「やあ、今晩は、幸恵さん」
綾乃とそんな会話を交わした日の夜。幸恵はかかってきた電話に対応する為、通話ボタンを押すと、爽やかに和臣が挨拶してきた。それに僅かに脱力しつつ、しかし問答無用で切る様な真似はせずに、嫌そうに言葉を返す。
「……どうも。今日は何?」
「今度一緒に、食事に行かないか?」
そんな唐突なお誘いに、幸恵は負けじと言い返した。
「どうしてあなたと一緒に、食事に行かないといけないんですか?」
「ちょっと遅くなったけど、幸恵さんの昇進祝い。悪かったね、決定した頃は色々忙しくて、誘ってあげられなくて」
申し訳無さそうな口振りの和臣だったが、幸恵は軽く皮肉をぶつける。
「あら、今の今までちっとも知らなかったわ。私とあなたが、昇進を祝い合える程、親しい間柄だったなんて」
「じゃあこの機会に覚えておいて。何が食べたい? 遠慮なく言ってみて? 店の希望があるなら聞いて、幸恵さんの都合の良い日時で予約するから」
幸恵の皮肉をサラッとスルーして話を進めた和臣に、幸恵の顔が僅かに引き攣った。そしてボソッと呟く。
「……鶏」
「え? ごめん、今何て言ったのかな?」
申し訳無さそうに確認を入れてきた和臣に、幸恵が淡々と告げた。
「美味しい焼き鳥が食べたい」
「焼き鳥……」
その選択肢は予想外だったのか、和臣がおうむ返しに呟くと、幸恵が鋭く付け加えた。
「勿論、ブロイラーなんて出してる所じゃ駄目よ。それにお酒も美味しい物を揃えていないと問題外ですからね!」
「分かった。俺の職場の近くに行きつけの店が有るんだけど、近くまで来て貰って良いかな?」
「構わないわよ? そういえば、あんたの勤務先って一体どこなの? この前実家に帰った時、母があんたの事『さすが大手都市銀行勤務の人は違う』とか何とか言ってた様な気がするけど」
その時のやり取りを思い出しながら幸恵が尋ねると、和臣は呆れと笑いがない交ぜになった様な口調で応じた。
「……今更それを聞くのかっていう驚き半分、漸く俺について関心を持ってくれたかという、嬉しさ半分の心境だね」
「教えてくれなくて結構よ。切らせて貰うわ」
「ちょっと待って、今のは軽い冗談だから。俺の勤務先は青葉銀行大手町支店。所属は投資営業部融資審査課だよ」
このまま切られては堪らないと和臣が慌てて勤務先を告げると、幸恵は少し考えてから思い当たった場所を告げた。
「それって……、あの大手町にある、グレーの外壁のビルの所?」
「知ってるんだ。そう、そこの一階から六階までがうちの店舗だよ。連れて行く店は、そこから少し歩くけど」
「ふぅん、そう。じゃあね」
「ちょっと待った!」
自分の勤務先の位置を知って貰っていた事に少し嬉しくなったのも束の間、幸恵があっさりと通話を終わらせようとした為、慌てて叫んで引き止めた。それに顔をしかめながら、幸恵が文句をつける。
「何よ。急に叫ぶのは止めて貰える?」
「ごめん、謝る。でもあっさり切られるとは思わなかったから」
「だって話は終わったでしょう?」
些か気分を害した様に幸恵が確認を入れてきたが、和臣は食い下がった。
「確かに食事に行く話は了解を貰ったけど、詳しい日時とか」
「どうせまた電話して来るんでしょ? 今日はもう録画した番組を見ながら、ダラダラしたい気分なのよ」
微塵も取り繕う事なく本音を述べた幸恵に、和臣は思わず脱力した。
「あのさ……、俺の勤務先を聞いても、何とも思わないわけ?」
「何? 俗っぽく『キャ~、大手銀行にお勤めなんて凄い~! エリートサラリーマンですね~、お給料良いんでしょうね~』とか言って欲しいわけ? そんなアホな事を期待してるなら、他を当たって」
「いや、間違っても幸恵さんにそんなリアクションは期待して無かったけど……」
「無かったけど、何よ?」
冷たく言い切られてしまったにも係わらず、突然黙り込んだと思ったら、電話越しに和臣の忍び笑いが伝わってきた。いよいよ本当に切ろうかと幸恵が苛立った時、その気配を察知したかの様に、和臣が笑いを抑えて楽しそうに言ってくる。
「本当に幸恵さんは、一々予想の斜め上の言動をしてくれるから、楽しくてしょうがない」
「馬鹿にしてるわけ?」
無言のまま切ろうかと思った幸恵だったが、文句をつけながらも何となく応じてしまった。すると和臣も機嫌良く話を続ける。
「そうじゃなくて、誉めてるんだよ? これでも。話していて楽しくない相手に、わざわざ電話をかけようとは思わないさ」
「マザコンでナルシストな上に、自虐趣味もあるんじゃないかと思ってたわ」
「本当に予想外の言葉が返って来るから、楽しいんだよな」
(勝手に言ってなさいよ。一々腹が立つ男ね)
楽しげに話を続ける和臣に、幸恵は一矢を報いるつもりで、ちょっとした皮肉をぶつけた。
「職場の看板じゃなくて、そこでどんな仕事を、それに誇りを持ってやっているかで、人間の価値って決まるんじゃないの? どう考えても、あんたはチャラチャラ仕事してるみたいにしか見えないんだもの」
「酷いな……。俺は勤務中は真面目に仕事をしてるよ?」
「どうだか」
気のない返事をした幸恵に、和臣は幾分困った様に話を続ける。
「フロアは部外者立入禁止だから実際に見て貰うわけにはいかないけど、目の当たりにしたら俺に惚れ直す事確実だから」
「明らかに今の台詞に誤りがあるわ」
「え? どこが」
キッパリと言い切らせた和臣は、ちょっと驚いた様に問い返した。すると幸恵がすこぶる冷静に指摘してくる。
「別にあんたに惚れたりしてないから、『惚れ直す』って言うのは明らかに間違いよ」
それを聞いた和臣は、失笑して言い直した。
「分かった、訂正する。俺の勤務中の姿を目の当たりにしたら、惚れる事確実だから」
「良くできました。それじゃあね」
「ああ、お休み」
そうして通話を終わらせた幸恵だったが、現在時刻を確認すると思ったよりも長時間話し込んでいた事が分かり、少しうんざりしてしまった。
「……だから、どうしてダラダラと話をしちゃうのよ。口八丁手八丁手の天然詐欺師っぽいわよね」
そして(次はさっさと話を終わらせよう)と決心した幸恵だったが、先程話した内容を思い返し、それなりに満足した顔付きになった。
「焼き鳥かぁ……。何か高級フレンチとか中華とか予想してそうだから、思い通りの返答をしたくなくて咄嗟に外してみたんだけど、結構楽しみ。舌が肥えてそうだものね、あいつ」
そして幸恵はテレビのリモコンを引き寄せ、当初の予定通り録画番組の消化にかかった。
「昇進したからってあいつに奢って貰う理由は無いし、割り勘にするにしても、そういう店なら大して高値にならないでしょ。美味しく食べて来ようっと」
奢るつもりの和臣に、割り勘にするつもりの幸恵。
その後日程の相談をする機会はあったものの、二人の間の意思疎通が見事に図られないまま、当日を迎える事になった。
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