「本気で好きな子ねぇ……」
バーのカウンターで一人。昨夜の里美の言葉を思い出して、誰の耳にも届かないほどの声でポツリ呟く。
俺がまた、誰かを本気で好きになる事なんてあんのか?
自問する俺の中に浮んだのは古い記憶。遠い昔、一度だけマジになった女が脳裏を掠める。
本気な素振りを見せておきながら、その実、俺のバックボーンしか見ていなかった過去の女。今更思い出してもムカツキはしないが、いい気分にならないのも確かだ。
全く、里美のせいで余計なものを思い出しちまった。
それもこれも、割り切った女だと思っていたアイツが、見たこともない幸せそうな顔で、らしくないことを言うからだ。里美に愛情があった訳じゃないが、同じ人種だと思っていたアイツの変わりようは、少なからずとも俺に衝撃を与えていたようだ。
お蔭で、土曜だと言うのに適当な女を呼ぶ気にもなれず、一人こうして飲んでいるのだから、この俺もらしくない。
くだらない記憶と、らしくない自分を掻き消すように、琥珀色の液体を体内に流し込む。空になったグラスの中で、透明な固体がカランと音を立て、同じものをバーテンに頼んだ。
たまには一人酒に酔いしれるのも悪くない。そう思った時だった。
「もう終わりにしたいんだけど」
面倒な局面にありそうな女の声が、カウンターの端から聞こえてきた。
「他に好きな男でも出来たのか?」
「おかしなこと言わないでくれる?」
「じゃあ、理由は何なんだよっ!」
少しずつ大きくなっていく男の声が、聞きたくもないのに耳に入って来る。
「何か勘違いしてるみたいだけど、好きな男なんて初めからどこにもいないけど?」
対して女の声は至って冷静だ。男もそう熱くならずに、さっさと別れてやりゃあいいものを。露骨に冷めた態度を取っている女が、気持ちを覆す気は全くないって意思表示を察してやれって。
「俺はお前のこと本……」
「まさか本気だなんて言わないわよね? 数回しか会ったこともなければ、本音で話したこともないのに、見た目で本気になられても困るんだけど」
先を言わせない女の気持ちは良く分かる。でも見た目でって、一体どれだけいい女なんだ?
少し興味が湧くものの、修羅場な場面にあからさまな視線を向けるわけにもいかない。
それより、男の言葉を遮って言う女の科白は小気味良いが、あまり度が過ぎると男に殴られるんじゃないかと、そっちの方が気になった。
────って、他人に気を取られてる場合じゃなかったらしい。
奥の端に座るカップルに、いつの間にか意識を集中させてしまっていた俺は、近付いてくる足音を聞き逃していたようだ。
背後に気配を感じ取り振り向くと、そこには見覚えのある女が立っていた。
見覚えはあっても名前が思い出せない女。恐らく、面倒になって連絡を断たった女だ。
「敬介君にここで会えるとは思わなかった。私、ずっと連絡待ってたんだよ?」
人の修羅場を心配するどころの話じゃない。とりあえず、先に名前を名乗ってくれるか? などと到底口に出せるはずもない願いを内心で呟く。
「ねえ、どうして連絡くれなかったの?」
女は微かに声を震わせ、俺をジッと見る。ずっと待っていたと強調するように、そして、責めるように目線を逸らそうとはしない。
「ごめん、忙しくて」
「嘘!」
嘘だと速攻で見破ったのなら問い詰めてくれるな、と言うのが本音だ。
俺は勝手に近付いてくる女には手は出しても、自分から声をかけて誘いはしない。そう言うつもりで近付いて来る女の方が、面倒が少ないからだ。
この女だって自分から誘ってきたはずだ。欲を満たす為に自分から近付いておきながら、関係を持った途端、それ以上のものを求めて勘違いされても困る。
俺も、さっきのカップルの女のように、ハッキリ言ってみるか!
──いや、ダメか。
言えたら楽だが、そうは簡単にはいかないだろう。どうせギャアギャア喚かれ泣かれるのがオチ、底なし泥沼行き確定だ。
「悪かった」
「謝って欲しいわけじゃないの。また会って貰えればそれでいいの」
それが出来ないから謝っていると、理解しては貰えないだろうか。この手のしつこい女は苦手だ。
どうやって、この危機的状況を脱するか、と思案を重ねていた時。先程まで気に留めていたカップルの一人である理解力のない男が、背後を通り過ぎ店を出て行った。
小気味良くぶった切っていた女は、どうやら大事に至らず別れられたようだ。
「敬介君、お願い。また会ってくれる?」
自分の状況を一瞬忘れ、顔も知らない女の心配をしていた俺に迫って来るのは、名前が一向に思い出せない女。
「悪い。もう会えない。ごめんな」
「どうして?」
「今、本気で惚れてる奴いるから」
頼むからこれで納得してくれ!
そんな俺の願いは、残念ながら届かないらしい。
隣に腰を下ろし唇を噛締め俯く女は、どうしても認めたくないらしく、声を低くして俺の言葉を否定する。
「嘘だよね? そんなの信じないから」
最後は俺に睨みまで利かせる有り様だ。
そりゃ、嘘はついているが、お前と付き合ったつもりはないし、そんなにムキになられる筋合いもない。お互い了承の上で一時を楽しんだんだから、それでいいだろ! と、思いを隠し、
「嘘じゃない。本当だ」
嘘の上塗りで貫き通すしかない。
「その人、ユリより綺麗な人?」
信じないと言いながら本気の女を知りたがる矛盾。
感情的になっているのは、自分に自信があるだけにプライドが許さないってところか。
まぁ、見た目は確かに綺麗な方なんだろうけど……。
それよりお前、ユリって言うんだな。
やっと名前が分かったのは良いが、このユリって女に何て答えるべきか。ここは泣こうが喚こうが、下手に機嫌を取ってつけ上がらすより、お前より綺麗な女だって言った方がマシか?
