私が観測所に戻ったときには、まだ八木さんは帰っていなかった。インターホンを鳴らして不在であることを確かめた私は、嬉々として静脈認証を試してみたのだった。
指を置けば意外に早く、ゲストアカウントの認証が完了する。カチ、という音がして、観測所の入口扉が私の進入を許してくれたのは感動的だった。
扉を開き、電気の灯っていない観測所の中へ入る。いつもは八木さんが必ずいるので、無人の施設内はなんとなく新鮮に感じた。
時刻は二時過ぎ。虎牙と久々に話すのはあっという間だったけれど、時間はきっちり進んでいる。これ以上外で活動をするつもりはないが、さて何をしようか。
こういう時間を利用して、製菓にでも挑戦してみようかと考えたところで、入口扉の方から電子音がした。
八木さんが帰ってきたようだ。甘味を振舞う余裕はなかったか。
「ただいま。龍美さんの方が早かったんだね」
「おかえりなさい。まあ、八木さんよりは近いところに行ってたんで」
「虎牙くんには無事に会えたかな?」
「はい、おかげさまで。そうそう、虎牙が八木さんに頼みごとをしてきたんですよ」
「頼み事?」
小首を傾げる八木さんに、私は虎牙の言葉を伝える。
簡単に鬼封じの池を探検したときのことも説明したが、池にそんなものがあると知らなかったのだろう彼は、真剣な表情で何度も頷いてくれた。
「なるほど……鬼封じの池にある廃墟、か。この事件に関わってるかどうかはともかく、謎なのは確かだね。虎牙くんが私を伴って探索したいというなら、特に断る理由はないよ」
「あ、ありがとうございます。あいつ、いけ好かない奴だけど……怒らないでくださいね」
「ふふ、それは大丈夫だと思うよ」
八木さんは、夜になれば佐曽利家に電話を掛けて、それとなく明日の探索を了承したことを伝えると約束してくれた。
これでメッセンジャーとしての役割は完了だ。
「それから、私もあいつに頼まれごとをしちゃって。道標の碑を数えることになったので、明日八木さんが出掛けるタイミングで私も出掛けます」
「道標の碑を? それもまた面白い頼みだね」
「あいつもあいつなりに、解きたい謎があるっぽいんで」
私の答えとあいつの答え。
それがどこかで交差するのか、或いはどちらかのみが正しいのかはさっぱり分からないが。
道標の碑が立つ場所を記した地図は、私の部屋にある。八木さんには夜になったら取りに戻ることを伝え、許しを得た。
ただ、人気がないのは良いことでも悪いことでもある。もしも犯人が次なる事件を起こそうと画策し、夜闇を彷徨い歩いていたら。再び事件に巻き込まれる可能性も、私自身が殺される可能性もゼロとは言い切れないのだ。気を付けなくては。
「……で。八木さんの方は、どうでした?」
「ああ、うん。理魚ちゃんのご両親には、話を聞いてきたよ。尤も、お見舞いに行くということだったんで、早めに切り上げはしたけれど」
ご両親も今回の事件は相当のショックを受けたことだろう。普段でさえ、制止をよそにふらふらと外を出歩いてしまう理魚ちゃんが、よりによって病院の入院患者に危害を加えた上に、屋上から飛び降りるだなんて。
二人の気持ちを考えると、胸が苦しくなる。
ともあれ、八木さんの報告は長くなりそうだったので、時刻も三時に近いことから、私はアイスコーヒーを二人分作って話のお供にする。
席についてさあどうぞ、と八木さんに示すと、彼は一つ頷き、河野家で見聞きした情報について私に語りだした。
「……理魚ちゃんのご両親、父親は清さん、母親は美鳥さんというのだけど、二人はやはり精神的に参ってしまっていてね。それがむしろ、私のような赤の他人に話をしてくれる理由にはなった」
「話さないとやってられないって状況なんでしょうね」
誰でもいいから、この苦しみを分かってほしい。
ご両親はそんな風に嘆いているのだ。
いつからだろう。多分、この事件よりもずっと前から、思っていたんじゃないだろうか。
「あまり知られてはいないのだけど、河野さんたちは満生台の地元住民でね。他の住民たちがそうであるように、病院に対しては元々肯定的だったわけではないそうだ。ただ、河野家が他と違うのは、理魚ちゃんがいたということだった」
話によれば、理魚ちゃんは生まれながらにして喉に機能的な問題があったという。そのため声を発することも困難で、正確な発音で話すことなどは不可能と言えるほどだったらしい。
「ところで、鬼の伝承には邪鬼という鬼がいるね。これは人々を狂わせる鬼とされている。地元住民はその昔、『狂い』の解釈を何らかの身体障害、または精神障害という意味にもとっていて、特に戦中戦後には、そのようにハンディキャップを負って生まれた赤ん坊をいなかったことにするという恐ろしい悪習があった」
「あ……それは、玄人から聞きました。彼も瓶井さんから聞いたみたいですけど。やっぱり、その時代のことは本当なんですね」
「残念なことに。しかし、その悪習も現代ではようやく反省すべき歴史という認識になり、理魚ちゃんはむしろ庇護すべき存在として満生台の人々に受け入れられたわけだ」
