【前回のあらすじ】
ミュール島に到着したアレックスとシェリー。神官アマンダと教皇の力を経てシェリーの霊力が最大限まで解放されるも、アレックスはアマンダらに因われてしまう。
シェリーと引き離された後、教皇の正体がジャックと判明。ジャックは恋人を奪われた恨みを晴らすべく、拘束中のアレックスに暴行を加えるのだった。
「今日こそ、その我が物顔を殴れると思うと清々する」
関節を鳴らした末、鋼鉄の右手で拳を作るジャック。
その拳は、俺の頬めがけて直進した。
「がはっ!!」
肌と骨が激しく打ち付けられる音。共に伝う硬い衝撃が、俺に右を向かせた。左の頬に痺れと痛みが広がるも、彼が手を休めることはない。
「そういえば、俺とシェリーの会話を盗み聞きしていたよな」
今度は左の拳だ。生身にして、おそらく非利き手であろう。しかし、その威力は直前の右ストレートに劣らない。歯が折れそうな衝撃に耐えきれず、俺はただ呻き声を上げるほか無かった。
「どうせ貴様のことだ。俺の女で勝手に妄想でもしてたのだろ」
ジャックの義手が腹筋にめり込む。鉄の冷たい感触はたちまち熱を帯び、胃液が溢れそうな圧迫感に苛まれた。
「シェリーもシェリーだ。『今夜だけだから』と一時の迷いに身を任せたのだ。憶えているか? 貴様が酔った勢いで襲うとした晩の事だぞ」
エレが初めて開花した日の晩、『夜は危険だから』とシェリーを家まで送ったのだ。『何もしない』と約束したにも拘らず、自分の気持ちに気付いてほしくて壁へ押しやった。
だけど、触れる直前になって約束を思い出して……自分を恨んだのだ。
あの時は俺と彼女しかいなかったはずなのに、こいつはどうやってそれを?
「俺はシェリーの全てを見ている。引き剥がされたあの三年前からな。無論、貴様との交合も知らぬわけが無い。あの女も随分と貴様に夢中のようだ。おかげで、俺との愛は泡沫のように消え去った」
ジャックが放った言葉は、吐き気を催す程の真実だった。それは……恐怖を通り越して、憤りすら覚える。
散々あいつを泣かせやがって、何が『俺の女』だ。監視なんて悪趣味をしたところで、彼女が戻ってくるとはとても思えねえ。
「その腐った脳髄に焼き付けろ」
彼が右手を突き出し、再び殴る──かと思いきや、指を広げて俺に剣幕を見せる。
思わず彼を見つめてしまったのが運の尽きだ。
俺の意識が一瞬にして白くなり、ある光景が鮮明に映し出される──。
やめて。
そんな目で見ないでよ。
私には、忘れられない人がいるのに。
真っ直ぐな眼差しが胸を突き刺すせいで、息すらできないし顔だって熱い。
もしこの息を吐いてしまえば、高い鼻筋が近づいて唇を塞がれるかもしれない。
それから、厚い舌が入ってきて──。
……私ったら、何を考えているの?
──これは……彼女の意識? それも、ジャックがさっき話してた出来事だ。なあシェリー、そんな事を思ってたのか?
『お世辞だと思うなら、ここで証明しても良い』
お願い。その低い声で囁かないで。
左手を近づけないで。
このまま身を委ねたら、あの人との約束を破っちゃうのに……!!
『何やってんだ俺は……』
……え?
私を襲うんじゃ、なかったの……? じゃあこの疼きは、どうしたら抑えられるの?
