白い廊下に大理石の床──その造りはミュール宮殿に似るものの、一つ異なる点があった。
太陽の光が挿し込む右手の窓、左手には銅像がいくつも並べられていた。その銅像はよく見れば顔見知りであり、花姫たちやジェイミー、ランヘルのマスターまでいる。誰もが苦しそうな表情のまま石化してしまったかのようだ。
直進すると、大きな赤い二枚扉が立ちはだかる。ドアノブを回してみるが、幸い鍵は掛かっていないようだ。
俺は両手で扉を押し、そのまま中へ入る。
まるで蒼い水晶を随所に埋め込んだような神秘的な空間。その奥で、シェリーが寝台の上で仰向けになっていた。周囲には誰もいない。
不気味な静寂に足を踏み入れた刹那、木の擦る音と共にバタンと扉が勢いよく閉まる。
振り向いたときには扉が閉められ──って、無くなっている……?
それなら仕方あるまい。このまま前に進み、彼女に近づくことにした。
「シェリー!」
儀式で見た白いドレスを身に纏う彼女。両手を腹の上で組み、目を瞑っているではないか。俺はそれを見てふと嫌な予感が過ぎったが、上半身をゆっくりと上下させる様子を見て一時の安堵を覚える。
思わず見惚れてしまいそうになるが、今はそんな場合ではない。
彼女の肩を揺さぶると、瞼を開けて大きな瞳で俺を見つめる。
だがその反応は、俺の予想を裏切るものだった。
「こ、来ないで!!!」
え……? 何故俺がそう言われるのか、理解できずにいた。
シェリーは咄嗟に上体を起こし、胸をシーツで隠して俺を睨む。それは恋人相手にするような反応というより、暴漢から身を守るような体勢だ。
「私は、『ジャックの妃としてルーセ王国の再建を支える』と決めましたの。貴方のような弱い方と一緒にいたのが間違いでしたわ」
その言葉は俺の胸を突き刺し、立つ力を奪う。そのまま両膝が床に触れて四つん這いになると、どこからともなくあの男の高笑いが聞こえてきた。
「貴様が結ばれると思ったか? この女の全ては俺のモノだ!」
見上げれば、いつの間にかジャックが寝台に腰掛け脚を組んでいる。その傍らにいるシェリーの背に腕を回すと、彼女も妖しい手付きでジャックの胸に触れていた。
「来い、我が妃よ」
「もう、待てませんわ……」
やめろ。やめてくれ。
こんなの絶対に現実じゃねえ。
けれど、俺の願いを聞き入れる者は何処にもいない。
二人は互いを見つめ合い、今にも唇が重なろうとしていた。
そして──
「やめろぉぉおおおおおおぉぉぉお!!!!!!!!」
「んっ!?」
……もしかして、夢か? それにしては随分とリアルだったな……。例の儀式といい、さっきの事といい、何故こうも不吉な夢を見るものか。
不快な目覚めを経た末、俺がまだ拷問室で囚われていることに気づく。猿轡は変わらず嵌められたままで。唾液と鉄の臭いが鼻腔に入り込む。
ジャックとアマンダに嬲られ続けたからか、こうも嫌な考えが過ぎってしまうものだ。
彼女はまだ俺を愛しているか──と。
『貴様のような落ちこぼれに構うはずがあるまい!』
あんなの脅しだ。シェリーはずっとずっと心身を捧げてくれたのだ。
だが、離れ離れになった今ではどうだろう。もしかしたら洗脳されてしまったかもしれないし、本当に寄りを戻してしまったかもしれない。
考えれば考えるほど不安が込み上がる。しかし何もできない以上は、衛兵が此処に来て俺を一時解放してくれるのを待つしかない。それからは──。
ダメだ、『絶対に来ない』なんて考えてはいけない! あいつらなら、シェリーがそっちのモノになる様を絶対見せつけるはずだ。
それにしても、あいつらは今頃何を──。
「────」
女の……嬌声……? その声は間違いなくアマンダのものだ。
ジャックのヤツ、散々『シェリーは俺のモノだ』と言い張っておきながら、他の女とも仲良しじゃねえか。エレが自ら囮になったとき、少しでも救出に遅れていたらと思うとゾッとする。
今は何時だ? シェリーは本当に無事なのか? こんな窓の無い世界で因われていると、マジで頭がイカれそうになる。全身の痛みはまだ治まらねえし、鉛のように重い。
それに、胸に翡翠の宝石を埋め込まれてから喪失感が半端ねえ。まるで、自分が悪魔である事を否定されたような感覚だ。自分が如何にして大悪魔の魂を呼び起こしたか思い出せずにいる。
……本当に、ここで余生を過ごすのか? もし衛兵どもの守りが厳重で、明日の儀式に間に合わなかったら? 本当に夢そのものが実現したら、今度こそ俺がぶっ壊れるだろう。
悪い方向に転べば、俺はいよいよ純真な花 隊長を──
「……!」
右手の甲から感じる淡い冷気。その正体は、清神ウンディーネだ。
宝石に封印された為か、魔力が半減したことを実感する。それでも彼女は、懸命に応えようとしているのだ。
綺麗な声が脳に入り込み、俺に語り掛ける。
『主様、どうか諦めてはなりません。貴方には、“姫の救出”という大きな使命が残されております。今は機を待ちましょう。……悔しいですが、姫は貴方を信じている事でしょう』
そう、だよな……。ウンディーネちゃん、お前の言葉を信じるよ。例え誰かが助けに来る事は無くても、俺の身が軽やかになる時は近いうちに訪れる。その時に反撃に転じよう。
直後、かつてマスターが言い放った言葉を思い出す。
『良いか、アレックス。あんたの力が強いからって大悪魔の力に頼るな。器が小さく見えるぞ』
それは、俺を牢獄から釈放した時の言葉だ。今では只の酒場のおっさんだが、昔は俺ですら敵わないくらいに強かった。何度戦っても歯が立たなくて。彼はそれでも『立て』としか言わなかった。
そんなのと比べれば、ミュール族など俺の敵じゃねえ。例えマスターより強くとも、こっちは今更引き下がれねえんだ……!