頭を高速回転で働かせ、答えを導き出そうとした俺に、不意に届いた促す声。
「敬介、はっきり答えてあげれば?」
だよな。ハッキリ言ってやって、騒がれたら店を出りゃいいんだもんな。
って……ん? 待て。今の声、誰だ?
敬介だと?
ユリじゃない。ユリが放った言葉じゃない。ユリが言うには可笑しな流れだ。
背後から聞こえた高い声音と凛とした口調には、聞き覚えがあった。それも最近。いや、ついさっきだ!
この声は、さっきまでカウンターの端で男と揉めてた……女?
俺はゆっくりと振り返ると、あまりの驚愕に立ち上がり、そして、固まった。
「ねぇ、敬介君。その人なの? その人が敬介君の───」
「そ。だから諦めてくれる?」
固まる俺に代わり、ユリに最後まで喋らせるのも許さずに答える女。
その女を俺は、有り得ないほど見開いた目で見下ろした。
「……ホントなの?」
何度訊ねられてもユリの言葉は俺の耳には届かない。
いや、違う。正確に言えば聞こえちゃいるが、そんな事どうでもいい。この際どうだっていいんだ。
「本当よ。だから私の男、もう返して欲しいんだけど」
俺を無視して挑発的にユリに絡む女に、自分を取り戻し声を発した刹那───。
「おまっ……っ!」
白く細い腕が伸び、俺の首に絡まるや否や。言葉は瞬時に呑み込まれた。
強制的に柔らかい感触で塞がれた俺の唇には、女からもたらされる高い熱が伝わってくる。
抵抗も出来なかった一瞬の出来事。振り払わなかったのは、ユリの手前もあるが、それより何より、やはり驚きが上回って、冷静な思考をめぐらせずにいたからだ。
首に回した腕を解く事無く、徐々に柔らかい感触だけが離れていく。重なり合ってたものが完全に離れると、女は潤んだ瞳で俺の唇を見つめ、それを指でそっと拭った。
そして、ユリに気付かれないように、『シーッ』と、声を出さずに口だけ動かすと、小悪魔的な笑みを浮かべて俺を見る。
たった数分の出来事に俺の頭はついて行けず、ユリの存在も忘れて、目の前の瞳にだけ、ただただ意識は囚われていた。
「いつまで見てる気?」
囚われていた俺に向けた台詞じゃない。ピッタリ俺に寄り添った女が、黙って立ち尽くしたままのユリに投げつけた言葉だ。一緒にいた男と別れ話をしていた時と同様。女の声は冷静そのものだ。
その女の声に、ハッとしたような顔を見せたユリは、次には悔しそうに眉を顰めると、何も言わずに俺達に背を向け立ち去って行った。
敵うはずがないと思ったのだろう。俺に寄り添う女に。
自分より綺麗かと訊ねたその答えを、ユリ自身が目の当たりにして理解したのだろう。この女が相手じゃ敵わないと。
ユリには女の連れがいたらしい。ドアに向かって走るユリの後ろを、慌てた様子で連れの二人が追いかけて行った。
「やっと諦めたね」
ドアの向こうに完全に消えた姿を見届けて、俺から離れた女。
ユリが何も言えずに去らざるを得ない程の綺麗な笑みとこの衝撃に、俺さえも言葉を失う。
「あっ、これ頂戴。喉渇いた」
なのに、こいつと来たら、人の気持ちも知らずにマイペースで俺が飲んでた酒に手を伸ばし……って、待て!
「おいっ、こら! お前ダメに、」
「ここで騒いだらまずいんじゃないの? お互いに! それとも、また口を塞いで欲しいとか? マウス・トゥ・マウスで!」
俺の唇に人差し指を押し当て、口封じしながら余裕綽々で話しやがる!
まるで、『ホラね、何も言えないでしょ』と、言わんばかりの心の声を届けるように、チラッと潤んだ瞳で俺を見て、挑発的に酒を口に運んでいる。
────どうしてコイツにイニシアチブ取られてんだよ。ダメだ、このままじゃ!
自分に気合を入れ、盛大に溜息を付いてから、コイツの手の中にあるグラスを奪い取った。
「これはダメだ!」
グラスを奪った俺に反発こそしなかったが、「はいはい」と、返事をする言い方は、人をバカにしているのが丸見えだ。
「それより、お前。全然違うじゃねぇかよ!」
隣にいる俺の声が聞こえないはずはないのに軽くスルーし、彩られた指先を弄っている。
「それに何であんな事した?」
「うん? あんなことって、キスしたこと?」
まるで大した事でもないように、首を傾げ平然と答える。
「……あ、あぁ」
俺にとったって大したことじゃない。が、コイツは別だ。俺が遊んでいる女とは訳が違う。そう思うと、自然とどもってしまうのは無理からぬことだった。
「あれは、昨日のお礼の気持ちが半分」
「昨日?」
あ?……あの事か?
「キスされそうになったの、助けてくれたでしょ?」
あの時は、未遂とは言えショックを受けていたコイツが……。ショックを受けていたように見えたコイツが……。戸惑う事無く人前で自らキスをして、今もまた、潤んだ瞳のまま僅かな笑みを浮べて俺を見る。
────本当に同一人物か?
これがあの優等生……、水野奈央なのか!?
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