「うわっ! ……っててっ」
「ちょっと! 大丈夫!? 今、頭を打ったわよね?」
「ああ、なんとか平気。しかし幸恵さんの前で、格好悪過ぎだな」
リンクに入った当初から、どう見ても演技とは思えな程いふらついている和臣の立ち姿に、幸恵は至近距離でハラハラしていた。そして手すりに掴まりながら慎重に滑り出した和臣が、派手に何回か転んでから、幸恵は呆れ気味に手を差し出して、起き上がるのを助けながら声をかける。
「ほら、掴まって。……だけど、本当に滑った事が無かったのね」
「電話でそう言っただろう?」
「普段が普段だから、信用できなかったのよ」
「酷いな。どれだけ信用無いんだろう、俺って」
「当然でしょう?」
苦笑いしてゆっくり立ち上がった和臣を支えながら、幸恵は小さく溜め息を吐いた。
「じゃあ私と両手を繋いで。手すりに掴まってばかりだと、それに頼り切りになっちゃうし、ゆっくり引いてみるから、まず感覚を掴んでみて。危なくてしょうがないわ。見ているこっちの身にもなってよ」
「ありがとう」
言った台詞の最後は半ば嫌味だったが、和臣から気負いの無い自然な笑顔を返された幸恵は、微かな動揺を隠す為に話題を逸らした。
「だけどさっきは、見事にしりもちをついたわね。無防備に頭も打ってるし。下手すると脳震盪を起こしたり、怪我をするわよ?」
「流石にそこまで間抜けな姿を、幸恵さんの前で晒したくはないな」
それは本音だったらしく、和臣は笑いを収めて神妙な顔つきで溜め息を吐いた。その為、幸恵も茶化さずに真面目くさって言い聞かせる。
「まともに打ちつけたりしなければ大丈夫だから、気をつけてね。体重は後ろにかけないで。氷の上でも地面でも、倒れる時は前のめりが基本よ」
それに軽く頷いてから、和臣は少し不思議そうに幸恵の顔を眺めた。
「それは分かったけど……。氷の上はともかく、どうして地面の上でも前のめりって話が出てきたのかな?」
「どうしてって……、手を付いて頭への衝撃を避けられるから当然でしょう? それに仰向けに倒れたら、何も掴み取れ無いじゃない」
事も無げにそう言い切った幸恵だったが、それを聞いた和臣は一瞬表情を消してから、手を繋いだまま俯き加減で微かに震えだした。
「幸恵さん……」
「ちょっと。何、爆笑寸前の顔をしてるのよ?」
気分を害した様に幸恵が尋ねると、和臣は笑いながらその理由を告げた。
「だって……、幸恵さんは転ぶ度に、地面に落ちてる何かを鷲掴みしてるわけ? 凄いな」
「え?」
今度は幸恵が一瞬当惑した顔をしてから、すぐに言われた意味を理解して、顔を真っ赤にして怒り出した。
「実際にそうしているわけ無いでしょ! 実際の危険性を鑑みてと、人生に対する姿勢のあり方と、単なる言葉のあやよ! それ位分からないわけ!?」
「うん、ごめん……。それは分かってるんだけど……、でも、なんかツボに入った……」
「勝手に笑ってなさい、もう!」
少しの間ヨロヨロ滑りながら、堪えきれない笑いを漏らしていた和臣だったが、何とか笑いを抑えて立ち止まってから、どうしてこんな所で止まったのかと訝しんだ幸恵に、真面目な顔で宣言した。
「よし、じゃあここは一つ、実践してみるから」
「は? 何言って……、きゃあぁぁっ!」
いきなり和臣に抱き付かれ、リンクに押し倒された形になった幸恵は、人目など気にする余裕も無く盛大に悲鳴を上げた。しかし和臣の両腕で頭と腰はしっかり抱え込まれており、しゃがみ込んでしりもちをついた時の衝撃程度で済んだ事に、心底安堵する。すると両腕を自分の身体から離して両脇に手を付いた和臣が上から見下ろしてきた為、盛大に文句を言った。
「大丈夫? 一応抱え込んだから、怪我はして無いよね?」
「あ、危ないでしょうが! 何やってるのよ!?」
「幸恵さんの言う通り、ちょっと前のめりに倒れてみた」
悪びれない笑顔でそんな事を言われてしまった幸恵は、顔を引き攣らせて叱りつけた。
「あのね! ふざけるのもいい加減に」
「だって幸恵さんがあんまり可愛過ぎるから、つい押し倒したくなったんだ」
「は?」
「うん、やっぱり倒れる時は、前のめりが基本だな。これだと幸恵さんが容易に逃げられない」
なにやら一人で納得している和臣に、幸恵の堪忍袋の緒が切れた。
「全然、意味が違うでしょうが! って言うか、さっさとどきなさいよ!!」
「さて、どうしようかな? 転んだ後は何か掴み取らないと駄目みたいだし。幸恵さん、俺に何かくれない?」
そこで薄笑いを浮かべながら自分を静かに見下ろしてきた相手に、何故だか危険な物を感じてしまった幸恵は、瞬時に顔を引き締めて慎重に断りを入れた。
「……あいにくと、何もあげる物は無いわよ」
「それなら……、多少強引に頂く事にしようかな?」
「ちょっと! 何考えてるの、離れなさいよ!?」
自分に覆い被さる体勢のまま、真顔で顔を近付けてきた和臣の体を、幸恵が手で押しのけようとしながら叫んだ時、すぐ横からもの凄く恐縮気味の声がかけられた。
「……あの、お客様?」
「はい?」
「え?」
「誠に申し訳ありませんが、他のお客様の滑走の障害になっておりますので、滑られない場合はリンク外に出て頂きたいのですが……」
そこのスケートリンクのスタッフジャンパーを着た、自分達と同世代の男性に声をかけられて漸く我に返った幸恵は、自分達が他の客達から興味津々の視線で観察されているのを認識し、羞恥で顔を赤くしつつ、慌てて和臣を突き飛ばして上半身を起こした。
「は、はいっ! すみません! 今すぐ出ますのでっ!」
「おっと、酷いな幸恵さん」
「誰のせいだと思ってるのよ! ほら、行くわよ!」
動揺しながら出入り口に向かってさっさと滑り出そうとした幸恵に、和臣がどこかのんびりと声をかける。
「ごめん、手を貸して貰えるかな? まだ一人で立てないから」
「……っ! 全く、もう!」
そう言って困った様な顔で右手を差し出してきた和臣に、幸恵は舌打ちしたい表情になったものの、素早く近寄って手を差し出した。
「さっさと掴まりなさい! 行くわよ!」
「ありがとう」
そして手を繋いでゆっくり移動しつつ、幸恵が盛大に悪態を吐く。
「もうあんたなんかと、二度とスケートに来ませんからね!!」
「そうだな……、それじゃあ今度こそスキーに行く? 今日の名誉挽回をしたいし、手取り足取り教えてあげるよ?」
「冗談じゃ無いわよ! 何を企まれるか分かったものじゃ無いわ!」
「企むだなんて酷いな」
「事実でしょうが!」
「酷いな。俺は純粋にコーチしてあげると言ってるのに」
「どこが純粋!? 不純と矛盾の固まりのくせにっ!!」
そんな端から見たら痴話喧嘩としか思えない言い合いをしながら、幸恵達は早々にリンクを去る事になった。
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