帰宅するサラリーマンの流れに逆らい、改札口を出て指定された時間五分前に待ち合わせ場所に出向くと、既に和臣は人通りの邪魔にならない様に静かに一人佇んでいた。幸恵がそのまま真っ直ぐ和臣元に歩み寄ると、気配に気づいた和臣が嬉しそうに笑顔で出迎える。
「やあ、幸恵さん。お疲れ様。ここまで来て貰って悪かったね」
「別に良いわよ。最寄駅から乗り換えなしで来れたし。それに随分早くから来ていたんじゃないの?」
「俺の職場は、ここから一駅だけだからね。間違っても幸恵さんより遅く来る訳にいかないだろう。さあ、行こうか」
上機嫌な和臣に促され、幸恵は素直に並んで歩き出した。普段来る事も無い場所であり、幸恵が少し興味深そうに周囲の様子を眺めているのを横目で見ながら、和臣が幾つかの当たり障りのない話題を振っている間に、車が行き交っている幹線道路から何本か外れた通りに入り、落ち着いたビルやマンションが両脇に立ち並ぶ道を進んだ。するとビルの一階に入っている店の前で足を止める。
「ああ、着いたよ。ここに入るから」
「そう」
素直に頷いたものの、幸恵は内心ちょっと怯んだ。表に掛けられている暖簾が如何にも古臭く、窓の外側に巡らされている木製の格子や壁面も、あまり手入れがされていない様に見えたからだったのだが、和臣に続いて暖簾をくぐり、引き戸を開けて店内へと入ってすぐにそのイメージは覆された。店内は明るく、木目が美しいカウンターや染み一つ無い壁、その壁に沿って配置されているテーブルも傷一つ見えない、整えられた空間だったからである。それを認めた幸恵は、思わず素直な感想を述べた。
「へぇ? なかなか感じの良い店じゃない。外観ももうちょっと考えれば良いのに」
そんな感想を予め予想していたのか、和臣は苦笑気味答えた。
「店内は一年前位に改装したけど、店主のこだわりで外観は開店当時のままにしてあってね。だけど一見古びて見える所が良いんだよ。それなりに趣も有るだろ?」
「言われてみればそうかもね」
そんなやり取りをしていると、カウンターの内側から店主らしき五十がらみの男が声をかけてきた。
「やあ、お久しぶり。珍しいですね。女性を連れていらしたのは、初めてだと思いますが」
「どうも。……カウンターで良い?」
店主に愛想良く笑いかけてから、和臣は幸恵に向き直って尋ねた。それに幸恵が微妙な顔で答える。
「それは構わないけど……」
「テーブル席が空いてますよ? せっかくのデートじゃないんですか?」
まだ混みあう時間帯ではなく、四人掛けのテーブル席が二つ空いていた為、幸恵と同様に店主が戸惑いながらそちらを勧めてきたが、和臣は笑って言い返した。
「ああ、デートだから尚更カウンターの方が良いかな。俺としてはテーブル越しより、隣合って座った方が嬉しいので」
それを聞いた店主が笑いを堪える表情で、自分の手前の席を勧める。
「なるほど。それは失礼しました。それではこちらにどうぞ」
「ありがとう」
「……テーブル席に行くわ」
思わず憮然としてテーブル席に移動しかけた幸恵だったが、その腕を軽く掴んだ和臣が、小声で言い聞かせた。
「まあまあ、この店はもう少し後の時間帯になると結構混むんだ。四人掛けのテーブルを二人で占拠するのは気が引けてね。お客をお断りさせるのは悪いし、相席だって嫌だろう?」
「……何か嘘臭いわね」
そう言いながらも、ここで揉めるのは馬鹿らしいとばかりに、幸恵は大人しくカウンター席に座った。その横に座りながら「じゃあいつもの奴と、まずお任せで二人分」などとカウンターの向こうに声をかけてから、和臣が困った様に笑いかける。
「酷いな。俺ってどこまで信用が無いんだろう」
「どこもかしこも胡散臭いのよ。自覚が無いならこの際一から十まで、懇切丁寧に教えてあげるわ」