その想いが伝わったのか、今度は大切な存在が俺に語り掛ける。
『アレックスさん』
聞こえる。
シェリーが、俺を呼んでいる。
なあ、お前は今どこにいるんだ? まさかジャックに捕まったとかじゃ、ねえよな……?
『……場所を明かせば、また恐ろしい罰を受けてしまいます。ですが、何とか生きていますわ……! どうか私を助けて……今は、こうして霊力を注ぐだけでも……』
……俺はバカだ。ジャックの言葉に惑わされ、僅かでも疑っちまったのだから。
彼女もまた、あの男に苦しめられている。それでもまだ生きている事が嬉しくて、全身が温もりに包まれている気がしたのだ。何故俺の視界が滲むのだろう……。
お前を苦しめちまって、ごめんな……。全て俺の責任だ。
必ずお前を助ける。絶対に見放しはしねえからよ──!
『ありが、とう……。うう、もう限界ですわ……』
意思疎通はそこで途切れ、シェリーの気配が薄れていく。もしかして、霊力の制御でもされているのだろうか。俺の想像つかない事をされてる気がして、吐き気を催しそうになる。
だが、俺がそこで挫けてはダメだ。今もきっと泣いているに違いないのだから。
嗚呼、早くこの手で抱き締めたい。
例え全てを敵に回しても──
〜§〜
「おい、起きろ」
灼けるような痛みが、腹部に再び襲い掛かる。瞼を開ければ、鞭を持った衛兵が俺を睨みつけていた。
「下手に動けばどうなるか、判ってるだろうな?」
……それはこっちのセリフだ。
予想通り、衛兵はこの枷を外そうと近づく。まずは両腕、その次に両脚だ。
「っ!」
四肢が解放された直後、自身の身体が床へ倒れてしまう。きっと栄養失調だろう。たかが一晩飯を欠いたぐらいでこうなるとは、俺も弱くなったものだ……。
「誰が寝て良いと言った?」
またしても振り下ろされる鞭。唸るような風と共に背中に打ち付けられ、じわじわと痺れが広がっていく。
彼は俺の髪を乱暴に掴み、自分に視線を向けるよう仕向けた。もう片方の手で薄汚い布を持ちながら。
彼が「これを着ろ」と言って投げつけてきたのは、無地の囚人服だ。汗などの臭いで噎せ返りそうになるが、上半身裸で動くわけにもいかない。俺は息を殺し、ボロ布に袖を通してみた。
おそらく脱ぎたてだったのだろう。汗が染み込んでいてべったりと張り付く。それに寸法も合っていないせいで、どうしても胸元が目立つ。これじゃあ埋め込まれた宝石も丸見えじゃねえか。
「間もなく御神子さまの儀式だ。ついてこい」
よし、衛兵が背を向けた。彼の腰には長剣があるし、全身は鎧で覆われている。
手錠を嵌めようとする瞬間、
マスター直伝の体術で腕を振り払う!
「な!!?」
衛兵は腕を振り払われ、驚いているようだ。
剣を奪うなら今!
腰に下げた剣を引き抜き、交差するように斬りつける!
「ぐあっ!!」
血飛沫が舞い、衛兵が倒れる。
大丈夫だ、まだ誰も来ていない。
俺は彼の身ぐるみを剥がし、猿轡とズボンを投げ捨てる。今度は俺が衛兵の姿をする一方、横たわる男はほぼ裸となった。
「……もう黙らねえぞ」
俺がきちんと言葉を放ったのは、いつぶりだろうか。
そう考えていると、複数の急ぎ足が近づいてくる。さっきのヤツの悲鳴で駆け付けたか──!
