うっかり忘れるところだったが、そう言えばお母さんから買い物を頼まれていた。ポケットに手を突っ込んで、財布と買い物リストがあることを確かめる。秤屋商店は、ここから南の方へ進めば五分ほどだ。
病院帰りらしい何人かの人とすれ違い、挨拶を交わしつつ、私はゆっくりと歩いていく。夏は陽が高いから、四時過ぎになってもまだまだ陽射しは明るく、とても暑かった。
十字路を左に折れると、秤屋商店が見える。今日も千代さんは元気に店の前に立っていて、買い物帰りの客を送り出していた。
「こんにちは、千代さん」
「あ、龍美ちゃん。こんにちは」
私が挨拶をすると、千代さんは胸元で手を軽く振りながら挨拶を返してくれる。
「お買い物かな?」
「お母さんに頼まれちゃって。人使い荒いから」
「はは、そんなこと言わない。美味しいご飯食べさせてもらってるんだから」
「ま、そですね。お釣りももらえるし」
お金に釣られたのがよく分かる発言だったが、しまったと思ったときにはもう遅く、千代さんに笑われていた。
「で、今日の献立は?」
「シチューね。ビーフシチューのルーってはっきり書いてるもの。大事なもの忘れてるんだから」
「案外そういうものよ。あると思ってるものが実はないってこと、よくあるんだから」
お、千代さんにしては良いことを言う。確かに、そういう経験は私もよくあるかもしれない。
「まあ、八木さんがよく言ってることの受け売りだけどねー」
なんだそりゃ。感心して損した。
「よくこの店に?」
「機械部品に限らず、食料品なんかもよく切らしちゃうんだって。まだ大丈夫と思ってたんだけどって何度も聞いたわ」
「あの人、無頓着ですからねー」
研究熱心なのは真面目でいいところと言えるが、私生活をもっと充実させてほしいものだ。もう三十代らしいが、こんなところにいたら結婚だって危ぶまれるだろうし。
千代さんは……二十歳だから、八木さんとはちょっと合わないよね。
「八木さんって、昔はいくつも論文を書いてて、それなりに名前は広まってたみたいなんだけど。こういう街にいると、そんな情報はキャッチできないわね」
「それは場所というより、関心の問題な気もしますけどね」
実際、私も八木さんが書いた論文なんて見たことはない。きっと、読んでも難しすぎて理解できなさそうだ。それが何となく分かっているから、自分から知ろうと調べてみるようなことはしなかった。
「今はもう書いてないんですかね?」
「さあ……でも、こんなところにいたら、発表も出来ないんじゃない?」
「千代さん、結構満生台のこと悪く言いますね」
「えー、そうかな。まあ、都会に比べちゃうとやっぱりまだ見劣るし、かといって自然み溢れるってわけでもないし。途上の街よ、ここは」
「それは否定しませんけどねー」
途上の街、か。この街が最先端の技術を備えた医療都市になれる日は来るんだろうか。そんな日が来るのなら、一住民としてここにいたいものだけれど。
「ちなみに、八木さんだけじゃなくて、久礼さんも論文が有名になって、いくつかは出版されたって話も聞いたことがあるわ」
「ほえー。そりゃ、お医者さんですもんね。学校でも勿論書かされるだろうし、学会とかもあるんだろうし、書いてないわけがないか」
「噂だけど、ちょっとお医者さんらしくない論文まで書いてたそうよ。洋子さんが言ってた」
「お医者さんらしくない……?」
それはどういうものだろう。ひょっとしたら、イグ・ノーベル賞的なやつだろうか。目の付け所が変というか、そういう論文。
などと勝手に思っていたら、千代さんが口にしたのは、もっと意外なものだった。
「うーん。なんでも、残留思念についての考察だとか……」
「ん……ザンリュウ……シネン?」
専門的な医療用語かと一瞬勘違いしたが、明らかにそうではなかった。私でも知っている言葉だ。ただ、医療関係ではなく、オカルト関係で。
「信じられないでしょ。私も洋子さんが間違えてるんじゃないかと思ってるんだけどねー、それか、別の人のが紛れ込んでたか。著者名が久礼貴獅って書かれてなかったみたいだし、その可能性も高そうだわ」
「私も、流石に違うと思いますよそれは」
あのいつもポーカーフェイスで、見るからにリアリストな久礼さんが、残留思念なんてものを研究対象にするとは、信じがたい。それが実は、ということもなくはないだろうが、あまり有り得そうにはなかった。
「あはは、龍美ちゃんがオカルト好きって聞いてたから、つい余計な話しちゃった」
「って、誰から聞いたんですかそんなこと」
「これ以上口を滑らせたくはないんだけどなー。可愛いお姫様に、ちょっとね」
十分滑らせてますけど。……満雀ちゃんだったか、やはりもっと籠絡しないと駄目かな、なんて。
「こうして店番してると、色んな人の色んな話が聞けて面白いわ」
「千代さんの天職なんじゃないですか? 私はそう思いますよ」
「はは、お父さんの後を継がされただけだったけど、何だかんだで性に合ってるのかもしれないな。ちょっと、ホッとしてる」
そう話す千代さんの言葉には、嘘偽りはないようだ。眩しいばかりの笑顔を浮かべているのだから。
「お父さんも、お前なら安心出来るって言ってくれたし。こうなったら、この身が持つまで頑張ってかなっくちゃね」
「贔屓にしますからね」
と言っても、街に他のお店なんてないんだけど。
「ありがと。長話になっちゃったね。時間は大丈夫?」
「ええ、全然問題ないですよ。んじゃ、さっさと買い物して帰ります」
「どうぞどうぞ、遠慮なく見てってね」
「はーい」
それからすぐに買い物リストを引っ張り出して、商品を集めていったけれど、結局買い物にかかった時間は、話し込んだ時間の半分ほどでしかなかった。千代さんと盛り上がると、どうしても長くなってしまうなあ。
代金は千二百円ちょうどだったので、八百円の儲けだった。嬉しさが顔に出ていたのだろう、お釣りをもらうときに千代さんが笑い出しそうな表情になっていたのが恥ずかしかった。でも、私は八木さんと違ってポーカーフェイスを気取れないのだから、仕方なかった。
こうして長い外出はようやく終わり、私は小さな買い物袋を提げて、愛しの我が家へ帰り着くのだった。
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