「悪く思わないで。この戦いに、あの子の命が懸かってるの」
言葉の端々から伝わる敵意。
だが、俺は見逃さなかった。その蒼い瞳の奥が、蝋燭の如く揺らめく瞬間を。
薄紫の鎧に身を包み、引き締まった脚をスリットから覗かせる女。赤橙のウェーブヘアを靡かせる彼女は、他ならぬアイリーンだった。
隣に立つは、彼女を慕う副メイド長クロエ。二人は武器を持たず、しかし構えを取ったまま俺達と向き合っていた。
そんな彼女らと向き合う一人──ヒイラギは、この緊迫した状況を愉しんでいるかのようだ。
「うちらも随分と舐められたものだな」
「むしろ一斉に追い込めるチャンスよ」
傍らに立つエレが妹に向かって淡々と答える。周囲にいるアンナやジェイミーもクロエと向き合い、戦闘態勢を取っている。
「皆、此処は下がって。後は自分たちで始末するわ」
「「はっ!」」
メイド長であるアイリーンは、自分たちに跪くメイドたちに命令をする。先程まで俺達を迎撃していた彼女らは直ちに退き、各々の持ち場に戻った。城内に入る者から裏庭にまわる者、門の近くに立つ者まで──俺達は再び戦う事になるだろう。
「良いのかい、メイドさん? こっちは四人、あんたは一人だ。俺様たちが桁違いな力を持ってるのは判ってるんでしょ?」
「いくら束になろうと、私たちには負けられない理由があるのです……お覚悟っ!!」
クロエは暗緑色の翼を広げ、前方へ跳躍。ジェイミーも彼女を追うことで戦いは始まった。
その一方で、何かが俺の顔に迫りくる。それはアイリーンの拳であり、間一髪で後ろへ避けた。
「幻爪!」
アイリーンの両手が、一瞬紫の霧に包まれる。その霧が晴れた頃には、人間の上半身を抉れる大きさの鉤爪が現れた。
「はぁああ!!」
アイリーンは身体を回転させながら突進。俺が左へ大きくステップする最中、彼女は既に地に足をつけていた。
それから、地面を思い切り蹴り上げる。つま先で描かれた弧がそのまま衝撃波に変わり、高速で俺に襲いかかる!
「うぁっ!」
くそ、なんて速さだ……。模擬戦闘でも彼女は十二分に強かったが、その時よりも格段と手強い。
宙へ放り投げられた俺は、アイリーンの追撃を許す事となった。
「今の貴方は無力なの。それを思い知りなさい」
『無力』──それが、今の俺にはお似合いの言葉だよな……。
同じく宙を舞う彼女は、俺に絶望を叩きつける。視界がモノクロームになったのが運の尽き。強い衝撃が、次々と全身に圧し掛かってきた。
殴る、蹴る、殴る、殴る、殴る、蹴る、殴る、蹴る。
そして──
「ぐぉおおおっ!!」
身体は急降下するや、背中が石畳の上で引きずられる。打撲だらけの俺には、もはやどうする事もできなかった。
「殺す気で挑みなさい。それ以上手を抜いたら、本当に息の根を止めるわよ」
仰向けで倒れる俺に対し、アイリーンは冷ややかな視線を降り注ぐ。
彼女は俺が反撃しないのを良い事に、跨って俺の首を絞めつけてきた。
「あ……がっ……!」
「憎いでしょ? あれだけ貴方を愛していた自分が、今こうして殺そうとしてる事を!」
なんで……そんなこと言うんだよ。
瞳の奥に秘めているのは、殺意なんかではない。悲しみだ。陛下を人質に取られ、こうして同士討ちをしなければならないのだ。
この醜い争いを止めるには、多少たりとも痛みを与える他ない──!