ドアが蹴破られ、二人の衛兵が槍を向ける。うちの片方は唾液を飛ばす勢いで怒鳴り散らしてきた。
「悪魔め、観念しろ!!!」
一応の防具と武器があれば此方のものだ。
冷静に立ち回れば容易く捌けるだろう。
「来いよ」
「「うぉおおおおおおお!!!!!」」
突進する衛兵たち。刃が近づくと共に前宙。後方に着地したものの、彼らはまだ気付いていないようだ。
一人ずつ肩から斜めに掛けて斬り下ろせば、断末魔の悲鳴が響き渡った。血糊が鎧に張り付くが、気にする暇など無い。
何やら外が忙しない。今頃、ジャックらは俺が動いた事に気付いたのだろう。それでも礼拝室へ向かうまでだ。
拷問室を抜け、緩やかな螺旋階段を降りる。無論、そこにも衛兵共が待ち構えていた。
「勝手に抜けやがって! 俺達を敵に回せば──ぐあっ!」
「バカな、力は封印さ──うおぉあぁぁあ!!!」
「ああ、我らにミュールの御か──」
一人、また一人と命の花を散らしていく。
階段を降りてもなお、彼らは次々と押し寄せてきた。
「何だこいつ!? 凄まじい速さで──ッ!」
運命も、信仰も、
俺を阻むヤツは全部ぶった切る。
いい感じだ、アレクサンドラ。
このまま突っ切れば、もうすぐで礼拝室だ。
ようやく例の廊下に辿り着く。横から兵士が現れ、眼前で曲剣を振り回してきた。
だが、あまりに遅すぎる。剣ごと片腕を切り飛ばし、心臓を貫いてみせた。
噴き出る人間の血は、俺を興奮の境地に至らしめる。
もし今も覚醒できるなら、このまま喰らいそうな勢いだ。
「ほ、本当に……化け物だ……」
近くでまた男の声。薙刀をこちらに向けるも、その手先は震えたままだ。
神を信じる者が悪魔に許しを乞うなど、あまりに滑稽だ。
宙を舞う彼の頭──それが俺の答えである。
さて、二枚扉は数歩先だ。
しかし、空を切る音が俺を振り向かせた。
俺に迫りくる矢の嵐。順に弾き落とす度、甲高い音が鼓膜を掠めた。
今度は此方の番だ。なけなしの魔力で応戦してみせる!
「氷撃!」
この氷の弾丸も随分と久しい。注いだ魔力が少ないからか、弾速の鈍さが目立った。
だが十分に効いたようで、遠くから兵士どもの絶鳴が聞こえる。今度こそ気配が消えると、もう一度扉の方を向いて地面を蹴った。
この足に怒りを込め、二つの扉を蹴破る!!
扉の怒声が静寂を生み、群衆が振り返った。
しかし──
「うふふ、随分とお盛んね。私に会いに来たの?」
礼拝室に、シェリーも教皇もいなかった。
聖書台を背に立つのは、一本鞭を握り締めるアマンダ。彼女は気味悪い笑みを浮かべ、こう続ける。
「でも、イイ事する前に前座──って言うでしょ? さあ立ち上がりなさい、迷える仔羊たち! この戦禍の元凶に裁きを!」
アマンダが信者たちを一瞥した後、彼らが立ち上がる。誰もが殺意を瞳に込め、あらゆる武器を握り締めていた。
俺のやるべき事は判ってるはずなのに……凍りついたかのように手足が止まり、息が詰まってしまう。情けない事に、柄を握り締める手も小刻みに震えだした。
「あら、どうしたの? 『あの女を助ける』とあれだけ息巻いてたじゃない」
くそ、まさか民間人を相手にするとは思ってもみねえ。彼らを無視してアマンダを倒すか? いや、いくら民衆と云えど、これだけいれば俺が囲まれてしまう。
……どうせこいつらは、死に際を味わってるんだ。ならば答えは一つだ。
静かに目を瞑り、深呼吸で気持ちを落ち着ける。
『俺たちの幸せを奪おうってなら……何もかもを棄てて、本当の悪魔になれる』
例えこの島の連中に恨まれても良い。
例え、あの少年を悲しませる事になろうと──!
怯えるな、アレクサンドラ。
此処でやらねば故郷を一生救えぬぞ。それはすなわち、彼女の救出を断念する事でもある。
こんなとこで諦めてたまるかよ。
瞼を開け、再び彼らを見遣る。そして俺は、迷える仔羊どもに誓いを立てた。
「安心しな。今から俺が救ってやるよ」
男に二言は無い。
今はただ──決意を握り締め、無情をこの身に纏うまでだ。
(第六節へ)
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