「本当に幸恵さんって容赦ないな。それが良いんだけど」
「勝手に笑ってなさい」
容赦なく切り捨てられても全く気にする素振りを見せず、和臣は満足そうに笑っていたが、それを見た幸恵は何となく癪に触った。そうこうしているうちに目の前に手早くおしぼりやお通しの小鉢、盃などが置かれ、冷酒用のデキャンターが和臣の前に置かれる。それを取り上げた和臣が、幸恵の盃に慎重に中身を注いで声をかけた。
「はい、どうぞ」
「ありがとう」
そう声をかけた和臣はそのまま自分の盃にも注いでしまった為、一応和臣分は注ぐつもりでいた幸恵は多少ばつが悪い思いをした。
(うっ……、ちゃっちゃと手酌しないでよ。手を出す暇も言い出す暇も無かったでしょうが)
何となく気の利かない女だと思われそうで密かに幸恵は落ち込んだが、そんな事は全く気にしない風情で、和臣がガラス製の杯を持ち上げながら笑顔で告げた。
「それじゃあ、幸恵さんの昇進を祝って、乾杯」
「……乾杯」
(全く、調子狂うわね)
幸恵が持ち上げた杯と軽く打ち合わせてから、和臣は口に含んだ酒を如何にも美味しそうに味わい始めた。それに釣られる様に幸恵も無言で飲み始め、小鉢に箸を付ける。
「お酒もそうだけど、想像したより美味しい……、この茄子とオクラの辛子浸し」
「それは良かった」
「このみょうが胡瓜も色々入ってるし、凝ってるわね」
「うん、椎茸やくらげも入ってる。味付けも醤油や砂糖の他に、唐辛子とかごま油とか入れてるみたいだしね。さあ、肝心の鳥も美味しいからどんどん食べて。好きな物を頼んで良いからね」
幸恵が正直に酒と小鉢の中身を誉めると、和臣はまるで自分が誉められた様に嬉しそうにお品書きを広げながら幸恵に勧めた。
その時タイミング良く最初に和臣が頼んでいた串焼きの盛り合わせが二人の目の前に置かれ、幸恵は早速手を伸ばして食べ始める。
「うん、美味しい! これなら幾らでも入りそう」
まずももを一本食べ終わって満足そうに感想を述べ、再び手を伸ばして皮を食べ始めた幸恵に、和臣は嬉しそうに笑い返した。
「それは良かった。働くのに体は基本だからね。幸恵さんはダイエットとかする人じゃないと思ってたし」
「当然でしょう? 空きっ腹で仕事が出来るわけ無いじゃない」
幸恵にしてみれば当然の事として言い返したのだが、和臣は笑いを堪える表情になった。それに気付いた幸恵は、三本目に取りかかるのを中断し、軽く相手を睨み付ける。
「何? 私の顔に何か付いてるの?」
「いや、そうじゃなくて。本当に幸せそうに食べてくれるから、嬉しくて」
「……馬鹿じゃないの?」
(本当に調子狂うわね、こいつ)
自分も食べつつ顔を横に向けてにこにこと笑っているつかみどころの無い和臣に、幸恵は密かに溜め息を吐いた。そして如才無く食べ切る前に追加注文を済ませてから、さり気なく別な話題を切り出す。
「幸恵さん、この前の出張先で、どんな仕事をしてきたの?」
杯片手にそんな事を尋ねられ、正直幸恵は戸惑った。
「どんなって……、説明しても分からないと思うわよ? ……言っておくけど、これは嫌味じゃ無いから」
不自然に付け足された様な台詞の理由を、和臣は何となく悟ってしまった。
「それは……、以前に尋ねられたから滔々と説明してあげたら、『全然分からないのに嫌味だ』とか言った、失礼な人が居たとか?」
その推測は見事に的中していたらしく、幸恵の表情が忽ち苦いものに変わる。
「……そう言う物言いが、既に嫌味よね」
「悪かった。ごめん、謝るよ。でも純粋に興味があるから、良かったら聞かせて欲しいな」
(全く、何なのよ……)
神妙に下手に出てきた和臣に、幸恵は不機嫌さを抑え込んで話す事にした。
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