『貴様の不躾な行為が、あの女の心に火を点けた。その後、彼女が何をしたかもはや判っているだろう?』
てめえ、勝手に入り込んでくるな! いくら好きな女でも頭の中まで知りたいわけじゃねえのに……なんで俺は浮ついてるんだ……。
『この光景、淫魔に耐えられるか?』
ジャックが次に映し出したもの。
それは俺の本能を煽るには十分すぎた。
『赦して……今夜だけだから』
此処はシェリーの自室、それも一人きりだ。彼女が俺の名を呼び、拒絶を示すように何度も首を振る。だが、その口ぶりとは裏腹に蠱惑的な反応を見せていた。
……違う、見せているのでは無い。この男に見られているのだ。本人は気付いていないし、そんな激しい姿を見てしまったら、俺は──。
「予想通りだ」
刹那、言葉にならぬ衝撃が俺の急所に襲い掛かる。
意識は彼女が叫ぶ寸前で途切れ、ジャックが鬼気迫る表情で何度も蹴り上げる。両肩を押さえられる以上、俺はただ激痛に悶えるしか術がない。
「ぬぅうううううううう!!!!!!」
「貴様でもこれは堪えるだろう?」
全ての体液が溢れ出そうな苦しみ。
せめて……せめて尊厳を失うわけには──!
ジャックは息を切らしてもなお構える。
直後。彼は右の踵を上げ、怒号と共に追い打ちを掛ける──!
「『女に囲まれてるから』と良い気になるな!!!!!」
「ぐぉ……おあぁっ……!!」
張り裂けそうな痛みが全身に広がり、何も考えられなくなる。
その時、尊厳が体内から僅かに漏れた気がした。
「好い様だ」
……こんなの、屈辱どころじゃねえ。誰かに見られれば、笑われ者として世間を渡り歩かねばならぬだろう。
今度こそジャックは距離を置くと、胸ポケットから小さな紙箱を取り出す。その箱から一本の紙たばこが現れると、オイルライターで火を灯した。
煙草を吸い込み片手を離すと、俺に向けて紫煙を吐き出す。甘い煙が鼻腔をくぐる中、隣に立つ女神官を呼びつけた。
「アマンダ」
「はっ」
アマンダは短く返事すると、すぐさま俺の前に立ち一本鞭を振り下ろす。
「喜びなさい。私が遊んであげるのよ?」
革製の紐が空を切り、俺の上半身を打ち付ける。
灼けるような痛みが何度も襲い、めまいすら込み上がる。
だが、ジャックは自分語りを止めなかった。
「せっかくだから、俺とあいつの昔話でもしてやろう」
『放してよっ! あなたなんて、大嫌いですわ……!』
『ならば何故抗わぬ』
『それは……』
俺が外科医だった頃の話だ。母親にそっくりの女が、邪神の子を孕んで入院してきた。そいつは並々ならぬ霊力を有していながら、随分と嘘が下手だ。己を蔑む奴は嫌いだが、機嫌が良かった俺は特別に生かしてやったよ。
『俺だけを見ろ。いずれ貴様が去ろうとも、俺は永遠に見放すまい』
『……っ、せん、せ……』
あれだけ俺を『嫌い』と言っておきながら、すぐに泣き出す。しまいにはその身を俺の胸に預けてきたのだ。
『私の霊力を受け入れてくださるのは、あなたしかいません。退院しても……どうかお傍にいさせてください』
『言わずとも、俺が管理してやる。他の男のために使われても困るからな』
この時の俺は、母親の面影を勝手に重ねていただけに過ぎない。しかし、この抱擁があいつにとって大きな拠り所となったそうだ。
そいつの退院が迫る冬、俺から飯に誘った。するとどうだ? あいつは次々と俺に質問攻めをしてきた。
『先生はどういう物を読まれるのですか?』
『史実と魔導書以外の書物に興味はない』
『では、趣味は?』
『刃物の蒐集をしている』
『は、刃物って短剣とか鋏とか……ですか?』
『ああ。手の込んだ包丁やメスも集めがいがある。見た目も良いし、よく切れるからな』
いったい何のつもりだと思ったが、あのはにかんだ表情が俺から拒否権を奪ったのだ。“母親以上の存在”という認識が生まれ、やがて男と女の関係に至る。
『ジャックさん……。このまま、私を──』
『……痛がってもやめないからな』
