ちょっと出かけます。
我ながら、馬鹿馬鹿しい言い訳だと思う。
机の上にそんな書き置きを残してから、私はさっさと自宅を抜け出た。
勿論、玄関からではなく窓からだ。
必要最低限の荷物を鞄に詰め込んで、私の目指す先は決まっていた。
病院関係者以外で私が頼れる人は今、一人しか浮かばない。
山中という、隠れるのにも適した場所に住む人物。
八木さんだ。
家で血塗れの服を着替えはしたものの、体は汚いしあちこちに擦り傷もある。おまけにこんな夜更けに訪ねて来られたら、流石の八木さんも困り果てるとは思っている。
でも、この状況下で頼れるのは彼しかいなかった。
これは、私のワガママだ。
家を出るときに確認した時刻は、午前四時十五分。八木さんがたとえ早起きだったとしても、この時間は早過ぎるだろうな。
ごめんなさい、八木さん。私は心の中で何度も謝りながら、山道を登っていった。
空が明るくなり始め、雨も気付けば止んでいた。雨中に気絶し体が冷え切っていたせいもあり、体力がかなり失われているのを実感する。極限状態というのか、むしろ目は冴えているのだが、それは危ない兆候な気がした。
ぬかるんだ道に足をとられぬよう注意しつつ、先へ。電波塔が見えてきたから、もう折り返しだ。
震え出しそうになる体に力を込めて、私は尚も足を踏み出す。
そして、ようやく私は八木さんの観測所に辿り着くことができた。
三日前も、いきなり訊ねて八木さんを驚かせたな。今度はもっと驚かせてしまうに違いない。
何より、気持ちよく寝ているところを起こすことにもなるだろうし。
インターホンを押す。微かに中で音が鳴っているのが聞こえてくる。早朝の山中だ、鳥の囀りさえ日中よりは多くない。とても落ち着いていて、今の私の気持ちとは対照的だった。
一分ほど待っても、反応はなかった。やはりこんな時間だと、八木さんはまだ寝ているのだろう。どうせ誰も来やしないし、ここで座り込んで待ってもいいかと思ったのだが、最後にもう一回だけインターホンを押しておくことにした。
それで起きて来なければ、大人しく待とう。酷く心細いけれど、傍から見ればとても迷惑なことをしているのだから。
『……すいません、どちらさまでしょう?』
諦めかけたところで、応答の声が聞こえてきた。その瞬間、私は嬉しくなってつい大きな声で、
「八木さん、龍美です! こんな時間にごめんなさい……!」
と言い、インターホン越しに頭を下げた。
『た、龍美さん……!? 今開けるから待っててね』
当然ながら八木さんは、まさか夜明け前という時間に私が来るなど予想外だったので、上ずった声で返事をして、インターホンを切る。それからバタバタという音が聞こえ、すぐに入口の扉が開かれた。
……八木さん。
「……ごめんなさい、お休み中だったのに」
「いや、それは構わないけれど……」
八木さんの髪はボサボサで、服装はカッターシャツにネクタイといういつものスタイルでなく、無地のTシャツと黒のズボンの組み合わせ。初めて見るが、これが寝衣なのだろう。
そんな八木さんの姿を目にしたとき、急に安堵感が沸き上がって来て、私は年甲斐もなく彼の膝元に崩れ落ち、静かに涙を零してしまうのだった。
「た、龍美さん……?」
「すいま、せん……私」
「ん。……ちょっと落ち着こうか。さあ、入って」
「……はい」
八木さんに優しく背中を触れられながら、私は観測所の中へと入っていく。
耐え難い恐怖の中、やはり誰か見知った人物に会えるというのは救いなのだと実感した。
室内は電気が点いていたが、奥にある寝室の扉は開け放たれたまま、寝室の方は電気が消えており、私のインターホンに反応してすぐ出てきてくれたことが分かる。
そりゃあ、こんな格好なのも当然だと、また申し訳なくなった。
「雨は止んでたけど……鞄も、それに服も少し濡れてるね。待ってて、温かいものを淹れてくるから」
「あ、ありがとうございます」
台所へ引っ込んだ八木さんは、すぐに湯気の立つお茶を自分の分も含めて二つ、持ってきてくれた。彼も眠気覚ましに飲みたいようだ。
受け取った一杯をゆっくり口に含み、ほう、と息を吐いて。
気持ちの昂りが治まってきたのを感じながら、私はこれまでの経緯を八木さんに語り始めた。
姿を晦ましていた虎牙と再会したこと。
彼から病院で渦巻く怪しい計画について聞かされたこと。
彼に協力して、病院の闇を暴こうと決めたこと。
その行動中、早乙女さんに見つかったこと。
そして、自分が意識を失っている間に、早乙女さんが殺されてしまったこと……。
まだ起きたことを客観的なレベルにまでは整理できていなくて、説明はあちこちに飛んでしまったり、脱線してしまったりしたが、八木さんはじっと聞き続けてくれた。
そのおかげで、言いたいことは全て吐き出せたと思う。
気付けば、時刻は五時を回っていて。
雲に覆われた空も、さっきよりは幾分明るさを取り戻していた。
永射さんの事件のときと同じ。また、八木さんに負担をかけてしまっている。
このいざこざに片が付いたら、何かお礼をしなくちゃいけなさそうだ。
「……病院の闇、か」
これで全てです、と私が語り終えてから、八木さんはまず、ポツリとそう零した。
「そうだね……私も疑念を抱かなかったわけじゃない。牛牧さんが意思決定をしているならともかく、今では貴獅さんや永射さんが病院や街そのものの舵取りをしているのに、慈善事業的な傾向が強いとは感じていた」
「八木さんから見てもそうなんですね」
「まあ、実際のお金の動きは分からないけども。何かしらの補助金が下りているとか、そういった初期投資できる理由があるのかもしれないし」
