すっかり現状を忘れて、女二人で楽しく二日過ごした幸恵と泉は、東海道新幹線で新横浜まで来てから、在来線に乗り換える為に駅構内をのんびりと移動していた。
「泉さん、体調は大丈夫ですか?」
「ええ、平気よ。強いて言えば、ちょっと食べ過ぎたかしら?」
「それなら良いんですが」
思わず苦笑してしまった幸恵に、ここで泉が顔付きを改めて慎重に言い出す。
「それはそうと……、幸恵さんに話しておきたい事があるんだけど」
「何ですか?」
「和臣君の事。やっぱり怒ってるでしょう? 篤志さんから嫌がらせされた時、はっきり意思表示しなかったから」
困った様にそんな事を言われた幸恵は、納得できない事があるのは確かな為、曖昧に言葉を濁しながら応じた。
「まあ、それは……、でもあいつにもそれなりに立場とか、身に付いた習性が有るでしょうし……」
「それはそうでしょうけど、だからと言って、和臣君が幸恵さんの事を、蔑ろにしているわけでは無いと思うの」
「はぁ……」
「今回は私達の私的な事で迷惑かけておいて、こんな事を言うのは心苦しいけど……。落ち着いたら、幸恵さんから連絡を取ってあげてくれないかしら?」
申し訳なさそうに縋る様な視線で言われて、幸恵は邪険に突っぱねる事も出来ず、諦めて頷いた。
「分かりました、そうします」
「良かった」
(ここら辺が、折れ所って事なんでしょうね)
安堵して微笑んだ泉を見ながら、幸恵も和臣に対して頭を下げる理由ができた事で何となくほっとした。しかしどうしても一言、泉に突っ込んでみたくなる。
「でも泉さんに取っては、何歳になっても和臣は可愛い弟なんですね」
「そうね。随分格好良くはなったけど、手のかかるいたずらっ子のイメージが強くて」
「今でも、人間性は変わっていないと思いますよ?」
「確かにそうかもしれないわ」
そんな事を言い合って笑い合ってから、幸恵は電車が来る時間と現在時刻を確認しつつ、泉に断りを入れた。
「じゃあ、あと徒歩も含めて四十分強で実家に着くので、ちょっと電話しますね」
「ええ」
そしてホームの片隅で幸恵はスマホを取り出し、切りっぱなしだった電源を入れた。すると起動したディスプレイに電話とメールの着信があった事を知らせるアイコンが浮かび上がったが、それを無視して暗記している実家の電話番号を押す。すると大して待たされずに、聞き慣れた義姉の声で応答があった。
「はい、荒川です」
「あ、香織さん? 幸恵ですけど」
「幸恵さん!? あ、えっと、連絡を待ってた、……え? あ、ちょっと!」
名乗った途端、何故か驚いた様な香織の声に続き、電話の向こうで何かが派手に倒れる音や、誰かが言い争う様な声が微かに伝わって来た為、幸恵は首を捻った。
「香織さん? 今背後で、何か物音とか話し声がしましたけど、どうかしたんですか?」
「ええと、それが……、ちょっと積み上げてあった雑誌が崩れて、それが偶々、テレビのリモコンの上に落ちて、音量が一時的に大きくなっちゃって……。ごめんなさいね、五月蠅くて」
「もう~、また兄さんが適当にまとめていたんでしょ。香織さんが妊婦だってのに、気を付けなさいって言おうかしら」
本気で腹を立てた幸恵だったが、香織は幾分焦った様に話題を変えてくる。
「それより、昨日話があったお友達を連れて、今こっちに向かっているのよね?」
「はい、一応連絡しておこうかと思って」
「大丈夫よ。泊まって貰う準備はしてあるし、夕飯も人数分作ってあるから、遠慮無く来てね?」
「ありがとう、香織さん。後四十分位で着きますから」
「お義母さん達に、そう伝えるわ。気を付けて来てね」
そして香織と和やかに会話を終わらせた幸恵は、スマホをしまい込んで満足そうに頷いた。
「さてと。ここまでは順調よね。じゃあ行きましょうか」
そこでホームに滑り込んだ電車に泉を促しつつ、幸恵は自分も乗り込んで久しぶりの実家に向かった。
「ただいま~」
「幸恵さんいらっしゃい」
玄関を開けつつ明るく挨拶した幸恵を、笑顔の香織が出迎えた。幸恵はそんな彼女の反応を心配しつつ、背後に控えている泉を見える様にして、簡潔に紹介する。
「香織さん、こちらが暫く泊めて欲しい、君島泉さんです」
「香織さん、初めまして」
そう言って礼儀正しく挨拶した泉だったが、香織は動揺する事無く笑顔で頷き返した。
「こちらこそ宜しく。でも、何か変な感じね。確かに何度も話しているけど、泉さんとは初対面の筈なのに、初めて会った気がしないわ」
「私もです。香織さんは、これまでイメージしてきた通りの女性ですし」
「良かった。期待外れだなんて思われたら、どうしようかと思ってたの。さあ、取り敢えず上がって頂戴」
「お邪魔します」
そして問題なく上がり込んでから、幸恵は少し釈然としない思いで香織に囁きかけた。
「香織さん。泉さんと幾らか交流は有ったにしても、いきなり君島家のお嫁さんを私が連れて来て、驚かないの?」
その問いかけに、若干困ったような顔をした香織だったが、すぐに正論らしき事を口にした。
「ええと、訳ありなんでしょう? それに玄関先で立ち話する内容じゃないと思うし」
「それはそうですけど」
幸恵は(香織さんって、思った以上に豪胆な性格だったらしいわ)と密かに感心しつつ、香織と泉が簡単にここまでの旅程などについて話している後に付いて歩き出した。
