二月十三日。職場の周りは殺風景なビジネス街でも、地下鉄一駅分を歩けば商業地である事から、幸恵は最寄り駅から一駅歩いてデパートに立ち寄った。そして目的の物を購入してから、駅への連絡通路に向かって歩き出す。
(別に……、大した意味は無いのよ? 職場であまりギスギスするのは嫌だから、偶には手頃な義理チョコを買おうと思っただけだし。そのついでに、なんだかんだと色々貰ってるから、一応感謝の気持ちを表してみようとか、そういう事で……)
自分自身に言い聞かせる様にそんな事を考えながら歩いていると、唐突に声がかけられた。
「幸恵? こんなところで奇遇ね」
いつの間にか並んで歩いていた同期の秋月清実に、幸恵も若干驚きながら言葉を返した。
「あ、清実、久しぶり。ここには買い物で?」
「ええ。職場で配る義理チョコを買いにね。それはそうと……、幸恵も買いに来たの?」
歩きながらもさり気なく手に提げている紙袋を見た清実が尋ねてきた為、有名なチョコメーカーのロゴ入り紙袋では誤魔化しようが無かった幸恵は、正直に認めた。
「まあね。でもそんな変な顔をしないでよ。悪い?」
些か気分を害しながら幸恵が尋ねると、困惑しているのがありありと分かる顔付きをしていた清実が慌てて手を振る。
「良いとか悪いとかそういう事じゃなくて……。幸恵、入社した年から言ってたじゃない。『義理チョコなんて馬鹿らしいし、女は私一人だけだから負担が大きいし、媚びへつらう感じがして嫌だ』って。だから義理チョコなんて配って無かったと思うけど、それを配るのよね。どういう心境の変化?」
「どういうって……。それはまあ、あまり突っぱねるのもどうかと思うし、お金をケチってると思われるのも嫌だし、物は試しで配ってみるのも有りかな、と……」
言い訳がましく幸恵がそんな事を言うと、清実は何度か目を瞬かせてから、しみじみと語った。
「……こう言っちゃなんだけど、幸恵、最近随分丸くなったわね。びっくりよ。うちの笹木さんは相変わらず『義理チョコなんてくだらない風習、やりたい人だけやれば?』って超然としてるけど、あそこまでいかなくても良いと思うわよ? うん、良い傾向じゃない」
「もう、人を馬鹿にして」
「してないわよ。誉めてるのに」
拗ねた様に僅かに顔を背けて見せると清実が苦笑いしながら宥めたが、ここで幸恵は夏の出来事を唐突に思い出した。
「でも……、笹木さんと言えば、あの人が会長夫人って判明した後、総務部内ではどうだったの? 以前食堂で顔を合わせた時、大丈夫って言ってたけど、秋の人事や出張とかが重なっていて、そこの所をきちんと聞いて無かったし。『君島綾乃が君島代議士の娘で、コネ入社だろう』と吹き込んだのは私だったから、そのせいで清実に肩身が狭い思いをさせたんじゃないかって、気になっていたのよ」
如何にも申し訳なさそうに幸恵がそんな事を言い出した為、清実は慌てて否定した。
「何言ってるのよ! 幸恵だってあの後暫く『初恋の女性そっくりの姪だから社長のコネで入った』と陰口を叩かれていたじゃない。私の方は、本当に大丈夫だったから。確かに職場で暫く気まずい思いはしたけど、本人はあの通り能天気だし、笹木さんは仕事に些末な事を持ち込む人じゃないし、本当に助かったわ」
「それを聞いて安心したわ。仕事にかまけてついつい確認するのを忘れていて」
一安心して歩き出しながら話を続けた幸恵だったが、続く清実の台詞で再び足を止めた。
「部署も違うしね。それに幸恵は主任になってバリバリ仕事をしてるし」
「何それ?」
僅かに顔を顰めた幸恵に、清実が幾分困った様に弁解する。
「嫌味で言ってるんじゃないわよ? まあ、ちょっと僻んで妬んでるけどね。最近思うのよ。惰性的に仕事をしててこの年になって、今まで何やってたんだろうなって。それと引き替え幸恵は着実に実績を上げてるから、羨ましくてちょっと近付きにくいかなって」
「……私、そんなに取っ付きにくい?」
「それはこっちが勝手に思っているだけだから。別に嫌ってるわけじゃないし。ねえ、久しぶりに今日は一緒に食べて帰らない?」
「いいわね。そうしましょう」
一瞬傷付いた表情になったものの、すぐに気を取り直して笑顔になった幸恵は、清実と並んで歩きながら駅ビルレストラン街の店の選定を始めた。そして和風創作料理の店に入り、テーブル席に落ち着いた所で、清実が顔付きを改めて話し出す。
「実は……、ちょっと幸恵に確認したい事があったのよ。こういう事、本人の耳に入れて良いかどうか迷ったんだけど……」
「何?」
「幸恵、あなた君島さんのお兄さんと、付き合っているの?」
控え目にお伺いを立ててきた清実に、幸恵の頬が僅かに引き攣る。
「……どうしてそんな事を聞くの?」
「その……、色々噂になっているから」
「ああ、エントランスホールの一件ね」
綾乃に声高に叫ばれた一件を思い出した幸恵は、やさぐれた様子でテーブルに肘を付いて溜め息を吐いたが、清実は軽く首を振った。
「そうじゃなくて……、やっぱり知らないんだ……」
「だから何を?」