十四歳の身体に男の性を叩き込み、俺だけの女に仕立て上げた。都合が悪い日は、『お詫び』と言って自ら尽くしてくれた──と言っても、貴様は信じられぬだろうな。
『貴様はもう落書きするな』
『むー! 一生懸命描いたのにー!』
言っておくが、俺は高級な飯しか食わない。庶民の飯など家畜の餌に過ぎないからな。
だが、そんな俺でも例外は二つある。うち一つは、あいつの作る飯だ。あの女にケチャップを持たせればロクな盛り付けにならぬ。それでも最後まで食えたのは、彼女の飯が美味かったからだ。
柄にもないが、あの女は俺を狂わせる程の力を秘めている。赤子のうちに親を亡くし、友に裏切られた俺にとって唯一無二の存在だったからな。
俺もあいつも孤独だったのだ。
だから、ある時は手を取り合ってやった。
だが、やがて俺たちの愛を阻む者が現れる。
ヤツの名は──マリア・ティトルーズ。
『何故貴様が此処にいる』
『彼女には指一本触れさせないわ。それ以上近づくつもりなら……』
『やめてマリア!!』
『シェリー、これは避けられない戦いなの。あなたは離れていなさい』
『そんな…………』
なぜ俺は仇に阻まれねばなるまい? いくら束になろうが無駄だと云うのに、奴らは執拗に噛み付いてきた。
『ルーセの遺族め! 抵抗しても無駄だ!』
『……失せろ』
その時、彼女と会えぬ覚悟が芽生えていた。今でも憶えている──あいつの泣き叫ぶ声をな。
『いや! 行かないで!! ジャック!! ジャックぅぅぅぅうううぅぅうう!!!!!』
「……もし故郷を再建し威光を取り戻せば、あいつとの愛を取り戻せるだろう。そして、魔族を本能のままに生かす──それが俺の望みだ」
無理だ。
その考えを否定するように鞭が撓り出す。
「んうぅ!」
「うふふ、感じてもらえた?」
もうこれで何度目だろう。皮膚に幾ら傷ができようと、アマンダは悦楽に浸って鞭を振り回す。
しかしジャックは一服を終えたのか、アマンダに「もういい」と命令した。
「アレを用意しろ」
「はい」
聖職者が一旦部屋を去り、再び入れ替わる。ジャックは煙草を片手に歩み寄ると、俺の首筋に熱い何かを押し付けてきた。
「んぐぅうう!!! んぅぅぅうう!!!」
煙草の赤く灯る先が痕を刻む。
とめどない熱さに抗うべく、必死に鎖を揺らした。
「そもそも、あいつが本当に貴様を愛していると思うか? この傷だらけの身体を見れば失望するだろう」
違う、シェリーはそんなヤツじゃねえ……!
「何度も口づけを交わせば利用するだろう。その甘ったれた根性をな。本気で受け止める貴様の顔ときたら、なんと無様なことよ」
……これまでの記憶も、全部あいつに見られてたってのか? 冗談じゃねえ。勝手に覗いてイラつくなど、マゾ以外の何者でもねえだろ。
「ジャック様」
「ご苦労」
冷徹な女の声が戻ってくると、煙草を床に棄てて踏みにじる。
彼女の両手にあるのは、翡翠色の丸い宝石だ。掌ぐらいの大きさだろうか。それが何に使われるのか、全く見当がつかない。
「この顔に傷をつけたのも、右腕を食いちぎったのも全て貴様だ。アレクサンドラ、相応の報いを受けてもらうぞ」
ジャックがアマンダの手中から宝石をぶん取ってもなお、彼女は微動だにしない。一方で彼は懐から一本のメスを取り出し、胸の中心に押し当ててきた。
そして刃が皮膚に食い込み、ギチギチという音を立てながら徐々に下がっていく──。
「ごぁぁぁああ!!!!!」
抉られる痛みが押し寄せ、身体が勝手に暴れだす。俺の身体は、何世紀もの間で刃の味を覚えてきた。しかし苦痛がこうも積み重なると、精神が崩れてしまいそうだ……。
「もしあの狼が貴様を拾わねば、こうして出会えなかっただろう。大人しく俺の家畜になれば楽に生きられたものを……」
「んふっ!!!!」
両手で傷をこじ開けられ、鮮血がはじけ飛ぶ。
「どうせ許しを乞うわけでも無いのなら、こうするしかあるまい」
硬質なものが傷口に入り込み、異物感に苛まれる。俺の身体に埋め込まれたのは先程の宝石だ。
翡翠の宝石が灯る刹那。
邪悪な氣が全身に行き渡り、針で突き刺すような痛覚に駆られる──!