「正敏さん、お義父さん、お義母さん。幸恵さんと泉さんが到着しました」
襖を開けながら香織か室内に声をかけると、今の中に居た健と信子が、泉に愛想よく声をかけた。
「やあ、遠い所から、わざわざ大変だったね」
「いらっしゃい、泉さん。幸恵、あんた泉さんを引っ張り回して無いでしょうね? 香織さんから聞いたけど、ほぼ同じ月数の妊婦さんなんでしょう?」
「いえ、幸恵さんには色々と気を遣って貰いましたので」
「そう? それなら良かったけど。大事にしないとね」
「ありがとうございます」
ここにどうして泉が居るのかという理由には触れず、取り敢えず歓迎の言葉をかけた両親に、幸恵はほっとした。しかしさっそく泉と和やかに会話している両親とは裏腹に、正敏が一人神妙な顔付きで黙り込んでいるのに気が付いた幸恵は、その前に座って尋ねてみる。
「ただいま、兄さん。何か静かだけど、どこか具合でも悪いの?」
「お前って奴は……、本当に昔から予想の斜め上を行く奴だったが……、いや、なんでもない」
何やら自分に対して悪態を吐きかけ、自分の背後に目をやって急に黙り込んだ正敏を見て、幸恵は不審に思った。そして何気なく兄の視線を追ってみた幸恵は、そこににこにこと笑っている香織の姿を認める。何となく目が合ってしまった幸恵だったが、香織は何事も無かったかのように微笑みかけてから、手早く淹れてきたらしいお茶を皆に配りつつ、話を進めた。
「お茶を淹れてきましたので、どうぞ。それから泉さん、今回こちらに来た訳を、私達に話して貰えるかしら?」
「はい、そうですね。まずそれをお話ししないと」
「焦らないで。お茶を飲んでからで構わないから」
瞬時に真顔になった泉を信子が苦笑気味に宥め、泉は茶碗のお茶を半分ほど飲み終えてから、ゆっくりと順序立てて話し出した。
君島家に到着早々から幸恵が陰で篤志から嫌がらせを受け、自分はそれに当初、気が付かなかった事。その後気が付いて夫を窘めたら、初めて夫婦喧嘩をしてしまった事。更には娘に意見されて暫く頭を冷やす為に、幸恵の協力を得て家出を決行してしまった事を話し終えた泉は、荒川家の面々に向かって深々と頭を下げた。
「この度は、幸恵さんに不快な思いをさせた挙句、ご面倒をおかけして申し訳ありませんでした」
その真摯な謝罪の言葉を聞いて、幸恵は本気で焦った。
「泉さん! 何度も言いましたけど、それは泉さんが負い目を感じる事じゃありませんから!」
「そうそう、幸恵が嫌がらせされたそもそもの原因は、ばあちゃんの四十九日の時に和臣に泥水ぶちまけて、篤志さんを激怒させた事なんだし、言わば自業自得ですから」
「しかし、仮にも県会議員がやり口がせこ過ぎる。どうせなら門の前に《暴力女は立ち入り禁止》とでも、どでかい看板を掲げる位の豪胆さがあって良いかと思うがな」
「あら、やっぱり議員さんなんだから、周囲の目が気になるんじゃない? 寧ろここは、泉さんに正直に『どうしてもあいつが気に入らないから協力してくれ』と話して、協力を仰ぐべきだったわね。奥さんに秘密裏に事を運ぼうとするのは、やっぱり間違っていると思うわ」
唖然とする泉の前で、好き勝手に言い合う家族を見て、幸恵は思わず地を這う様な声で尋ねた。
「……父さん母さん兄さん、私が嫌がらせされた事は、問題ではないと?」
「お前、それ位でへこたれないだろ?」
「その挙句、奥さんを連れて逃亡とは、意趣返しのつもりなんだろう?」
「篤志さんへの嫌がらせとしては、最高よね」
淡々とそんな事を言われて、幸恵と泉は顔色を変えて挽回した。
「とっ、逃亡って何!? それに意趣返しだなんて、欠片も意識した事無いんだけど!」
「いえ、幸恵さんは嫌がらせなんかじゃなくて、ただ私に同情してくれて!」
そんな二人の言葉を、健が苦笑交じりに遮った。
「まあ、きっかけがどうあれ、滞在先をここに選んでくれて良かったと思いますよ? 遠慮なんかしないで、好きなだけここでゆっくりしていって下さい」
「え? あ、あの……」
穏やかな表情で宥められて、泉は面食らった。更に健の横から信子が相槌を打ってくる。
「そうそう、夫婦喧嘩なんてね、幾ら繰り返してもおかしくないんだから。初めてそんな事になって動揺して、出た先で事故とかにあったら大変だもの。君島さんからお電話を頂いた時に、時々泉さんの事を『夢乃の言う事を良く聞いて、頑張っている嫁です』と聞いて、夢乃さんも大事にしてるんだろうなと思っていたし」
「そんな……、私なんか、お義母さんにご迷惑をかけてばかりで……」
思わず涙ぐんでしまった泉だったが、そこで突然健と信子が、明るい口調で言い出した。
「妹の大事な嫁なら、俺達にとっても身内も同然という事ですよ。……さて、そうと決まれば、一応、筋を通しておかんといかんな」
「そうね。地元で駆けずり回っている人達も、気の毒だしね」
「は?」
「ええと、何?」
戸惑う泉と幸恵の前で、信子が固定電話の子機と備え付けのアドレス帳らしき物を夫に渡すと、健はすぐに目的の番号を見つけて早速電話をかけ始めた。
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