顔にはっきりとした不審の色を浮かべながら幸恵が追及すると、清美は微妙に視線を逸らしながら、星光文具の一部で今現在執り行われている、とあるイベントについての詳細を語って聞かせた。
翌、二月十四日は、朝から星光文具内の空気が心なしか赤やピンクを帯びている様に、出社した幸恵には感じられた。
「おはようございます、係長」
「おはよう、荒川。お? その紙袋、まさかチョコか!」
「ええ、ギ・リ・チョ・コ、ですけどねっ!!」
いつも通り挨拶をした幸恵だが、相手の弘樹は幸恵が手に提げてきた紙袋を目ざとく見付けて食い付いた。そして義理チョコである事を幸恵は強調したが、それには構わず腕を組んで感慨深く頷いて見せる。
「そうかそうか。義理チョコとは言え、これまで『バレンタイン? 仕事に何か関係あるんですか?』と言っていたお前が、職場でチョコを配る様になるとは、何て感慨深い……。君島さんの愛のおかげだな」
「誰の何の、おかげですってぇぇっ!?」
「うわっ! おい、何をする!?」
「それはこっちの台詞よっ!!」
怒声を放ちながら素早く弘樹の机に歩み寄り、幸恵は持参した紙袋を彼の頭上で勢い良く逆さにした。すると中に入れてあった色とりどりの個包装のチョコが、見事に弘樹に降りかかる。そして空になった紙袋を弘樹の机に置きながら、幸恵は盛大に非難の声を上げた。
「聞いたわよ? 私があいつといつ結婚するかどうか、社内で賭けがされてるんですって!? 当事者に内緒で、職場で何をやってんですか!!」
その糾弾に、弘樹は自分の周囲に散らばったチョコをまめまめしく拾って紙袋に放り込みながら、悪びれなく応じる。
「あ~、耳に入ったか~。おぅ、発案者が俺で、胴元は公子さんだ」
その事実を知った幸恵は、今度こそ頭痛を覚えた。
「笹木さんが噛んでるんですか……。随分大事になってる気がするんですが、私の気のせいですか?」
「気のせい気のせい。あ、因みに俺は、お前と君島さんが結婚しない方に十万賭けた」
「……は?」
思わず口を半開きにして間抜けな顔を晒してしまった幸恵に、弘樹はしたり顔でその理由を説明する。
「だってな~、お前ひねくれてるから周りで『君島さんと結婚しろ』ってやいのやいのと言ったら、『あいつと結婚なんかしないわよ!』ってムキになって、喚いて終わりだろ?」
「…………」
反論できなかった幸恵は無言になったが、その反応に気を良くしたらしい弘樹は、ふんぞり返りながら言い聞かせてきた。
「だから敢えて大損覚悟で、わざと反対に賭けたんだ。どうだ。部下の結婚を温かい目で見守る、この上司の大きな愛を感じろ。感動して涙しても構わないぞ?」
「誰が感動するか、このボケがぁぁっ!!」
激怒した幸恵が弘樹のネクタイを掴んで首を締め上げようとした所で、背後からのんびりとした声がかけられた。
「朝から随分賑やかだね。おはよう、遠藤君、荒川君」
その聞き覚えの有り過ぎる声に、幸恵は勿論弘樹も居住まいを正し、真面目な顔で一礼する。
「おはようございます、部長」
「おはようございます。お騒がせして申し訳ありません」
しかし部長である谷垣はさほど気にした様子も見せず、弘樹の机に転がっていたチョコの一つを取り上げて断りを入れてきた。
「元気が良くて結構じゃないか。これはバレンタインのチョコかい? 一つ頂いて行くよ?」
「はい、宜しければお持ち下さい」
「じゃあ遠慮無く」
そうしていつも通り温厚な笑顔を浮かべながら自席に向かった谷垣だったが、数歩歩いた所で唐突に足を止め、幸恵を振り返った。
「ああ、そうだ。荒川君」
「はい、何でしょうか?」
「私は君が、一年半後に結婚するのに賭けたんだ」
「……はい?」
「披露宴のスピーチは任せてくれたまえ。それじゃあごちそうさま」
「…………」
たった今、普段はすこぶる真面目な上司から、何か変な事を聞いたと、幸恵が上手く働いていない脳をフル回転させているうちに、谷垣はにこやかに微笑んで、再び自席に向かって歩き出した。そして呆然としている幸恵の横でチョコを全て拾い終えた弘樹が、周囲の人間に向かって声を張り上げる。
「と言うわけで、荒川からの義理チョコだ。食べたい奴は持って行ってくれ」
「ほ~い。じゃあ遠慮なく~。荒川、サンキュ!」
「あ、荒川、俺は半年後に賭けたから。気合い入れて頑張れよ?」
「俺は二年後なんだよな。三十路に入って焦って結婚パターンで」
「いや、俺はギリギリ二十代のうちに滑り込むと見ているんだが」
(上から下までどいつもこいつもっ……。この会社、本当に大丈夫なの!?)
チョコを取りつつ、好き勝手な事を言い合っている同僚達にキレそうになりながらも、幸恵は最近とみに増強された感のある忍耐力を遺憾なく発揮し、仕事前に怒鳴り散らす事だけは回避した。
そうして怒りを仕事に向ける事で、それを何とか昇華した幸恵だったが、残業に突入してから、職場に諸悪の根源とも言える人物の訪問を受けた。
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