街が発展してから稼いでいければいい、それまでの猶予期間があるというなら筋は通る、か。
だから、筋が通らない場合は隠された別の理由がある、という可能性が出てくる……。
「しかし、にわかには信じられない。いっそ、龍美さんの体験したことが全て幻想だったらとすら思えるくらいだよ。早乙女さんが、死んだなんて……」
「……間違いなく、死んでましたよ。だって私は……あの人の、内臓を」
そこまで言って、内臓を掴んだ感触がリアルに蘇ってきた私は、吐き気に襲われて言葉に詰まる。
異変を察知した八木さんは、大丈夫か、と声をかけてくれた。
「……すいません。思い出さなくても大丈夫だからね」
「ごめんなさい」
「謝る必要もない。……そうか、早乙女さんが」
八木さんにしてみれば、信じられないのも当然だ。私が嘘を吐いているという方が、まだ現実味がある。
早乙女さんが、内臓を引き摺り出されて殺された? そんな非現実な惨劇が、永射さんの事件に続いて起きるなんて考えられるだろうか? 普通は、有り得ない。
有り得ないことが、起きているのだ。
「もう少しして、街の人が起き出したら……早乙女さんも発見されるんだろう。待てば情報は入ってくるか」
「ええ……永射さんのときと同じように、早乙女さんがいないってなって、探して……見つかるんだと思います」
きっと、朝のうちには発見されるだろう。残虐な装飾を施された早乙女さんの遺体は。
第一発見者が、また玄人になったりしないことは祈ろう。
「八木さんは、どう考えますか。今回の事件……それに、病院のこと」
「うん。今の話を全て事実とした場合、永射さんの事件と早乙女さんの事件は繋がっている気がするね。永射さんは事故死とされているけれど、病院関係者が連続して死亡したのはかなり怪しい。二人を殺害した犯人は、病院の昏い計画をその度合いまでは分からないけどとにかく知っていて、尚且つ阻止しようとしているように思える」
実験を行っている病院側の人間が次々と死亡しているので、そう考えるのが確かに妥当だ。しかし、秘密裡に進められている病院の実験を――私や虎牙ですら詳細は知らないのに――知悉している人間がいる、ということなのか。
ならば、犯人もまた病院の事情にある程度精通した人物な印象は受けるのだが……。
「怪しげな実験とは何か。それが分かるヒントのようなものはあるのかな」
「ええと……虎牙が小耳に挟んだみたいなんですけど、『WAWプログラム』という単語を貴獅さんが。略称なんでしょうけど、どういうものかは分からなくて」
八木さんがくれたパソコンを使っているとはいえ、ムーンスパローのことは私たちだけの秘密にしたかったので、虎牙が盗み聞きしたということにしておいた。実際、実験の話は永射さんと貴獅さんの立ち話に聞き耳を立てて知ったのだし。
「WAWプログラム、か」
「何の略か、八木さん分かったりします?」
私が訊ねると、八木さんはしばらく唸ってから、
「そうだね……プログラミングの用語として、ライト・アフター・ライトというものがある。ライトは書くという意味だから、Wから始まる方だね。その名前の通り、二つの命令による同一ヶ所への書き込みを表すものなんだけど、それと同じ意味だとはちょっと思えないかな」
「というか、ライト・アフター・ライトの意味だったとしたら、計画じゃなくプログラミングについて話してた、みたいになっちゃいますもんね」
結局、八木さんでも答えは導き出せそうにないか。取っ掛かりがほぼないのだから、導き出せというのも無理難題だよなあ。
「この側面から考えるのは難しいね。……龍美さんは、犯人の姿を少しでも見たりはしていない?」
「あのとき、突然頭痛に襲われて。早乙女さんが私に触れようとしたところで、意識を失っちゃったから……全然、他の人は見てないです。でも、さっきも言った通り、私には早乙女さんがいつの間にか鬼に変わって見えてしまって」
「頭痛と一緒に幻覚のようなものを見て、そのまま気絶か。仮説としては、犯人に背後から殴られたというのはある」
背後からの不意打ち。後頭部に強烈な一撃を喰らったがために気絶してしまったということか。私自身は一度も犯人の姿を見ていないし、突然のことに理解が追い付かなかったから、攻撃されたのをただの頭痛と認識し、おまけに脳への衝撃で幻覚まで見えた……と、八木さんの仮説はそういう感じだろう。
そう言えば、虎牙も永射さんを尾行中に気を失ったことを、誰かに殴られたんだろう、と予想していた。犯人が同一人物ならば、手口も同じだったのかもしれないな。
「有り得そうかな?」
「はい、鬼の祟りと思うよりはいいかなと。ただ……」
気がかりなことは、もう一つ。
意識を失う直前に見た、終わりの光景。
「最後に空を見上げたとき、黒いはずの空が、赤く見えたんです。それは気になって」
「……赤い空、ね」
これもまた、頭を殴られたことによる一種の幻覚だった可能性はあるけれど、赤い景色というのが言い知れぬ恐怖をもたらしていた。
そう、赤い景色。まるで、あの赤い瞳を通して見た世界のような。
ただの一瞬ではあったとしても、彼女と同じ……。
「幻覚か、或いは衝撃による出血も考えられるけど、そうだね……」
八木さんはそこで、私の方をしばらくじっと見つめたあとで、こう告げた。
「泣いたせいかと思っていたけど……少しだけ、龍美さんの目は充血している」
……その言葉は、私が最も教えられたくない事実だった。
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