昼食から戻って早々、幸恵は抜かりなく中身を揃えておいた鞄とコートを手にし、上司の席へと歩み寄って声をかけた。
「係長、それでは今から藤和ユニットに行って来ます」
「ああ、明日が仕事納めだって日まで、出向いて貰ってすまないな。宜しく頼むよ」
席に座ったまま愛想良く応じた弘樹だったが、明る過ぎると言えない事も無いその笑顔に、幸恵は無性に苛ついた。
「そう言って頂けるのなら、それ以外の仕事の負担を、是非減らして頂きたいものですが。一応確認させて貰いますが、係長。先週までに私が取り纏めて提出した企画書ですが、明日までにきっちり内容を精査して課長に出して頂けるんですよね?」
そう幸恵が念を押した途端、弘樹の笑顔がどことなく強張る。
「……それは大丈夫だ」
「どうしてそこで、私から視線を逸らすんですか。本当に処理してるんでしょうね!?」
そこで吠えた幸恵に対し、少し離れた机から課長の戸出が笑いながら宥めてきた。
「まあまあ。荒川君は部下の仕事だけではなくて、上司の仕事まで管理してくれて助かるよ。働き者の部下を持って、俺は嬉しいぞ?」
「ありがとうございます」
課長に対してまで文句を言うわけにもいかず、取り敢えず怒りを押さえ込んだ幸恵だったが、ここで弘樹が余計な口を挟んだ。
「そもそもこいつは、働き過ぎなんですよ。イブもクリスマスも言い寄ってくる貴重な男を袖にして残業三昧で、女として枯れてます。上司としてはどうにかしてやらねばと、気を揉んでいるところなんですから」
「イブに高級レストランを予約して、一方的に連絡した彼女を待ち受けてたのに、二時間待ちぼうけを食わされて店内中の客から憐憫の視線を、スタッフからは冷たい視線を浴びた、痛すぎる男に同情される程、切羽詰まっていませんからご心配無く。それでは課長、行ってまいります」
「ああ、ご苦労様」
ここで弘樹が動揺も露わに会話に割り込んだ。
「おい、ちょっと待て荒川! さっきの話をどこから聞いた!?」
「可愛い従妹が、係長からのデート話をすっぽかした事を難攻不落の彼女から聞いて、『遠藤さんが可哀相なので労わってあげて下さい』って言ってました」
「綾乃ちゃん……、言う相手間違ってるから。そう言う事は眞紀子さんに言ってくれ。というか荒川! お前全然、労わってないだろうが!?」
「枯れてる女なもので、申し訳ありません」
もはや二人のやり取りに苦笑するしかない戸出と激しく動揺している弘樹に背を向けた幸恵は、手早くコートに袖を通すと廊下に出て目的地に向かって歩き出した。
「全く。余計なお世話だって言うのよ」
ブツブツと文句を言いながら正面玄関の自動ドアを抜けて外に出た途端、全身に刺すような冷気が迫ってくる。
「はぁ……、さすがに寒い。向こうを引き上げてからも微妙に時間が余るから、一度会社に戻らなくちゃね。もう少し遅い時間を先方が指定してくれたら、直帰できたのに……」
思わず愚痴った幸恵だったが、すぐに気持ちを切り替えた。
「愚痴らない、愚痴らない。明日働いたら休みなんだから。久々に実家に帰ってゆっくりしようっと」
(そう言えば……。一昨日の夜、あいつ年末年始がどうこう言ってたわよね? 何だったっけ? 部屋で缶ビール片手に聞いてたから、何か記憶が断片的なんだけど……)
中途半端な記憶について考え込みながら歩いていると、横に並んだ人物がいきなり右腕を掴んで体を寄せ、低く恫喝してきた。
「……動くな、そのまま歩け」
(え? ちょっと!?)
