アビシニアンと狡猾狐

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第63話 頭痛の元

公開日時: 2021年5月1日(土) 20:46
文字数:2,196

連休最終日に、夜まですったもんだした挙句、何とか深夜になる前に自分のマンションに帰り着いた幸恵は、連休明けにも係わらず気合を入れて始業時間に、十分な余裕を持って出社した。何故かと言うと深夜に電話したり、簡潔にメールで済ませたりできない人物が自分の職場に存在していた為、朝のうちに詳細な報告しておこうと思ったからである。


「彼氏の実家に、その母親の見舞いがてら顔を出すだけとか言っておきながら、どうしてお前は、そう他人には予測も付かない事をしでかすんだ?」

「今回の“これ”は、私のせいばかりでは無いと思いますが……」

 この四日間の事を掻い摘んで説明すると、目の前で黙って話を聞いていた弘樹は、呆れ顔で盛大な溜め息を吐いた。さすがに少々弁解したくなった幸恵だったが、ここで弘樹はニヤリと面白がる様に笑いながら告げてくる。


「それで? それから君島さんに引きずられて、婚姻届を出しに行ったのか? それなら社の方にも、色々届け出ないといけないが。各種用紙を、総務から貰ってきてやるか?」

「自分で行って貰って来ます。それに幾ら何でも、そこで市役所に直行しませんよ」

「何だ。つまらん」

 本当につまらなさそうに言われて、幸恵は舌打ちしたいのを必死に堪えた。


「人の結婚を、娯楽みたいに言わないで下さい。ですが確かに収拾が付かなくなりそうだったので、あの場で一応届け出用紙に署名はしました。こちらの心の準備もありますので、今度の週末に二人で提出に行く事にしています」

「まあ、とにかくめでたいな。……そうするとお前の結婚時期に関する賭は、誰が勝ったんだ? 俺はもとから、勝つつもりは無かったが」

 ブツブツと相手が何やら言っているのは無視する事にして、幸恵は取り敢えず神妙に頭を下げた。


「その……、遠藤係長には、休日に煩わしい思いをさせてしまい、誠に申し訳ありませんでした」

 その幸恵の謝罪に、弘樹は一瞬戸惑う素振りを見せてから、納得した様に頷く。


「あ? ああ、君島さんが血相変えて『幸恵の仲の良い友人達の連絡先を教えて下さい!』と電話をかけてきた“あれ”の事か? 確かに少し驚いたが、携帯のアドレス帳からピックアップして転送しただけで、大した手間じゃ無かったから気にするな。君島さんにもそう言っておいてくれ」

「……私としては、どうして係長が私の交友関係をご存じなのかと、それ以上に、どうして当然の事の様に彼女達の連絡先をご存じなのかを、問い詰めたいところなのですが」

 ヘラヘラと笑いながら本当にどうでも良い事の様に述べた弘樹に、幸恵が鋭い視線を向ける。しかし弘樹は、堂々と言ってのけた。


「そんな無粋な事は聞くな。単にお前の友人には、綺麗どころが多い。加えて魅力的な女性の連絡先を把握するのが、俺のライフワークだと言うだけの話だ」

「……くたばれ、女の敵」

「うん? 今何か言ったか?」

「いえ、特に何も」

 ボソッと小声で呟いた悪態は、弘樹の耳には届かなかったらしく、幸恵は営業スマイルで誤魔化した。そこで顔付きを改めて、弘樹が思い出した様に言い聞かせてくる。


「ところで、君島さんから問い合わせの電話を貰った彼女達も、お前の事を結構心配してたぞ? 俺に問い合わせの電話をかけてきたのも、何人もいたし」

 そう言われて、幸恵が居心地悪げに頷いた。


「行方不明だなんて聞かされれば、そうでしょうね。和臣から話を聞いて、全員に『誤解だから心配しないで欲しい』とメールで一括送信したんですが、さすがに皆詳細を聞きたがっていると思ったので、時間が合う人とは今日社員食堂で落ち合って、事情を説明する事になっています」

「あ~、食堂でそれをやると周囲も聞き耳を立てるだろうし、お前がもう売約済みって話は、たちまち社内中に広がるよなぁ……」

「そうでしょうね……」

 がっくりと項垂れた幸恵を、弘樹は憐れむ様に見やったが、それはほんの少しの間だけで、すぐに何やら考え込んで、ある疑問を口にした。


「君島さん、どこまで本気で怒っていて、どこまで計算したんだろうな?」

 その自問自答っぽい呟きに、幸恵は小さく肩を竦めてから苦笑気味に述べる。


「私も後から考えると、何となくあの剣幕に押し切られた気がしないでもありませんが、もうどうでも良いです」

「おうおう、開き直っちまって。じゃあ盛りだくさんの連休は終わったわけだし意識を切り替えて、独身生活最後の週、バリバリ仕事してくれよ?」

 小さく噴き出してから茶化す様に笑いながら言った弘樹だったが、幸恵は負けず劣らず楽しそうな笑顔で、さり気なく上司にお伺いを立てた。 


「はい、勿論です。……それでは遠藤係長、休み明けに精査の上返却して頂く事になっている、布地用接着剤の新規溶剤考案書の方は、どうなっているでしょうか?」

 ニコニコと返事を待つ体勢の幸恵であるが、これまでの付き合いで(出せるならとっとと出せや、オラ!)的なオーラを醸し出している事に気が付かない弘樹ではなく、朝に似合わない深い溜め息を吐いた。


「今日一日位は、ホンワカ幸せ空気を醸し出しとけよ。大目に見てやるからさ」

「係長、今、返却して頂けるんでしょうか?」

「……今日中に渡すから、少し待ってくれ」

「分かりました。宜しくお願いします」

 しっかり言質を取った幸恵は、すました顔で一礼して自分の机に戻り、二人のやり取りに聞き耳を立てていた同僚達は、揃って笑いを堪えながら、自分の仕事に取り掛かった。


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