目の前の濁流を前に、バラギットはただただ立ち尽くしていた。
かくなる上は、潔く戦って死ぬか。あるいはこの濁流の中を泳いで渡るか。
我先に逃げ出した味方の兵たちは、濁流に身を任せ、無謀にも泳いで渡ろうとしている。
おそらく、そのほとんどは溺れ死ぬか、途中で力尽きやはり溺れるかするのだろう。
そのような惨めな死に方をするくらいなら、せめてライゼルに一矢報いたい。
背後に目をやると、追撃するライゼル軍の中に、見覚えのある鎧姿があった。
あれは、バルタザール家の家宝の鎧だ。
こちらの軍を殲滅するべく、ライゼル自ら出張っているのだろう。
ならば、ここでライゼルを討ち、最後に一花咲かせるとしよう。
剣を抜くと、鎧を身にまとったライゼルに向き直る。
「ライゼル……覚悟っ――はぁ!?」
斬りかかる寸前、間抜けな声と共に動きを止めてしまう。
鎧を着ていたのは、ライゼルとは似ても似つかぬ糸目の男で……
「誰だ、お前は……」
「あ、自分、アナザってもんっす。Aランク冒険者をやらしてもらってるっす」
――いや、本当に誰だよ。
遠目からは間違いなくライゼルだった。
しかし、実際はこのアナザという男がライゼルの鎧をまとい、戦場を駆っていたのだ。
つまり、この男はライゼルの影武者で、自分はこの男をライゼルだと思い込み、策を練っていたわけだ。
「……はは」
目の前の現実に、バラギットは力なく自嘲した。
……なんということだ。これまでの自分の分析は、まったくの的外れだったというわけだ。
戦意をなくすバラギットに、アナザが剣を構える。
「……そういうアンタは名のある首と見受けるっすけど、どうっすか?」
「……っ!」
アナザから向けられた殺気にバラギットが身構える。
この男の実力が本物だとしたら、おそらく自分では太刀打ちできないだろう。
そうでなくとも、この圧倒的に不利な状況では、生きて帰ることも難しい。
せめて最後に一矢報いたかったものだが、それさえ叶わないというのか。
「ちくしょう……この俺が、ライゼルなんかに……。あんなハッタリ野郎に負けるなんて……」
「……?」
「勝てるはずだったんだ。どれだけ策を巡らせようと、ライゼル本人に力があろうと、俺が……。金はあった。兵士だってあった。入念に準備を重ねていた。なのに……なんであんなやつが勝てるんだ! 俺に何が足りなかったっていうんだ!」
バラギットの悲痛な叫びは続く。
「あいつに勝てるだけの策を練られるようになってから戦えばよかったのか!? あいつよりも剣の腕前を挙げてから挑めばよかったのか!?」
「……アンタ、ボスのことまったくわかってないっすね。頭がいいとか、腕が立つとか、そんなのは全部おまけなんす」
「なに……!?」
「みんなボスが大好きだから、ボスの元に集まって、命賭けて戦うんす。ボスを死なせたくないから、命張って戦おうって思えるんす」
アナザの言葉で理解した。そうか、ライゼルにあって自分にないもの。それは――
「人望、か……」
「や、それもちょっと違くて……なんていうか、ほっとけないんすよね。頭いいくせになーんか危なっかしくて、そのくせ妙に情に厚いっていうか……」
「それを人望があるというんだろ」
「……そっすね」
語る言葉は尽くしたとばかりに、どちらともなく剣を構える。
やがて、アナザの剣先がバラギットの首筋を捉えると、一刀の元に切り伏せるのだった。
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