「おぉぉおおおおおぉぉおお!!!!!!」
その痛みは、末端や脳髄・眼球にまで広がりを見せた。どんなに瞼を固く閉ざしても、決して逃れる事などできない。
耐えがたい痛みがしばらく続いた末、徐々に収束していく。まるで優越感に浸るように、ジャックは悪意ある笑みを浮かべるだけだ。
「どうだ? “人間でも悪魔でもない存在”になれた気持ちは? 貴様は己が悪魔である事を恨んでいただろう? 望むならそのツノを壊してやってもいいぞ?」
「!!!」
そんなの願い下げだ! 確かに俺は自分の種族を恨んだ。でもそれは昔の事だ!
俺はティトルーズ王国の平和を取り戻し、シェリーを幸せにするって決めてるんだ!! こんなところで余生を過ごすなど、絶対に……!
「加えておくが、くれぐれも『ミュール島の連中を救おう』とは思わぬことだ。降伏勧告に従わなかった報い、つまり因果応報だ。如何なる奇跡を以ってしても、奴らの身体や肉親は決して戻らない」
「あの女ったら、『もし奇跡を使わねば付き人は始末される』と脅すだけですぐ呑んでくれたもの」
アマンダは俺に視線を移し、言葉を続ける。
「アレクサンドラ。明日はその目に焼き付けておきなさい。花姫としての生を捧げ、銀月軍団の一人となる彼女を!」
こいつら、どこまでも腐ってやがる……。何としても彼女を助けねば!!
なあシェリー、お前は今どこにいるんだよ……!
「全てのミュール族が兵器になる日は近い。もはやシェリーも貴様のような落ちこぼれに構うはずがあるまい! ふははははは!!」
許せねえ。絶対に許せねえ!!!!
こんな事して、タダで済むと思ってるのかよ!
「悪魔ならざる者よ、今後は俺達が調教してやろう。今宵はそこで余韻に浸っていろ」
「じゃあね。また遊んであげる」
おいお前ら、どこへ行きやがる!!
くそっ、くそ!!!
今すぐにでも行かねえと、あいつがどうなっちまうのか判らんってのに……。
俺の生き様は、此処で途絶えるのか?
お前、『彼女を守る』って決めただろ!
『この力を国や皆のために使う』って決めただろ!?
こんなとこでへばってて良いのかよ……。
そんなの、良いわけが……。
「────っ」
視界が滲み、涙が零れゆく。男の俺がこんな事で泣くなど、本当に無様だな……。
ごめんな、シェリー。
俺は、隊長──いや、専属騎士として失格のようだ。
(第五節へ)
ジャックが愛する庶民の味──もう一つは、今は無きカフェ“ルミノーソ”の料理だ。決して高級食材を用いては無いものの、革新的なファッションセンスを持つオーナーに惹かれて訪れていたと云う。
孤高を貫くジャックにも気さくな態度を見せたオーナー。しかし、シェリーと別離を経てからの交流関係は明らかになっていない。
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