そうか。もしも旧弊的な考えが地元住民たちに根付いていたならば、理魚ちゃんはその誕生すら無かったことにされていたかもしれないのだ。
如何に伝統を重んじる住民たちでも、易々と人命を奪い去るような風習だけはあってはならないと見解を一にしてくれたからこそ、理魚ちゃんは生きられるようになった……。
「そんな理魚ちゃんにとって、満生台に設立されることとなった医療センターは救いの手だった。とりわけあの病院は、身体的な問題に解決策を見出すのを得意としているわけだから。地元住民は反対派が多かったけれど、河野家は理魚ちゃんの喉が治るならと、病院を頼らざるを得なかった」
そして理魚ちゃんは、満生総合医療センターで手術を受けた。
家族と、他の誰かと当たり前に会話ができる未来のために。
「……でも、ご両親の願いは届かなかった。治療自体は特に問題なく終了したそうなんだが、どうしても彼女は言葉を発することができなかったらしいんだ。更に悪いことには、術後から理魚ちゃんには、意識障害のようなものまで現れるようになってしまった。ぼうっとしたままどこかへ歩き去ってしまったり……ね」
「それって、病院に落ち度があったんでしょうか。実は隠れた手術ミスがあったとか」
「そこまでは。病院側は、必要な処置をしたとの一点張りだったようだ。しかしそれでご両親が納得できるはずもない。以来二人は、ずっと病院に不信感を持ったまま、奇妙な後遺症を負ってしまった理魚ちゃんをずっと育ててきたというわけだ」
どれだけ病院側が上手くいったのだと説明しても、術後の経過がそれでは、ご両親が納得しないのも当然だ。というか、本当に病院でさえ掴めない何らかのミスが起きていたとしてもおかしくないような結果だと私は思う。
……或いは、掴めていても隠さざるを得なかったとか。
「……八木さん。もしもなんですけど」
「うん?」
「理魚ちゃんの意識障害が、意図的なものだったりする可能性はあるんですか?」
考えがまとまらない中で、何とか絞り出した言葉。それを聞いて、八木さんは顎を手で撫でながら、
「そうか、やはり龍美さんも勘繰ってしまうんだね。そこに病院側の意図が絡んでいると」
「ということは、八木さんも?」
「根拠のないことではあるけれど……これまでの話を整理すると、一つ考えられることがある」
でもそれは、救いのない可能性。
悪意に満ちた、惨過ぎる可能性なのだ。
「いまだ全容を掴めていない、病院の計画。理魚ちゃんはその実験台になったのではないか……」
WAWプログラム。盈虧計画。
謎に包まれたその計画は、しかし決して表には出せないものに相違ない。
結びつけるのは強引かもしれないが、もしもWAWプログラムの実験によって、理魚ちゃんがあのような状態になり、それを隠さざるを得なくなったのだとしたら。
「病院は――貴獅さんたちは、人体実験をしてる……?」
八木さんは、無言を貫く。
その無言は、肯定と同義だった。
あまりにも恐ろしい仮説。
だが、私はそれを馬鹿馬鹿しい冗談だと笑い飛ばすことは、できなかった。
*
夜になり。
虫たちの鳴き声が響く森を、私は静かに下りていく。
心の騒めきは、あれからずっと消えない。全てを悪い方に考えていくと、病院の存在がたまらなく悍ましいものに思えてならなかった。
誰にも見つかりませんように。私はそう祈りながら、街の中を駆けていく。
こんな夜に貴獅さんにでも出くわしたら、それだけで心臓が止まるだろうなと思った。
街灯のほとんどない道路。温かな家々の光にも照らされないよう気を付けつつ、私は我が家まで南下してくる。そして側面に回ると、自室の窓に手を掛けた。
……よし、開いてる。
両親が調べなかったのか、或いはあえて開けておいてくれたのかは分からないけれど、とにかくありがたい。私は音を立てないよう窓を開き、靴を脱いで室内へ入った。
虎牙からの頼みごと。道標の碑を数えるという役目。
それを果たすために、あの地図を引っ張り出さなければならない。
勉強机の棚の中。確かそこにあったのを、一週間くらい前に見ていたはずだ。
記憶と同じ場所に、その地図はちゃんと挟まっていた。
――やっぱり、北側が真っ新ね。
街に存在する碑の数は正確に記せていたはず。それで大半は占めていそうだが、はてさて山中にはどれくらいの碑が立っているのやら。
八月二日がエックスデーだと虎牙は考えているし、できれば明日中にこの分布図を完成させたいものだ。
用が済んだので、私はさっさと家から引き上げることにする。名残惜しい気持ちがないわけではなかったが、長居は無用だ。
余計な混乱をこの場で与えるようなことはしたくない。区切りがついたら、まとめてごめんなさいと謝ろう。
――ちゃんと戻るからね。お母さん、お父さん。……竜美お姉ちゃん。
愛しい家族。用意されたその席へと、必ずまた。
私は誓いを胸に、再び夜の闇へ紛れていく。
こうして七月最後の夜は、静かに過ぎていくのだった。
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