咄嗟に何を言われたか理解し損ねた幸恵は、反射的に右腕の方に視線を向け、自分の脇腹に当てられている刃渡り十五センチ程度のナイフを認め、思わず足を止めて冷え切った声で言い返した。
「何言ってんの? 動かなかったら歩けないでしょうが。大体、断り無しに人の腕を掴まないで」
「痛い目に合いたいのか?」
「合いたくは無いけど、脅す場所が間違ってるわ」
「何だと?」
野球帽にサングラス、マスクと言う如何にも怪しげな風体の男は苛立たしげな声を出したが、幸恵は慎重に相手の様子を窺いつつ冷静に指摘する。
「ウールコートにスーツ、ブラウスと肌着の間には極薄携帯用カイロが貼り付け使用中。冷えは女の大敵なんだから。この何層にもなった状態で脇腹辺りを刺したり切ったりしても、大した傷は付けられないわよ? 脅すなら首か顔じゃないの?」
「分かった様な口をきいてるんじゃねぇ!」
「ふざけてるのはそっちでしょ!?」
「う、ぐはっ!」
激昂した相手がナイフを自分の脇腹から首筋に持っていこうとした隙を狙って、幸恵は掴んでいる腕を体を捻って振り解きざま両手で鞄を掴み、それで勢い良く男の顔目掛けて振り上げた。その横殴りした鞄は男の顔とナイフを持っていた手にヒットし、ナイフが弾き飛ばされて歩道に転がる。
二人が往来で揉め始めたのを通りかかった者達は怪訝な顔で眺めていたが、男が取り落としたナイフを見て瞠目し、騒ぎ立て始めた。
「え? 何?」
「何か飛んできたぞ?」
「こんな所でナイフ? まさか無差別殺人事件!?」
「きゃあぁぁっ! 誰か! 人殺し!」
「警察に早く通報! そいつかっ!」
「気をつけろ! まだ何か刃物を持ってるかも知れないぞ!?」
自分を指差しながら、通行人が口々に騒ぎ立てて集まり始めたのを見て、男は舌打ちして幸恵の鞄を引ったくり、そのまま人垣を突破して逃げ始めた。
「……っ、ちいぃっ!!」
「あ、ちょっと! 待ちなさい!!」
「おい、あんた!」
「何する気だ、危ないぞ!」
「どこに行くんだ!」
駆け出した二人を周囲が驚いた顔で見やったのは当然の事で、これを弘樹が見たならば(何やってんだ、とっとと逃げろ。深追いなんかするな!)と盛大に叱りつける事確実な光景であったが、幸恵は大真面目に男を追いかけた。
(あの中には契約書と部品サンプルが! 何で人の鞄を持ってくのよ! 大してお金が入っている風にも見えない廉価品なのに!!)
社に戻れば必要な物は揃えられるとの考えが頭から吹き飛んでいた幸恵は、相手がナイフを放置して逃げ出した事で安心して追い掛けた。そしてすぐに歩道の角を曲がって車がギリギリすれ違える幅の路地に入ると、十メートル程先にガムテープでナンバープレートを隠したワゴン車が停めてあり、件の男が後部ドアを引き開けながら、運転席に叫んでいる声が聞こえる。
「おいっ! エンジンかけろ! 合図したらすぐに出せ!」
「ちょっと! 鞄を返しなさい! 金目の物なんて入って無いわよ!?」
追い付いた幸恵が苛立たしげに叫ぶと、振り返った男が目の前に乱暴に幸恵の鞄を投げ捨てた。
「人の物だと思って! 手荒に扱わないで!」
完全に腹を立てた幸恵が屈んで鞄を拾おうとしたが、ここでいきなり首の後ろに激しい痛みを感じ、反射的に右手を首に回しながら道路に左手を付きながら倒れ込む。
(全く……、うぁっ!?)
てっきり尻尾を巻いて車で逃げ去ると思っていた犯人が、自分に何かしたらしい事だけは分かったが、あまりの痛みに幸恵は咄嗟に動く事ができず、呻き声を漏らすだけだった。
「い、つっぅ……。なに?」
そんな幸恵を男が乱暴に背後から抱え上げ、ズルズルと引きずる様にしてからワゴン車の後部座席に放り出す様に押し込む。そこで幸恵を追いかけてきた何人かが遅れて路地に到達し、口々に叫び声を上げた。
「おい、お前! そこで何やってる!」
「その人をどうする気だ!?」
「おい、早く出せ!!」
幸恵と共に男がワゴン車に飛び乗り叫ぶと、既にエンジンがかかっていたそれは、勢い良く走り出して乱暴に歩道を横切り、幹線道路をひた走った。
(いったぃ……、ひょっとしてさっきのはスタンガン? 首の後ろが痛い……。絶対火傷したし、心臓悪かったら止まってたわよ、この野郎!)
座席にうつ伏せ状態にさせられ、背後から手早く目隠しをされ、口にガムテープを貼られてしまった幸恵は、顔を盛大に顰めながら背後の男に向かって心の中で悪態を吐いた。
(取り敢えず威力は絞ってあるみたいだから、何とか意識は保ってるけど、寧ろ気絶した方が痛くないかも……)
冷静にそんな分析を始めた所で、後ろ手に縛り上げられてしまったが、ここで男がマスクを取ったらしく、変にくぐもっていない本来の声らしい忌々しげな声が響いた。
「全く! この前会った時もそうだったが、どこまで生意気な女なんだ!」
それを耳にした幸恵は、目隠しの内側で軽く目を見張った。
(初めてはっきり聞いたけど、この声って、まさかあいつ!?)
そして自分がこんな目に合っている原因の男の顔を思い浮かべて(やっぱりあいつ絡みだとロクな事にならないわね)と多少うんざりすると同時に、(商談の時間に完璧に間に合わない……。不可抗力なのでフォローして下さいよ? 係長)とどこまでも生真面目に考えを巡らせたのだった。
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