「ふっ!!!」
親指を掴み、アイリーンを横に倒す。その隙に立ち上がり、のたうち回る彼女を見下ろした。これで追い打ちを掛けられたら如何に楽な事か。
「此処で倒れたら、あの子の命が……!!」
焦りを吐き、すぐに立ち上がるアイリーン。
その一方で、背後からアンナの怒声が聞こえてきた。
「クロエさん、もうやめて!! こんな事したって意味ないよ!!」
しかし、本人の耳には届いていないのだろう。直後、アンナの悲鳴とジェイミーの気遣う声が重なる。彼女らの状況も気掛かりだが、今はそれどころではない。
俺とアイリーンが間合いを取ると、張り詰めた空気が流れる。無論、彼女が切り出した言葉は、決して仲間としてのそれでは無かった。
「教わらなかったの? 『殺られる前に殺る』って。貴方は今、裏切り者に殺られようとしているのよ」
「……俺は死んでも殴らない。例え敵対してもな」
「…………!!」
息を呑むアイリーン。彼女は一瞬目を見開かせたと思いきや、拳を震わせ──。
「なら、手加減は……しないわっ!!!」
悪魔のような形相で迫り、右ストレートをかます。俺の頬に激痛が重なろうと、不思議と殺意が生まれなかった。
「まだよ!」
どんなに殴られても、どんなに蹴られても、
反撃など絶対にしない。
「女に殴られて、悔しいんでしょ!? さあ! 早く自分を殺してみなさいよ!」
どれくらい血を吐いたことだろう。
殴られすぎて、顔が相当歪んでるかもしれない。
でも、これで良いんだ。
もともと女を殴る趣味は無い。もし鬱憤が積もっているのなら、今ここで砂袋になっても構いやしない。
今の俺は、もしや死ぬ直前なのだろうか。
そう思わせるかのように、彼女との記憶が鮮明に甦る──。
『ようこそお帰りなさいました。自分はティトルーズ家のメイド長“アイリーン”と申します』
城へ戻ったのは二十数年ぶりの事だ。この庭園で彼女らと殴り合うなんて、誰が予想した事だろう。
眼鏡越しに映る、凛とした眼差し。淡々とした声と、上品な立ち振る舞い。まさに淑女という言葉がお似合いだった。
『早速ですが、只今より両陛下にお会い頂けますでしょうか? 自分がご案内いたします』
『良いぜ、よろしく頼む』
初めて彼女と会ったのは四ヶ月前だと云うのに、まるで昔の事のように思える。はっきり言って『堅物』というイメージだったが、それを突き崩したのは何時の事だろう。
『おい、何す──』
ヴェステル迷宮でアイリーンを救出した頃かもしれない。帰還の宴で人気の無い場所へ連れていかれ、唇を重ねるハメになった。──もし俺がシェリーと出会わなければ、そのまま交わる事も有り得たかもしれない。
だが──。
『自分はね、男性も好きだけど可愛らしい女性も同じように好みなのよ』
彼女には大切な存在がいた。
主としてだけでなく、まるで義妹のように大切な存在が。
マリアは、俺のために想い人を譲ってくれたんだ。だとすれば、俺ではなく彼女に寄り添うべきではないか。
給仕服を脱ぎ捨てたアイリーンは、どんな男も射止める程に美しい。
だからこそ、もう俺に“女”を見せるべきではないんだ。
やっぱり俺にとってお前は、かけがえのない隊員なんだよ──!
「はあ、はあ……」
気づけば俺は、彼女に再び馬乗りを許していた。非常時だと云うのに、今はその乱れた吐息すら艶やかだ。
「なぜ、反撃してこないの?」
「……お前も、仲間だからだ」
声を出すことすら難しいが、なんとか振り絞ってみる。するとアイリーンが動揺を見せ、自分に嘘をつくように吃りだしたのだ。
「よく、そんな事言えるわね……! 自分は花姫の力を……いいえ、お嬢様の力を利用したのよ。そんな存在を仲間と呼べるとでも?」
「あたり、めえだろ……それと、」
自身の鼻腔から、生暖かいものが垂れる。激痛に支配されようが、これだけは彼女に伝えたかった。
「お前は、主に添い遂げろ……誰よりも大事、なんだろ?」
その時、熱のこもった何かが俺の頬に落ちる。
ぽつり、ぽつり──と。雨のように滴り、ついに彼女の声を震わせる。
「……自分が、いけないの……。この気持ちは、あの子には絶対に届かないって……だから、貴方で満たそうとしてた……」
「良いさ。お前さえ満足してくれりゃな」
ああ、やっと素顔を見せてくれた。都合の良い男として見られた事なんざどうでも良い。それ以上に、本当のお前が戻ってきてくれて嬉しいんだ。
喜びが心に染み渡り、俺の涙腺が緩みだす。だから俺は敢えて歯を食いしばり、彼女の頬にそっと触れた。
