出張も中盤を過ぎ、周囲から含みがありすぎる視線を受けながらも、幸恵は淡々と業務をこなしていった。
滞っている項目を取捨選択し、現場の研究員と協議しつつ改善点や改良点を提案していく。幸恵としては取り敢えず間違った事をしていないと判断しながらそれらの事を進めていたが、それは現場の人間も同様だったらしく、上の頭の堅い連中はともかく、若手組とはそれなりに打ち解けてきていた。
「それでは、こちらのスジェート含有比率を5%から20%まで、0.5%刻みでデータを取って、紙との圧着度と磨耗度を比較して貰えますか?」
「サンプルとして使用する紙は、上質紙だけで良いでしょうか?」
「そうね……、コート紙の類は要らないでしょうけど、一応中質紙も押さえておいて下さい」
「分かりました」
借り物の白衣に身を包み、バインダー片手に連日各部署を難しい顔で覗いていた幸恵だったが、その日は比較的機嫌が良かった。何となく相手もそれを察したのか、幸恵と同年代の彼が幾分不思議そうに問いかけてくる。
「荒川さんは、こちらにいる間は寮に宿泊されてるんですよね?」
「はい、そうですけど。それがどうかしましたか?」
「寮で何か良い事でもありましたか? 今日は朝から何となく機嫌が良いように見えますが」
「ああ、それは……、雲が随分形になってきたので、それを思い返す度に嬉しくて」
つい正直に、幸恵が顔を緩ませながらそう口にすると、相手は益々怪訝な顔になった。
「ここは窓が無いので天気が分からないんですが、朝、曇っていましたか? それに荒川さんは、曇りとか雨だと嬉しいタイプの方なんですか?」
そう問われて、我に返った幸恵は密かに狼狽した。
(うっ……、しまった。まさか出張期間中に寮でジグソーパズルを楽しんでいましたと言っても、別に仕事をサボった訳じゃないから咎められないでしょうけど、上の連中に知られたら『流石に本社勤務の方は余裕がありますな』とか何とか言われそう……)
正直に告げるべきかごまかすべきか、咄嗟に判断に迷った幸恵だったが、そこで背後から声がかけられた。
「荒川さん、こちらに居ましたか。本社に届けて頂きたい書類がありますので、内容をチェックがてら今から所長室に来て頂けませんか?」
そこに現れた穏やかな表情の小池所長に救われる思いで、幸恵は軽く頭を下げた。
「はい、伺います。それでは先程の様にお願いします」
「分かりました」
そして相手をしてくれていた研究員に別れを告げて、幸恵は小池の後に付いて歩き出した。
(正直に言っても良かったんだけど……、あれが結構楽しくて気分転換になってるなんて、何となく認めるのが嫌だったんだもの)
ジグソーパズルの事を考えているうちに、自然にそれを送りつけてきた含み笑いの男の顔を思い出した幸恵は、歩きながら軽く頭を振って脳裏からその顔を追い出した。すると前を歩いている小池が、前を向いたまま話しかけてくる。
「荒川さんは遠藤課長の事をどう思う?」
「どう、と仰いますと?」
急に話し掛けられた事と、微妙な問い掛けに幸恵が慎重に尋ね返すと、小池は足を止め、苦笑しながら幸恵を振り返った。
「いや、初日に『バカボン課長』の『間抜け企画』とか言っていたからね。本当にそう思っているのかなと思って。純粋な好奇心だよ」
それを聞いて内心(失敗したな)と思ったものの、幸恵は思うまま答えた。
「正直、つい最近までバカボンだと思っていましたが、正真正銘の馬鹿では無いみたいです」
「どうしてそう思うのかな?」
「チャラチャラしていて誰とでも仲良くしている様に見えていたのですが、例の人事異動の前後で良く観察してみたら、社内で本当に親しくしている人間は、私の知る限り全員有能な人ばかりでした」
「ほう? そうなのかい?」
面白がっている様な表情を見せた小池に、幸恵が冷静に話を続ける。
「ですから、社長令息として近付いてくる人間には満遍なく愛想を振りまきつつも、とくに社内での交友関係は、将来を見据えて厳選しているのではと思う様になりました」
「なるほど。それで君は、彼を次期社長としては有望だと思うのかい?」
唐突に聞かれた内容に、幸恵は敢えて的外れな回答をした。
「……若干ヘラヘラし過ぎる感はあるかと思いますが、年寄り連中にも反感を抱かせずに上手く立ち回っている手腕はそれなりで、羨ましいです。私には到底真似できませんので」
研究所内で、これまで大きな衝突は無いにしても、小さな軋轢等は未だに生じている事実を暗に含ませながら幸恵が述べると、小池は思わず失笑した。
「なるほど。彼の人となりの一端は良く分かった。確かに君は我が強い所はあるが、それは十分長所だと思うし、人付き合い云々は心配しなくても彼の下で働いていれば追々身に付くだろうから、君は優秀な幹部になれるだろう。うちと商品開発部の連携の為に、今後とも宜しく」
「はぁ……、こちらこそ」
(ええと、一応認めて貰ってるの? それとも単に研究所を円滑に回す上での、処世術? いまいち読めないわね、この狸)
唐突に含みのある誉め言葉を貰った幸恵は、その意図する所が良く分からないまま曖昧に頷いた。すると小池は所長室に向かって再び歩き出し、幸恵も黙って後に続く。
(はぁ……、やだやだ、こういう腹の探り合いって。私の柄じゃ無いのよね。係長やあの男だったら、オヤジだろうが妖怪だろうが、笑顔で丸め込みそうだけど。そういう所が似てるから、変に意気投合して色々な情報を横流ししてるのかしら?)
若干うんざりしながら、自分の上司と従兄弟について辛辣な事を考えつつ、幸恵は足を進めた。
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