――ズウゥ……ン……――
頭の中で、微かに響くもの。
それは、鬼の唸り声か、それとも。
――ズウゥ……ン……――
……私には理解のできないもの。
ただそれは、私の脳を食い破りそうなほどの、痛みを伴って――
「……う……うぅ……」
耳鳴りがするほどの頭痛に、私の意識は覚醒した。
地面を叩く雨の音が、やたらとうるさく聞こえてくる。
冷たい床。冷たい雨。
私は、降りしきる冷雨の中で気絶してしまっていたようだ。
記憶が混乱して、直前までのことがすぐに思い出せない。
確かそう、私は……。
――鬼。
目の前に、鬼がいた。
あれは、見紛う事なき本物の鬼だった。
私は、鬼の魔の手から逃れるために、必死で抵抗して。
割れんばかりの頭痛に負け、意識を手放したのだ。
……体が酷く冷えている。
水たまりの中、俯せで倒れていたのだから当然だ。
全身は最早、下着までずぶ濡れでどうしようもない。
後で風邪を引くのは覚悟しておかないといけないだろう。
……それにしても……。
嫌な臭いがした。
生臭く、鼻につくような臭いだ。
空はまだ闇夜。私が気絶してから、それほど時間は経っていないのか。
暗過ぎて、ほとんど何も見えない状態だった。
せめて、スマホのライトを。
そう思い、私は俯せのまま手探りでスマホを探す。
傘は近くにあるようだが、スマホは見つからないし、WAWプログラムの計画書もない。
ああ、もしかしたら早乙女さんに奪われてしまったのかもしれない――。
「――え……」
手が、何かを掴んだ。
ぐにゃりと、奇妙な感触。
力を込めれば、潰れてしまいそうなほどの柔らかさで。
気味の悪いぬめりがあって。
「ひッ!?」
細長い管のような。
蛇腹状のそれは。
壁に寄りかかった何かからはみ出たもの。
脳がそれを理解することを拒絶する。
けれども、一度動いた視線はハッキリと映像を捉え。
私はそれが。
早乙女優亜さんの死体であることを、認識した。
「嫌ああああぁああああッ!!」
壁にもたれかかる早乙女さんの亡骸。
苦悶の表情を浮かべたその腹部には。
ざっくりと大きな裂傷があって……そこから内臓の大部分が、はみ出していた。
だから、私が闇雲に掴んだのは。
早乙女さんの臓器で……。
「やだ、やだやだ……嫌……ッ」
目の前の光景を受け入れたくなくて、両手で顔を覆い。
その血腥さで、私は更に悲鳴を上げる。
臓器を掴んだ私の両手は血に染まり。
その手で触れた顔さえも、真っ赤に染まったことは明白だった。
「ああぁあ……!」
嗚咽を漏らしながら、私は水たまりで両手を洗う。
でも、洗っても洗っても。
赤い色は綺麗には消えなくて。
ああ、そうなんだ。
この水たまりには、もう沢山。
彼女の血が混じってしまっているんだ……。
――何で? 何がどうなって、こんなことに?
先ほどまでの頭痛は鎮まってきた。
けれど代わりに、訳の分からない異常事態に気が狂いそうになる。
目の前が、赤い気がする。
それは、意識を失う直前も同じだった。
「……落ち着け」
雨が、私を洗い流す。
雨が、私の頭を冷やす。
どうしてこうなったのか、考えなくてはならない。
私がこんな状況に陥った訳を、理解しなくてはならない。
私は近くの壁に背を預けて、座り込む。
それから、状況整理を始めた。
――早乙女優亜さんが、死んだ。
それだけは確かなことだ。
如何に否定したくとも、明白な証拠が――死体が、目の前に倒れている。
血の海が、目の前に広がっている。
……早乙女さんは、地下室の鍵がないことに気付いたのだ。
だからあちこち探し回って、もしかしたらとここに来たのだろう。
そして、私が地下室から出てくるのを目撃した。
私が犯人だと思った早乙女さんは、更に私がWAWプログラムの計画書を持っていこうとしているのも察して、それを阻止しようとした……。
ここからだ。
突如として私は頭痛に襲われ、ふと顔を上げれば早乙女さんは鬼とすり替わっていた。
鬼は私に危害を加えようとするかのように手を伸ばし――私は震える両手で、それを振り払った。
後は、痛みのせいで意識を失い。
目覚めたときにはもう、早乙女さんは死んでいたのだ。
私の意識がなくなっている間に、全てが終わっていた。
――この手。
私が彼女の臓器に触れたのは、片手だけだった。
なのに、私の両手が血にまみれていた。
それは、何故?
理由は一つしかない。
私は意識がない内に、もう片方の手を血に染めるような何かをしたのだ。
「じゃ、じゃあ……」
有り得ない、と全力で否定したかった。
けれど、私の記憶は全くの空白だった。
だから、分からないのだ。
私が早乙女さんに危害を加えたことを、明確に否定する根拠がないのだ……!
意識がない状態で、私は彼女を殺したのか?
それだけでは飽き足らず、彼女の腹部を斬り裂いて、内臓を引き摺り出したのか?
そんな、馬鹿な。
そんなことが、有り得てたまるか……!
「……凶器」
そう、凶器が無いじゃないか。
私は気付いて、ぐるりと周囲を見回す。
やはり、ナイフなど切開に使われたと思しきものは見当たらない。
でも、その代わりに異様なものを発見した。
「……あぁ……」
壁一面にべったりと付けられたそれは。
早乙女さんの血液をインクにした、血の手形だった。
ボロボロに崩れ、煤けた壁の一定の高さに。
不規則に手形が付けられているのだ……。
――これは、私じゃない。
手形を見たとき、私は何故か確信にも似た思いを抱いた。
でも、それがどうしてだったのかは自分でも分からない。
ただ……多分だけれど、手の大きさとか、そういう雰囲気が違っていたのだ。
だから、あの手形が私の付けたものではないと直感した。
思えば、私のスマホも結局はどこにもないし、WAWプログラムの計画書だって無くなっている。
私が気絶している間に、第三者が来た可能性は極めて高かった。
私も、一歩間違えれば殺されていたのかもしれない……。
「……はあ」
辛さを吐き出すように、一つ溜め息。
私はこれから……どうすればいいだろう?
家族に助けを求める? それでもいいとは思う。
でも……この状況では、私が早乙女さんを殺したと疑われるのは確実だった。
手形も雰囲気が違うように見えるだけで、私の犯行を客観的に否定するまでの材料にはなりそうにない。
例えばこの瞬間を誰かに目撃されれば、私は完全に黒と認定されるだろう。
ああ……そうなんだ。
私は今、虎牙と同じような状況に立たされたのだ。
――帰れない。
虎牙は、親代わりである佐曽利さんを頼っていた。
でも私は、両親に全てを打ち明ける気にはなれなかった。
決して信頼していないわけじゃない。もう一人のタツミとして、愛されていることは理解している。
だから……だからこそ、迷惑をかけたくなかった。
姿を晦ましたところで、それも迷惑をかけることにはなるだろう。
けれど、娘が殺人犯かもしれないのに、匿い続けなければならない方が絶対に負担だ。
そこまでのことを、両親にはさせられない。
私は……あくまでも仁科龍美。本当の娘の、コピーなのだから。
ふらりと、私は立ち上がる。
濡れ鼠になった体で、それでも傘は差して。
闇夜の中を、ゆっくりと歩き始め。
今は途方も無く遠くに感じる我が家を目指すのだった。
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