「ありがとう、アイリーンちゃん。次こそ、きちんと主に伝えろ」
「……ごめんなさい……!」
……素直なお前も、すげえ可愛いじゃん。
そう思った直後、視界がやがて白くなっていく。
霞む視界の中でアイリーンは立ち上がり、俺を見つめるのみ。クロエはそんなマスターに気付いたのか、何度も呼び掛けていた。
「マスター、何故手を止めるのです!? マスター!!」
「……自分たちの負けよ、クロエ。結局、この悪魔には勝てなかった」
「そんな──!」
俺の元へ駆けつける複数の気配。彼らは俺を囲った後、誰かの温もりが上体を抱き上げてくれた。
「アレックス様! しっかりなさって!! アレックス様ぁぁああ!!!」
「大丈夫だ! 俺様に任せな」
今度はエレの涙が顔に当たり、ジェイミーが胸元に触れる。
俺の全身は翠色の光に包まれ、全ての傷がたちまち癒えていった。
薄れていく意識が戻り、視界が晴れやかになる。
そこにはアンナらが不安そうに俺を見つめていた。
「ヴァンツォ……」
同じく物憂げに見つめ、俺の名を呼ぶヒイラギ。誰もが俺を気に掛けてくれるのは嬉しいが、そろそろ次に移行しなければならない。
皆に「ありがとう」と一言告げて立ち上がった矢先、アイリーンとクロエも歩み寄る。クロエは罰を受けたような表情を見せ、深くお辞儀をしてきた。
「隊長、および花姫の皆様……この度は、不躾な真似をした事を深くお詫び申し上げます」
「お互い様だ。それより、ルドルフとルナちゃんが暴走したってのはホントか?」
俺がクロエに尋ねると、アイリーンはいつもの冷静なトーンで答える。
「ええ。現在、陛下は皇配殿下の部屋で監禁されています。しかし、殿下は自室の鍵をお持ちのまま、プール室に立て籠もっている事でしょう。プール室の鍵を入手するには、食堂にいる騎士団長を倒さねばなりません」
「……そんなの、嫌だよ……」
ルナの親友であるアンナは俯き、唇を噛み締める。その瞳からは今にも涙が零れそうだった。
「ボク、ルナを殺したくない。あの子は話をすればきっと判ってくれるはずだよ……!」
「残念ながら、その見込みはないの。貴方達が部下たちの目を覚まさせたように、彼女にも雷を与えなければいけない」
「だったら、その役目は俺に任せてくれ。シェリーを傷つけたあの男を一発ぶん殴らねえと気が済まねえんだ」
俺は自分の胸を拳で叩き、周囲を見つめる。初めは仲間との戦いに気後れする者たちだったが、次第に確信の眼差しを注ぎ始める。
「その状況だと、アイリーンちゃんもマリアちゃんも通信機で連絡取れそうに無いんだろ?」
「はい。自分たちの通信機は、殿下が管理しています。もし隊長を殺せなかったら、『彼女を棺の中に収める』とも」
ん? ルドルフが部下たちに俺を殺すよう命令?
疑問に思った俺は、更にアイリーンに尋ねてみた。
「なぜ俺はルドルフに殺されねばならない?」
「それはジャックの企みだろう。此処の連中が洗脳されたなら、その大元も狂わされてるはずだ。察するに、うちらがエク島へ向かった時に冒されたかもしれん」
「「あっ……!!」」
アンナとエレが驚愕の声を漏らす中、ヒイラギは推察を続ける。
「なんせあの病んだ令嬢の兄だ。ジャックはマリアへの執着心に目をつけ、力を授けたに違いない。その一方で、シェリーがヴァンツォを連れてミュール島へ向かう事を把握していた。……全ては、あんたを殺すための計画だ」
「納得がいくぜ。腹立たしいくらいにな」
どおりで力を封じられたわけだ。随分と頭が回る男だぜ……。けれど、こうしている間もマリアの命は危険に晒されている事だろう。
同行者を誰にしようか考えていると、アイリーンとちょうど目が合う。彼女も察したのか、俺にこんな事を提案してきた。
「自分と隊長で、騎士団長と殿下を止めましょう。他の者は部下を叩き起こしてきて」
「良いさ。此処の連中はなかなか手応えがあるし」
「アレックス、ルナにはどうか──」
「判ってる」
嬉しそうに頷くジェイミーに、俺の手を握り締めるアンナ。俺は彼女らに挨拶をすると、今度こそアイリーンと一緒に大扉へ向かった。
「覚悟はできてる?」
「ああ」
彼女は深呼吸をしたあと、両手で重い扉を開ける。
エントランスで待ち構えるのは、複数の使用人たち。彼らは冷淡に声を揃え、いつも通りの挨拶を述べた。
「「お帰りなさいませ、マスター」」
──その手に、銃器を添えて。
(第三節へ)
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