「アレックスさんも勿論食べますよね?」
「えっと、まあ……」
「では、私がまた“あーん”しますね!」
「あっ! そのソースはほんのちょっとで……」
「はいっ、どうぞ!」
なんでたっぷり付けるんだよ!! お前からすればピリ辛程度だろうが、俺が喰えば絶対に死ぬヤツだよな!? ……もしや悪魔の名を冠したソースだからって、俺もいけるとか? 頼む、もうわかってくれよ!
でも、此処で振り払うなんざ男の所業じゃねえ!! やってや──
……え?
何これ、そこまで辛く……ない?
「うふふ、とても青唐辛子とは思えませんよね?」
女神の笑顔に頷かざるを得ないし、辛くないのは事実だ。ということは、さっきの反応は『あれ? 思ったほど辛くない!』という事だったんだな。まあ、可愛いことに変わりはないけどさ。
「辛い物に怯えるあなたも素敵ですわ」
「よせ……」
苦手なモノを好きな女に知られるのは恥ずかしくもある。
顔が熱いし思わず目を逸らしたくなるが、引き続き野菜に手を伸ばす俺がいた。
(続く)
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